昨日は義兄一家に誘われて、日帰りで香川県までうどんを食べに行ってきた。
数年前から「讃岐うどん」が流行っているのは知っていたし、美味しい讃岐うどんを求めて行脚する人がいるのも知識としては了解済みだったけれど、義兄一家はまさに「そんな人達」だったらしい。誘われた時は「讃岐うどんにちょっぴりハマっている」程度かと思っていたのだけれど、かなり本気の讃岐うどんマニアで驚いてしまった。
「食事は食べずにきてね」という義姉の言いつけ通りに食事を抜いて、午前6時、迎えに来てくれた義兄の一家の車に乗って自宅を出発。岡山経由で一路香川県へ。最初のうどん屋に入ったのは9時半。結局5軒のうどん屋に連れて行ってもらった。
義兄一家は「うどん初心者」の私達夫婦の為に、タイプの違ううどん店を選んでくれていた。マスコミに露出して大人気のうどん店もあれば、それほどでもない店もあり。一般のうどん屋さんに製麺所。地元の人がほとんどの店……どれもそれぞれに美味しかった。香川県のうどんは、鰹節の出汁ではなくて、いりこ出汁。好き嫌いは別れてしまうと思うけれど、私はかなり好きな味だった。うどんは1杯100円前後。トッピングの有無で値段が変わる。1杯は少なめ。私は5軒中4軒食べて、1軒は夫のを横から味見させてもらった。思っていたよりも、たくさん食べられたのに驚き。やはり「小麦粉と水」というシンプルな材料で作っているから、胃腸への負担が少ないのだろう。
5軒、連れて行ってもらったけれど、全てのお店が美味しかった訳ではない。「これなら大阪でも充分なのでは?」というお店もあったし、超有名店なのに「そんなに美味しいかなぁ?」と首を傾げる店もあった。ただ「うどん感が変わった」ってほどに感激するほど美味しいお店があったのも本当の話。帰宅してから、自分達の行った店の評判をネットで検索してみたが、ある程度のレベルになると個人の好みが大きく左右するらしく、自分が美味しいと思ったからと言って、評価が高い訳でもないようだった。この辺の感覚はラーメンと同じなのかも知れない。
義兄一家は、何度も「うどん旅行」に来ていて「うどん日記」を記録していた。ビックリマンシールを集める感覚に、ちょっと似ている。うどんにハマる…って、大人の道楽なんだなぁ…と思う。うどん自体は安くても、交通費もかかるし田舎なので移動手段も必要である。しかも出向いたからと行って美味しい店に当たるとは限らないのだ。お金と手間暇、時間をかけて、記録をファイリングして……という過程に醍醐味があるのだろう。
美味しかったし、しかも楽しかった。「また誘って下さい」とお願いしたのは言うまでもない。
美味しいうどんを食べたのは勿論のこと、香川県の田舎びた風景も堪能できたし大満足の休日だった。今日は有休休暇を1日取って自宅で休養。すっかりリフレッシュすることが出来た。明日からまた頑張って働かねばなぁ……って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。
2006年11月18日(土) |
悩ましいかな「おせち料理」 |
気の早い話だが「おせち料理」をどうしようかと考えている。
私の実家は「おせち料理」を作らない家だった。亡父のお誕生日が元旦だったので、お正月…特に元旦は家族にとって「お父さんの誕生日」という意味合いが濃かった。亡父が「俺は結婚するまで誕生日を祝ってもらったことが無かった」とて、元旦は、おせち料理ではなく「自分のお誕生日の料理を希望したため、元旦から誕生日ケーキと亡父の好きな料理が食卓に並んでいた。なので、私には「母を手伝って、おせち料理を作った経験」ってのが皆無である。
夫に「おせち料理どうする?」と聞いたらば「夫婦2人だし、そんなに無理して作ることはないけれど、なんだったら数品作ってみたら?」とのこと。なにぶん初めての事なので、早めに心積もりしておかねば……と、おせち料理のレシピ等、ちょこっと検索してみた。
