週末は娘を連れて和歌山の田舎に住む夫の祖母の家へ行ってきた。娘にとって曾祖母になるその人は、来年早々に100歳を迎える。あちこち弱っていて寝こみがちだと言うものの、いまだ畑に出る達者な婆様だ。
電車を乗り継いで一路和歌山へ。途中、半分ほど散ってしまった山桜を沢山目にした。菜の花畑も沢山。夫の従兄に駅まで迎えに来てもらって義祖母宅へ。
義祖母は以前、お会いした時よりも少し小さくなったようにも思われたが、それでも皺の深い顔をクシャクシャにして出迎えてくれた。産まれてから1年に満たない娘と、あと1年足らずで100歳になる義祖母。義祖母に娘を抱いてもらって写真を撮りながら「2人合わせて1世紀か…」なんて事を思った。
100年という時間を目の当たりにしたような…ちょっと不思議な気分だった。
義祖母は曾孫を堪能した後「昼寝をするから」と早々に離れに籠ってしまわれた。私達は母屋でもてなしを受けた。「昼食を済ませて行きます」と連絡したのだけれど、食卓には都会で食べる2倍くらいの大きいいなり寿司が沢山用意されていた。他何も苺にケーキ、イカを焼いた物などご馳走が一杯。ご馳走を戴きながら、義祖母と一緒に暮らしている叔父や従兄とお喋りなどして楽しい時間を過ごした。
帰りには地元で取れた清見オレンジやデコポンをどっさりお土産に持たされる。帰る間際に離れに引っ込んでしまった義祖母に挨拶に行ったら「私もお土産を用意したから」と包みを渡された。中には時も手で取れたキノコと筍。それに蜜柑とサバの缶詰が入っていた。義祖母に挨拶した後、従兄が気を利かせてくれて「缶詰はどこで買えるし重いから、置いて帰りなよ」と缶詰を袋から出してくれた。
「お土産に缶詰」なんて今の感覚だと不思議に思うのだけど、ずっと田舎で暮らしてきた義祖母にとっては今でも「ご馳走」なのだろう。孫と曾孫に美味しいお土産を持たせてくれる義祖母の気持ちがとても嬉しかった。
子供は国の宝だと言うけれど、長生きしているお年寄りもまた宝だと思う。子供の頃は「お年寄りが宝」と言う感覚は全く理解出来なかったものだけど。義祖母は100歳まで生きたいと言う。義祖母の願い通り、これからもお元気で長生きしていただきたい。
回は義祖母に娘の顔を見せるのが目的だったけれど、従兄達とのお喋りも楽しかった。遠くに暮らす親戚とは、そうしょっちゅうは行き来する事が出来ないけれど、家族揃ってまた遊びに行きたいなぁ……なんて思いつつ、今日の日記はこれにてオシマイ。
2008年04月11日(金) |
「初恋」と「初好き」 |
夫と娘の将来について話をしていて「この子もいつか誰かを好きになったりするんだろうねぇ」なんて流れになった。近所の母親先輩達から「今の子はおませだからバレンタインデーはなかなか熱いよ」なんて話を耳にしたりする。娘はまだ赤ん坊で、そんなことを考えるのは早過ぎるのだけど気にならないと言えば嘘になる。
と、夫が面白いことを口にした。「俺、思うんだけど『初恋』と『初好きは』は違うんじゃないかな」
初好きなんて言葉、聞いたこともないけれど、夫の言いたいことは一瞬で理解することが出来た。「初恋」と「初好き」その2つは似ているけれど微妙に違う。例に上げて言うならこんな感じだろうか。「○○くん(さん)が好き。大きくなったら結婚したい」と素直に口にするのが初好き。「○○くん(さん)が好き……だけど、そんなの恥ずかしくて言えないや」ってのが初恋。初恋は、初好きには無い「切なさ」というトッピングがあってこそ成立するような気がするのではないかと。
「娘の初好きには動揺しないだろうけど、初恋となると動揺するだろうなぁ」と夫。成長した娘がどんな恋をするのかなんて想像もつかないけれど、きっといくつかの恋をするのだろう。もしかしたら、たった1つの恋かも知れない。どちらにしても、たぶんそれは素敵なことだ。
夫とそんな話をしていて、自分の「初好き」や「初恋」のこと、そして数少ない恋のことを思った。それらは心の秘された部分に追いやられているけれど、いまだ決して色褪せることはない。
私の傍でキャッキャと声を上げて笑う娘に、いつの日か切なさに涙する日が来るのかと思うと不思議な気がする。娘が両親以外の誰かを好きになったり恋しく思ったりする日まで「お母さん大好き」を楽しませてもらおう……って事で今日の日記はこれにてオシマイ。
昨夜は春の嵐という勢いで風雨が激しかったけれど、今日は午前中になって快晴とはいかないまでも、なんとか雨が上がったので娘を連れて買い物に。せっかく咲いた桜は昨日の風雨で半分以上散ってしまった。湿り気を帯びた桜の花弁がベッタリと道路に張り付いているのは、なんとも寂しい。