おせち料理って、地方によって中身が変わるようだけど、定番と言われるものは、普段食べているような物ばかりのような気がする。流石に、普段から黒豆を炊いたり、数の子を並べたりはしないけれど、高野豆腐だの蒟蒻だの小芋を煮たのや、叩きゴボウ、大根や人参のナマス、鶏肉やブリの照り焼きなんて、盛り付けが違うだけで定番メニュー。要するに「煮物+縁起かつぎ食品」ってことなのだろうか。
お客様がたくさん来る訳ではないので「どれを作る」のか悩ましいところだ。しかも重箱さえ持っていないし。悩ましい……実に悩ましい。義母にも相談してみるけれど、義母のおせち料理は年始のご挨拶をした時に戴くので、まったく同じラインナップってのもなぁ。
……とまぁ、そんな訳で頭を悩ませている訳だが、今日は自宅に籠ってHPをクリスマス仕様にしたり、読書録を書いたりして1日を過ごした。夫は友人とバーベキュー。本当は私も参加する予定だったのだが、病み上がりなので遠慮させてもらった。ちらし寿司の具を煮ながら(夕食はアッサリした物が良いとのことで)PCに向かうのもオツなものだ。
明日は義兄一家と四国にうどんを食べに行く予定。四国は寒いらしいので、暖かくして行かなくちゃなぁ……って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。
今週は風邪を引いて寝込んだりしたので、たいして働いていないはずなのに1週間がやけに長く感じられた。なにもかもが停滞していて家の中にポッカリ穴が出来たような錯覚を覚える。
先週の土曜日に購入したピンクの薔薇の花がテーブルの上で萎れかけているのを見て、ちょっと哀しい気分。途中で水切りをしたり水を変えたりしなかったのが悪かった。もっとも、そう思った時に手を加えれば良いのだろうけど。ひとまず今日までは「食事の仕度以外は何もしない」と心に決めたのだ。初心貫徹。じっと我慢。
夫は送別会に出席するとのことなので1人で夕食。自分1人のために手間暇かけて料理をするだけの気力も体力も無かったのでレトルトのパスタで簡単に済ませた。レトルト食品って、ほとんど使わないのだけれど、こういう時には便利だなぁ……としみじみ思う。割高には違いないけど、それなりに美味しい。
今日はあれこれ欲張らずに、お茶でも飲みながらクリスマスカードを書くつもり。型通りの事しか書かないだろうと思うのだけど、クリスマス前後「ポストに何か入っている」ってことに意義があるという方針で。長い手紙やメールなら、いくらでも書けるのだけど、文字数に制限のある葉書になると、心なしか肩の力が入ってしまって、思うような言葉が出てこないのだ。いっそメッセージ欄は真っ白のままで、カードだけ送ろうかと思うほどに。言葉というのは自分が思っている以上に不自由な物みたいだ。
さてさて。そろそろ炬燵に移動して(我が家はすでに炬燵スタンバイ済)、ぬくぬく温まりつつカードでも書こうかなぁ……って事で今日の日記はこれにてオシマイ。
風邪がようやく回復してきた。今朝、目が覚めて「あっ。やっと山を越したかも」と感じた瞬間の嬉しかった事と言ったら。
前回の日記で最近の病院はやたら薬だの点滴だのをしたがる云々…と書いたのだけど、きっちり点滴のお世話になってしまった。自分で治すのが1番だけど、薬の力ってヤッパリ凄いなぁ……と感激した次第。たぶん点滴が無ければ、もっと長引いていたと思う。
今日は仕事帰りに用事があって駅構内の書店に寄ったのだけど、ふと「前回書店に立ち寄った時の自分」ってのを思い出した。そういえば、あの時は「とにかく綺麗な写真集とか、画集とか、詩集とかそういうのが読みたい」と思っていたのだ。結局、駅構内の書店では好みの本が見つからずに購入しなかったのだけど、あの時すでに「疲れてますよ」のシグナルは出ていたのだと思う。うかつであった。
今回も夫が、あれこれ世話を焼いてくれたので助かった。「夫婦は病める時も健やかなる時も…」と言うけれど、私がへたばってしまう事の方が断然多い。不甲斐ない妻で申し訳ない。
今日はひさしぶりに「ちゃんした食事」を作った。夫に美味しいものを食べてもらわなきゃ…ってのも勿論の事だけど、私自身も病人職ばかりで、まともに食べていなかったので、しっかり食べて元気にならなくちゃ。台所に立って、あれこれ料理をしながら「そうそう。これこれ。この感じ」と、なんだかとても嬉しかった。
今週は仕事を休んだり早退したりと、あまり働かなかった訳だけどやたらと1週間が長く感じられた。それもあと1日。無理せず乗り切っていきたいなぁ……って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。
今日は仕事を欠勤してしまった。
無理すれば行けなくもなかったのだけど、仕事の山は昨日、片付けたので養生する事に。
今回の風邪は熱よりも胃腸トラブルが大変。身体は小さいながらも、食欲だけは人一倍の私も、吐き気と下痢にぐったり気味。おかゆだの、林檎だのがやけに美味しく、元気なら好物の食べ物が美味しいとは思えない。こう言う時は古式ゆかしく「おかゆさん」が良いと思う。
寝室にはテレビが無いので、本や漫画をボンヤリ眺めたり、うつらうつら寝てみたり。携帯から日記を書いてみたり。病人は寝るのが仕事…って事で、怠惰に過ごしている。
私がダウンして、夫はやけに張り切っている。気持ちは嬉しいけど、彼にも仕事があるのだし、急に寒くなったせいで体調を崩しやすい時期なので、ほどほどにして身体を休めて欲しいなぁ…と思う。
一昨日は懐かしい方からメールあり。当時の事を思い出して感慨に浸った。風邪のせいで意識がボンヤリしているせいか、ゆらりゆらりと打ち寄せる波のように過去の記憶が甦ってくる。知らぬ間に変質してしまった自分に気付かされて、誇らしく思うと同時に、ほんの少しばかり寂しさを感じた。
それはさておき、早く良くなって、バリバリ動きたいなぁ…って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。
冬が来るのに先駆けて風邪を引いてしまった。無念。
取り立てて疲労するような生活をしている訳でもないし、冷えないように気をつけていたのになぁ。昨日、日曜日は午後からグダクダだった。「こういう時こそ、しっかり食べねば」とて夕食の準備をしたものの、あまり食べることが出来なかった。胃腸にくる風邪らしい。
仕事が暇なら休むのに…と思いつつ出勤。マーフィの法則なのか、なんなのか昼休みが取れないほどに大繁盛の図面の山。なんとか定時で上がらせてもらって、スーパーでお惣菜を買い帰宅。近くの病院で薬を貰って帰ってきた。ひとまず薬を出すけれど、具合が悪ければ点滴においでとのこと。お世話になっておいて減らず口もなんだが、最近の病院は薬と点滴が過剰に好きな気がする。
いまの体調から推察するだに高熱が出たりすることは無さそうな雰囲気なので、このままジワーッっと治ってくれると良いのになぁ。今夜は早く寝よう……って事で今日の日記はこれにてオシマイ。
今日は元同僚と会ってきた。夫は「白蓮さんは(以前働いていた職場の)知り合いが多くて良いなぁ」と言うけれど職種は変わらないと言うものの、職場を転々とするのは良し悪しだと思う。所詮派遣は浮き草稼業。なんだか、こぅ……イマイチお尻が定まらない。だが、夫の言うようにこうやって知己は増えるのは嬉しいことだ。
元同僚は1年ほど図面描きをしていた会社の人で御年62歳の女性。。同僚…と呼ぶにはおこがましいほどの年長者なのだけど「先輩」ではないので、便宜上「同僚」と書いてみた。定年後も嘱託として勤務を続けているとのこと。「まだまだ人生これからよ」とて、元気の塊のような笑顔が印象的だった。