桜は散ってしまったけれど、気の早い花水木が1つ2つ花を咲かせていた。自然の木々や草花は無秩序に咲いているように見えて、自分達の出番が終わると、律儀にも次の主役にバトンを渡していく。春という季節はアッっと言う間に過ぎていくのだなぁ……なんてことを思ったりした。
最近、娘がお昼寝をする時は添い寝をするようにしている。娘はたっぷりお昼寝をする子では無いのだけれど、私が傍に張り付いていると比較的眠ってくれるのだ。娘を寝かしつけると時は、本と編み物セットを自分の頭の上に置いて、娘が寝たら一緒にお昼寝をしたり、あるいは本を読んだり編み物をしたりして時間を過ごしている。
今までは娘がお昼寝をしているスキに用事をしたりネットで遊んだりしていたのだけれど、添い寝をするようになってそれが出来なくなってしまった。不自由を感じる部分もあるのだけれど、午後の時間を娘とゆっくり過ごせるのは悪くない。
娘が産まれてもうすぐ6ヶ月。私の生活様式は娘の成長に合わせて日々変化している。娘を産む前は子育て中に自分の自由な時間が減ってしまうのは、さぞストレスだろうと思っていたが、やってみるとそんな事も無かった。気負わなくとも流れに沿っていけば、そのようになっていくものらしい。
今日も午後から散歩に出掛けて、娘と一緒に添い寝をする。今日の添い寝本は図書館で借りてきた大崎善生『スワンソング』。ネットで遊ぶ時間は減ってしまったけれど読書時間は格段に増えた。しばらくは、このペースで楽しんでいきたいなぁ……って事で今日の日記はこれにてオシマイ。
最近、娘と一緒に「家の前の集会」に参加することが多くなった。
我が家の前の道は車幅の広い自動車ならすれ違えないくらいの道幅で、車通りがほとんど無いため、近所の子供達の遊び場になっている。上は小学校4年生から下は1歳半までの子供達と、その母親達がワイワイ集って賑やかにやっていて、私と娘もその中の一員として参加している。
もっとも娘はそんな子供達と一緒になって遊べる訳ではないので、私に抱かれて彼らの遊びを目で追ったりしているだけなのだが、それでも充分に楽しいようだ。私も家に籠っているよりも、育児の先輩方に色々な話を聞けて楽しい時間を過ごしている。
娘と最も年齢が近いのは斜め向いの家に住む3兄弟の末っ子君。1歳半になる彼もまた、お兄ちゃん達の遊びにはついていけないのだけれど、それでもテトテト歩いてお兄ちゃん達を追いかけている。最初の頃、彼は自分よりも年下の娘を遠巻きに眺めていたのだけれど、このところ娘に興味を示すようになった。それどころか、娘のお世話をしてくれるのだ。
自分の玩具や宝物(石ころや葉っぱ)を「はい」と渡してくれたり、お兄ちゃんが道端に脱ぎ捨てたジャンバーを持ってきて娘に渡してくれたりする。わずか1歳半の幼子にも自分より小さくて弱いものを大切にしようという心が芽生えているのだなぁ。彼が娘のお世話をしてくれるたびに胸が熱くなってしまう。
誰に教えられた訳でもないのに、自分よりも小さくて弱いものを大切にしようとする……って事は、それが人間にもともと備わった資質なのかも知れないなぁ……なんてことを思う。性善説を唱えるつもりはないけれど、人間には温かく優しい心があるのだろう。大人でさえ弱者を労わることが出来ないことがあると言うのに、1歳半の幼子がそれを簡単にやってのけるのだと思うと、背筋が伸びる思いがする。
娘を育てるようになって「今さら」なことを思い出すことが多くなった。これは子供を育てることで得る二次的な収穫だと思う。幼子に教わりつつ、私も人として良い方向に成長したいものだなぁ……と思いつつ今日の日記はこれにてオシマイ。
週末は家族でお花見に行ってきた。夫はこの1週間、やたらと忙しくて草臥れ気味だったので休みはゆっくり家で過ごそうかという話もあったのだけど「桜は時期を逃したら見られないので」ということで決行することに。
朝早く起きて娘と夫の寝ている寝室を抜け出してお弁当を作り。買って済ませる…という方法もアリだと思いつつ、年に1度のお花見だからと張り切ってしまった。お弁当箱にギッシリおかずを詰め込み、お握りは1つ1つラップで包んだ。私自身、寝不足がつのっていて早起きはしんどかったのだけど、遊びに行く時のお弁当作りの楽しさは格別なものがある。
電車に乗って奈良県の
大和郡山城へ行ってきた。お城の天守閣は喪失して石垣しか残っていないのだけれど、お堀のぐるりに桜が植えられていている。大阪城ほどの混んでいなくて、ほどほどの人出で賑わっていた。桜の木の下にシートを広げて昼食など。風がふくと桜の花弁が散り、絵に描いたような桜吹雪を見上げてながらお弁当を食べた。