彼女は私が大嫌いな選挙活動に熱心な某宗教団体の信者さんだ。彼女は私に宗教的な事を勧めたいと思っているだろうと思うのだけど、1度新聞を渡された以外は、決して勧めてこないので、トラブル無く、お付き合いが続いている。私自身は新興宗教的なものを、こよなく憎んでいるのだけれど、宗教で友人を選別していたら、誰とも付き合えなくなってしまう。相手を尊重しつつ、自分の信念は守りつつ関係が続けられると良いなぁ……と思う。
「私が頑張れるのは信仰のおかげ」と言い切る彼女を見ていると、少し羨ましく思ったりした。
遠藤周作の『沈黙』のテーマではないけれど、もしも神のような存在があるなら、どうして人々を救ってくれないのか? どうして、このような世界を作ったのか? という疑問が納得出来ない限り何か1つの宗教を信じることは出来ないような気がする。宗教は魂の安らぎだ…と言う人もいるけれども、魂の救済よりも現金が欲しい時だってある訳だし。などと泥臭いことばかり考えているので宗教に縁が無いのかも知れない。
知人の訃報を聞いたばかりなので、今日はいつもより余計にそんなことを考えたりした。まだ、ちょっと頭がグルグルしている。
それはそれとして、久しぶりに会う年長の同僚が元気そうで何よりだった。「なんだか、ちょっと見ない間に可愛らしくなったみたいよ」と言われ、社交辞令だと思いつつも良い気分になってしまった。さてと。そろそろPCから離れて夫が帰宅するまでにお風呂に入っちゃおうかなぁ……って事で今日の日記はこれにてオシマイ。
【ちょっとしたお知らせ】
こんなのはじめてみました。
気の向くままに更新したいと思っています。
訃報ってヤツは唐突に訪れる。昨夜、ネットで知り合った年下の知人が亡くなったとの知らせを聞いた。しかも、あまり良い形ではない死だった。昨夜はまんじりともせずに夜を過ごした。
彼女は私とFと共通の知人で、何度か会い、飲み、そして数回個人的なメールのやり取りをしていたが「年下の友人」と呼ぶには希薄な関係だった。何故だか私のことを慕ってくれていて大型のワンコみたいに可愛らしい女性だった。7月から日記の更新が止まっていて「ネット以外の居場所を見つけたか、別の興味の方へ走っていったんだねぇ」と勝手に思っていたのだけれど、どうやらその時に亡くなったらしい。
「せめて、もう1度メールをしておけば良かった」なとど悔いは残るが、すべて「いまさら」である。それに私は彼女を抱え込んであげるだけの覚悟は無かったのだ。精神的に弱っている人と係わる時は全身全霊で対峙出来ない限り、中途半端に首を突っ込まない方が良い……と思っていたのだけど、果たして本当にそうだったのか……。それも、これも「いまさら」である。
彼女は、この場所ではないところでの知り合いで、そちらの繋がりの中で「せめてお線香を…」という話が出ているのだけど、まったく乗り気になれずにいる。ちょっと複雑な形で娘を亡くした親御さんの気持ちを……いままで彼女の死が知らされなかった事を考えるだに、そっとしておくのが優しさのように思ったりしたのだ。
「仏壇の前で手を合わせたって故人に通じる訳じゃない」って想いもある。「遺族の気持ちより自分の気持ちを優先させるのは自己満足に過ぎない」って考えもある。そんな話をFとメールでやり取りしたらばFからは「そういう問題ではないし、それを言い出したらお墓参りの意味だって無くなる」と言われて、それが普通の感覚なのだろうなぁ……と、ぼんやり思った。
お葬式も、お墓参りも生きている人を慰めるためにある行事だと思う。そう言えば私は実家に行っても父の仏壇には手を合わせないけれど、夫の実家の仏壇には手を合わせる。自分の亡父と夫の亡父に差を付けている訳ではなくて、乙女な母は、その類のことに執着のない人だけど、義母はそういう類のことを大切にする人だからに過ぎない。死んじゃった人よりも、生きている人を…って気持ちがどうしても強い。
信仰心が無いので「あの世」とか「仏」とか「神」の存在が信じられないのだ。死んでから手を合わせるよりも、生きている時に精一杯しておかねば……と思う。せめて自分が大切だと思う人には気持ちを出し惜しみしないようにしたい。
あれこれと思うことが多過ぎて1日中考えがまとまらずにいた。若すぎる知人の冥福を祈りつつ、今日の日記はこれにてオシマイ。
夫の実家から柿が山ほど送られてきた。
自宅の庭木の柿(渋柿を焼酎につけて渋抜きをしたもの)と、御祖母ちゃんちで作っている和歌山の平田種柿。それに、蜜柑と梨が少し。我が家は果物好きだけど、夫婦2人で食べるには、あまりにも量が多い。義母にお礼の電話をしたら「近所に分けてあげてね」とのこと。たぶん、そのつもりで沢山送ってくれたのだろう。昨夜は柿をいくつかのビニール袋に詰めて、今日はそれを配り歩いた。
配達先はご近所がほとんどなのだけど、1軒ばかり自転車で遠征。子供の頃に住んでいた家の近くに「柿と心中したいくらい柿が好き」なおじさん(と言っても血縁者に非ず)がいて、柿を見るとその人を思い出さずにはいられなかった。帰宅して家事よりも先に遠征したが、生憎お留守だったので郵便ポストにメモと柿を入れてきた。ポストを開けて、大好物の柿を見つけた時、彼はどんな顔をするのだろう。帰り道、想像しながらニヤニヤとしてしまった。
ごく稀に「○○を見ると○○さんを思い出す」って人がいる。干し柿を見ると亡くなった祖母を思い出すし、チューリップの花を見ると友人のFを思い出す。何かを見て誰かを思い出す時って、不思議と気持ちが温かくなるような気がする。
沢山あった柿をそれぞれのお宅に届けることが出来てホッっとした。お裾分けって戴くと嬉しいものだけど、配るのもけっこう楽しいものだ。なにげに良い日だったなぁ……って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。
最近、自分自身の行動に「度か過ぎているなぁ」と思うことが多い。
たとえば家事。結婚した当初の方が、もっとのんびりとしたペースでこなしていたように思う。家事に慣れてきて、段取りが良くなった分「もっと出来るのでは?」と熱中し過ぎている感がある。昨日など、仕事はそれほど忙しくなかったのに、帰宅してあれこれ張り切り過ぎたせいか、ベッドに入る頃には泥のように草臥れていた。気持ちよく生活するための家事活動なのに、これでは本末転倒である。
なんでも一生懸命に取り組むのは良いことだけど、やり過ぎは良くない。私の場合、この現象は別に家事に限った事ではなくて、ちょっと気になったり夢中になったりする事があれば、とめどなく突っ走ってまうところがある。たぶん、それは私の長所でもあると思うのだけど、いつまでも20代の体力をキープ出来る訳ではないので、自制するとも覚えていかないとなぁ……と思う。
何につけ、もう少しゆったりとした生活を心掛けたいものだ。
まずは、明日は食事の仕度を少し手抜きさせてもらうかなぁ。全力で突っ走るだけが良い訳ぢゃない。節度って物をわきまえて、自分を大事にしなくちゃなぁ……なんて事を思いつつ、今日の日記きこれにてオシマイ。
昨日は夫の御祖母ちゃんに会いに行って来た。
自宅から電車を乗り継いで2時間の旅。最近は御祖母ちゃんちから少し大阪側出来たニュータウンのおかげで随分と電車の便が良くなったらしい。夫に子供時代の思い出話をしてもらいつつ、御祖母ちゃんの家へ。御祖母ちゃんの家は紀の川の側。山の麓。柿の木と蜜柑の木に囲まれた昔ながらの日本家屋だ。向井潤吉の絵の題材になりそうな、そんな家。
初めてお目にかかる御祖母ちゃんは、鶴のように痩せていたけれど、腰も曲がっていなくてシャキシャキしていた。96歳と聞いていたけど、本当は97歳だった。耳が遠い以外は至って健康で毎日畑に出ているとの事。10年ぶりに会う夫に抱き付いて涙を零す御祖母ちゃんと、いつになく神妙な表情の夫のは傍で見ていて気持ちの良い、微笑ましい絵だった。