私達が楽しかったのは言うまでもないが、娘がいつにも増してしそうだった。お天気が良くて気持ちが良いと言うこともあったと思うが、周囲の楽しげな雰囲気に感化されていた部分もあったのではないかと思う。娘はシートの上でキャッキャと声を上げて寝返りをしたり夫に遊んでもらったり。
お天気も良く、桜も素晴らしく、文句無しのお花見だった。
私は毎日幸せに暮らしていると胸を張って言うことが出来るのだけど、日々の生活となると楽しいことばかりとは言い難い。憂鬱な日もあれば、嫌なことやしんどい事だって多い。だけど稀に「ものすごく楽しい1日」ってのがあって、そういう1日を過ごすと「また頑張ろう」と思えるのだが、週末のお花見はまさに「ものすごく楽しい1日」だった。
日々の生活はしんどい事も多いけれど、また頑張って過ごしたいなぁ……と思う。週明けの今日は生憎の雨模様。せっかくの桜が散ってしまうなぁ。また来年の今頃に家族揃って桜の花を楽しみたいものだと願いつつ、今日の日記はこれにてオシマイ。
桜とお弁当。お弁当はタコウィンナー・チーズはんぺん焼き・鶏と蒟蒻の甘辛煮・南瓜煮付け・アスパラの胡麻マヨネーズ・オクラと玉葱とエノキのカレー炒め・ミニトマト。おにぎり3種(梅干・おかか・ゆかり)
手紙が届くあてなど無いのに郵便屋さんが来るとドキドキしてしまう。
ネットが普及する前は趣味の友人と文通をしていたことがあるのだけれど、今はその彼女ともメールでやりとりするようになっている。もともと手紙好きなのでPCや携帯電話でメールをするようになっても、季節ごとに葉書を送ったり「ここ1番」と言うような大切な話がある時はペンを取ることもあるけれど、そう頻繁に手紙や葉書を書かなくなっている。
自分が書かないのだから手紙が届かないのは当たり前なのに、郵便屋さんが立ち去った後、ポストに入っているのがダイレクトメールや請求書だけだったり、あるいは何も入っていなかったりするとがっかりする。
春になってポカポカと暖かくなってくると無性に「お手紙が届かないかなぁ」と思ってしまう。たぶん大好きな絵本…アーノルド・ローベルの『おてがみ』の影響だろう。仲良し2人が肩を並べてお手紙を待っているあの場面は春の陽だまりの中じゃないかと思うのだ。作品の中に季節をほのめかす文章は無いのだけれど、あれは、とある春の日の出来事のような気がしてならないのだ。
昨日は友人から葉書が1枚届いた。今日は何も届かなかった。
桜の咲くこの素晴らしい季節になるとポストの前でボンヤリとお手紙を待っていたいような心持になる。現実はそうボンヤリもしている訳にはいかず、しかしそれでも郵便屋さんがくると「あっ」っと身構えてしまう。
娘がアーノルド・ローベルの絵本を読むようになるのは、まだ少し先の話だけれど、いつか暖かい春の日に娘と一緒にあの絵本を読みたいものだ。そして出来ることなら娘にもお手紙の楽しさを伝えられたらなぁ……なんて事を思いつつ、今日の日記はこれにてオシマイ。
先日、娘に親友が出来た。左手の人差し指だ。これまで指をしゃぶる時、何本もの指をガバーッっと咥えていたのだが、いつの間にか左手の人差し指だけを咥えるようになった。これからしばらくの間、左手の人差し指は彼女の良き友となるだろう。手持ち無沙汰で退屈な時、あるいは不安でたまらない時、左手の人差し指は娘を慰めてくれるに違いない。
毎日娘と向き合ってくらしている中で「素敵なお母さんになりたい」と思っていたのだけれど、最近は「逞しいお母さんになりたい」と思うようになった。成長するにつれ娘は逞しくなってきて、私に対する要求も高度に…そして獰猛になってきた。「遊んでくれ」「抱っこしてくれ」「外に連れて行ってくれ」エネルギーの塊のような赤ん坊とガッツリ向き会うには、こちらもタフでなければならない。
素敵でなくてもいい。逞しい母でいたい。
何人もの子供を連れて街を闊歩する母親の姿は後光が差しているように思える。しっかりと太って、あるいは痩せぎすの彼女達は決して美しいとは言えない。しかし我が子と向き合って育て上げている自信に満ち溢れていて頼もしいことこの上ない。
娘は成長途上な訳だが、私も母親として成長途上なのだと思う。まだまだ逞しいとも頼もしいとも言い難いけれど「逞しい母」を目指して頑張りたい。最近、ちょっとヨレヨレしているが娘が歩くようになる頃にはもう少し逞しくなっていたいものだ。今のところは逞しい母を目指して修行中というところ。
昨日のエイプリルフールは気のきいた嘘を付くことなく1日が過ぎてしまった。毎年、Web上にある何某かに騙されて「ムキーッ。やられたぁ」となるのだけれど、昨日はネットを繋いでいる時間が短かったため騙されることもなかった。少し残念に思う。来年は逞しくなって、気のきいた嘘をつきたいものだ……って事で今日の日記はこれにてオシマイ。