おじさんや従姉妹への挨拶と仏壇へお参りを済ませて、広縁に面した和室で、お膳を戴いた。田舎のお膳は都会のそれとは比べ物にならないくらいの大容量でビックリ。私など、半分も食べられなかったし、夫でも完食出来なかったのだが、夫の従兄は自分の分をペロッっと平らげ、御祖母ちゃんの残りを食べ、その上、別に卵を焼いてもらっていた(だが彼は肥満している訳では無いの)やはりキツイ農作業をこなすには相応のカロリーが必要なのだろう。
御祖母ちゃんは旺盛な食欲で、お膳を食べながら、精力的荷昔語りをしてくれた。御祖母ちゃんの先祖から現在に至るまでの壮大な物語。家族は聞き飽きているようだったが、私は初めて聞く話だったので、かなり面白かった。御祖母ちゃんは同じ話を2周半して「お腹も膨れたし、くたびれたから寝るわ」とて自分の部屋がある離れへ戻ってしまった。御年寄りを「可愛い」なんて言うのは失礼なのだけど、そういう無邪気さは少女っぽいと言うか、ちょっと可愛いなぁ…と思った。
御祖母ちゃんがいなくなった後は、写真に凝っている従兄弟から、昔の写真を見せてもらった。親戚の家にあった写真を年代、家族別に整理したアルバムは「一族の歴史」って感じで見応えがあった。「自分のルーツを知っておくのは大事な事だ」と言う従兄弟の言葉が印象的だった。従兄弟は帰り際に家の前で、みなの集合写真と私達夫婦の写真を撮ってくれた。あのアルバムに私達が写った写真が収まるかと思うと、不思議な感じがする。
ともあれ田舎ののんびりした空気に触れ、御祖母ちゃんの話を堪能して、夫の従兄妹達ともお喋りして、とにかく楽しい時間だった。「御祖母ちゃんって、いいなぁ。田舎って、いいなぁ」と思うと同時に、御祖母ちゃんと一緒に暮らしてお世話をしてくれている人がいるから、私は「お客様」でいられるのだ……って事を思った。実際、一緒に暮らしてみたら楽しいだけでは済まされない。たまに聞くから楽しい話も毎日となればウンザリするだろうし、御年寄り特有の頑固さや我が儘に振り回されることもあるだろう。私が楽しんだ田舎は「いいとこ取り」なんだ…って事は忘れちゃいけない。
なんと言っても夫の御祖母ちゃんなのだから、今後はもう少し心配りをしていきたいなぁ……と思った次第。気持ちよく迎えてくれた御祖母ちゃんと、夫の親戚に感謝しつつ今日の日記はこれにてオシマイ。
2006年11月04日(土) |
96歳の御祖母ちゃん |
明日は夫の御祖母ちゃんに会いに和歌山の田舎へ行く。
義母は兄弟の中でも下の方らしく御祖母ちゃんは御年96歳。結婚式は高齢を理由に欠席されたので、私が御祖母ちゃんに会うのは初めて。夫も10年近く会っていないとのことだったので、私はテッキリ「寝たきりに近いくらい弱っている御祖母ちゃんだと思っていた。なので1度お会いしたい……と思っていたのだけれど、押しかけて行くとなると「御祖母ちゃんの介護をしている人がかえって大変かなぁ」と思って足踏みしていたのだ。
先の敬老の日に御祖母ちゃんにカステラとお花を贈って電話をかけたら、御祖母ちゃんではなくて伯父さんが電話口にに出てきて「御祖母ちゃんは今、畑に行っているからいない」とのこと。96歳で畑仕事? 私の想像していた御祖母ちゃん像とは全く違っていて驚いた。夫に問い正してみたら「俺もそんなに元気だとは知らなかった」とのこと。「だったら会いに行かなくちゃ」とて、やっと遊びに行くことになった。
義母に「手土産は何がいいですか? 御祖母ちゃんの好きなものがあれば…」と聞いてみたら、義母が言うには「食べ物よりもお金にしてあげて。おこずかいを渡してあげたら、それでいいから。御祖母ちゃん、お金が大好きなのよ」とのこと。この話を聞いて、私は会った事のない御祖母ちゃんが大好きになってしまった。バイタリティ溢れるしっかり者の御祖母ちゃんなのだろう。
お祖母ちゃんに会いに行くにあたって、昨日、義母と電話で話をしたのだけれど、孫夫婦が行くにあたり、御祖母ちゃんはいたく張り切っているらしくて、お膳を用意してくれるとのこと。そんなに喜んでくれるなら、もっと早く行けば良かった。
御祖母ちゃんの住んでいるところは電話番号の市外局番が一ケタ…ってくらいの田舎である。私自身は母方の曾祖母が死んでから「田舎」というものが無くなってしまったので、夫の田舎に行くのが嬉しくってしょうがない。明日は御祖母ちゃんに会うのが楽しみだなぁ……って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。
三連休初日。なのに夫は仕事。しかも夜勤。
「1人で休みなんてツマラナイね」と言われるけれど、以外とそんな事はない。平日、外に出て働いていると「しなくちゃいけないこと」とか「したかったこと」が多くて、バタバタしているうちに1日がアッと言う間に過ぎてしまう。たぶん「主婦っぽい活動」が物珍しいのだと思う。結婚して9ヶ月が過ぎたと言うのに、いまだママゴトと言うか遊び感覚が抜けないでいる。
今日は冷蔵庫に食料を補充した。野菜を買い込んだり、1パックに6匹入った鯵(なんと1パック100円)を捌いて冷凍保存したり。頭のついている魚を買うのは正直なところ嬉しくはない。手捌き出来るくらいの小さなイワシならまだしも、そこそこの大きさでしっかりと頭のついている魚の鱗を取ったり、臓物を取り出したりするのは「殺してるなぁ」という実感があるし、第一見た目に気味が悪い。
しかし……だ。よくよく考えてみれはパックに切り分けられている魚や牛・鶏・豚肉だって、そういう工程を経て手元に届いている訳で、自分が他の生き物の命を貪っているという事実に変わりは無いのだ。生きるとは沢山の屍の上に成り立っているのだと思う。だからと言って「可愛そうだから殺生はしない」なんて事は思わない。生きていたいし、もっと単純に言うなら美味しい物を食べるのが好きだから。
私はまだ「生かされてある自分」を自覚出来るほど人間が出来ていないのだけど、生きている限りは、とりあえず生きなければならないし「よりよく生きる」ように努力しなくちゃいけないなぁ……とは思う。恵まれた暮らしをしていても、たまに「なんで生きてるんだろ?」と言うような虚無的な意識に囚われる事があるのだけれど「何故?」という疑問よりも「生きている」という事に視点を置く必要があるのかも知れない。
……とまぁ、悶々と書いてみたけれど憂鬱になっている訳ぢゃない。今夜は今年最後の栗ご飯。夕食の用意をして夫を起こさなくては。さてさて張り切って台所に立ちましょうかね……って事で今日の日記はこれにてオシマイ。
11月に突入したばかりだというのに百貨店の外壁がクリスマス仕様になっていた。「もうそろそろクリスマスのことを考える時期なんだ」とて、夜勤に出る夫を送り出した後、フェリシモから贈られてきたクリスマス特集カタログ(サンタブック)を見ていたら、1人で興奮してしまった。
サンタクロースを信じていた子供の頃からずっとクリスマスが大好きだ。
サンタブックにはクリスマスの贈り物にしたら良いだろうなぁ…って商品が満載で困ってしまう。大切な人全て気の効いたクリスマスの贈り物をしたいと思うのだけど、そんなことをしていたらお金がいくらあっても足りない。極身近な人以外は今年もカードを送るくらいになっちゃうんだろうなぁ……と思うと、ちょっぴりサミシイ気もするが、何もしないより良いだろうと自分を慰めてみたりする。
贈り物をあれこれ見ながら、しかし毎年贈り物をしている人には、今年も同じ物を贈ってしまうような気がする。クリスマスの贈り物は、私の場合、純粋な「プレゼント」という意味合いの他に「お歳暮」のような気持ちもあるので「絶対に外さないもの」を選んでしまいがちなのだ。
ちなみに夫への贈り物はもう決めている。夫は普段、ラフな格好で働いていて、ディバッグを愛用しているのだけど、そうでない服を着たときに持つ鞄で適当な物を持っていないので、ビジネスケースほどカッチリしない感じの革製のショルダーバッグを注文した。かなり奮発しちゃったけれど、夫は日頃贅沢をしない人なので、たまには良いかなぁ……と。それに私がフルタイムで働いている今はお金の自由がきくけれど、ずっとそうだとは言い難いので、出来る時にしておきたいと言う気持ちもあった。
そして、今日は帰宅したら鞄の納期が12月の末になるとの連絡が。手作りの鞄で人気が高い…と聞いていたので早めに手を打ったつものだったが、目算を誤ってしまったらしい。まだクリスマスにもなっていないのに、クリスマスプレゼントを失敗してしまうの巻。しかし「絶対コレだ」と決めていたので、気長に待つことにした。クリスマスに夫を驚かせようと思っていたのに残念無念。
いきなり躓いてしまったけれど、冬の寒い時期の「贈り物」って素敵だと思う。たとえばカード1枚、花1輪でも、なんとなく温かくなるような気がする。夫への贈り物は失敗確定だけど、せめて友人達に贈るクリスマスカードは、しっかり選ぼう……なんて事を思いつつ、今日の日記はこれにてオシマイ。
最近、いじめが原因で自殺…なんてニュースが続いていて、なんだかとっても、やりきれない。
ニュースキャスターやコメンテーターが「学校や親や社会の責任」について語っていたり「子供たちに生命の尊さを教えていく必要性」について論じていたりするのをを聞いると、なるほど正論が多いのだけど机上の空論のような気がしてならない。たとえば……「子供たちに生命の尊さを教える」と言ってもそう簡単に到底出来ないと思うだけに。ペットの死を看取ったとしても、生命の尊さを謳った映画や小説に触れさせたとしても、死にたくなったら死んじゃうのが人間だろうしね…と思うだけに。
生まれてから1度も本気で自殺を考えたことのない大人なんていないと思う。もし、存在したとするならば余程恵まれた人か、あるいは感性の鈍い人だろう。
しかし、ちょっと不思議なのは「死にたくなるほど辛いなら学校行くの辞めちゃうのもアリなんじゃない?」って意見をあまり聞かないことだ。私とて成長過程において「学校で学ぶ」ことの大切さは理解しているが、死ぬほど嫌なら「行かない」って選択肢もアリだと思う。確かに学校は成長過程で必要な場所ではあるけれど、大人になれずに死んでしまうくらいなら、別の道を探したら良いのに……と思うのだ。
確かに規定の教育を受けないとなると社会へ出る時に困難はついて回るけれど「地域の学校に通う」ことだけが教育を受ける手段ではない。現実問題として通信制の学校や大検を利用して大学に行く人も多いご時世である。それなりの苦労は覚悟しなければならないけれど「正規のルートを通らずに大人になった」人ってのは案外多い。
しかしながら、子供の頃は「学校」という狭い社会がが世界の全てで、そこで躓いたら絶望的になってしまったりするものだ。しかも大人達が「学校に行く事」にコダワリを持っていたら尚更である。そりゃぁ、行かないより行った方が良いとは思う。だが、誰もが同じルートを歩けるとは限らないのだ。横道からひょいひょうと公道に紛れ込む歩き方もアリだと私は思う。
学校でも会社でも「死ぬほど辛い」なら行かなくて良いと思うのだ。「行かない」という選択肢を選ぶのも大変だけど世の中、どうとでも渡っていける。だけど、そりれは、とりあえず生きていれば……の話。
ちなみに私は「いじめ」については、どんな理由があったとしても問答無用で否定する。「いじめ」を無くすことは重要だし、それに対処する方法も考える必要はあろうと思うが、ちょいと逃げ道を提案するのも良いんじゃないかと思ったりするのだ。躓いたり、横道にそれるのは、ちっとも恥ずかしいことじゃないのだから。ジタバタしてこそ人間だしね……って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。