妻と営業マンの言ったことはうそだった。
前の機種とメーカーが同じだから,メールの送り方も他の操作も同じだって言ったじゃないか…。
妻が上のムスメのテストの付き添い(と言ってもあらかたの時間はくそ高いコーヒーショップで本を読んだり,店が開けば無駄金を使ったりしているのだが)をしている間に,新しい携帯を取りに行った。
早速妻にかけてみる。
るるる。
お楽しみのようでさっぱり出ませんね。 ならばメールを…。 このメールのマークのついたボタンを押すんだな。 びっと。
何?
準備中です? しばらくお待ちください?
よしよし。 待っててやろう。 しかし,待てど暮らせど準備中。 あげくに,接続できませんと来やがった。
くううう。
そこに妻から着信。
ちょうどよかったですよ。 メールできないんですけどね。
「アンタ。それはe-mailを送ろうとしているね」 「アンタが私に送っていいのは,無料のCメールですから」 「ちなみにアンタは契約の関係上,どんなにがんばってもe-mailは送れないよ」
ええっ。そうだったのか。
じゃあCメールの送り方を…。
「さすがの私も,機種が違ったら見ないとわからないよ」 「どっか押せば送れるんじゃないの?」
どっか。 どっかってどこなんだ。
仕方ない。マニュアルを…。 あっ。だめだ。もう迎えの時間じゃないか。
トランシーバーのようにしか使えない携帯を下のムスメに握らせて,車を出す。
トランシーバーのおかげでなんとか妻と上のムスメとも会えた。 車中では新しいトランシーバーが大人気で…。
酔うヤツが続出。
ばかか。君らは。
しかし,帰宅する頃には,他のメンバーはみな僕より僕の携帯に詳しくなっていたのだった…。
上のムスメを塾に送っていくのに,途中まで下のムスメと妻がついてきた。
給料が出たので,パン屋で菓子パンを買うそうだ。
そういうことをするから,また給料日前に苦しい思いをするのに…。 と,言いたいが,反撃が怖いのでやめておく。
常識の範囲内の買い物にしてくださいよ,と祈りながらムスメを送って帰ってみると…。
いやしねー。
どこに行ったんだ。 本屋あたりか? まあ,静かだからいいか。 少しゆっくり…。
ぷるるるる。
いやな予感。
はい,もしもし。
「あっ。今ね,アンタが機種変更できそうなとにかく安くて薄いヤツを押さえてあるから」 「ちょっと来て」
来てってお前どこにいるんだ。
「ト○タ」
あー,こいつやっぱり本屋に行ったんだな。 そして,隣にあるト○タを見て急に思いついたな。
「アンタの好きそうな,じみーなねずみ色はもう一台しかないんだよ」 「とにかく来て触ってみたほうがいいって」 「びみょーな開き方するし」 「でも,これならポイントで機種変できちゃうんだよ」
ねずみ色って。シルバーだろうが。 まあ,そこまで言うなら,ちょっと行ってみるか。 確かに今使っているのは,万が一通話なんかしようものならフル充電してあっても半日持たないしな。
現場についてみると,パンフレットやら何やら広げた上に,携帯が何台かちらばっていて,妻とムスメはコーヒーとジュースを出してもらって飲んでいる。
「あー,やっと来た。早く早く」
はいはい。わかりましたよ。 触ってみるとたしかに微妙な開き方なのだが…
「最近薄い機種はだいたいこういう開き方ですねえ」と営業マン。
なるほど。 薄さをとるとこの開き方…。
まあ,開くことめったにないしな。 閉じた時のほうが重要だな。 これは今使っているのと…
「同じメーカーだよ」 「だから使い方もたいしてかわんないって」 「メールくらいすぐに送れるから,これにしなさいって」
畳みかけるような攻撃は,営業マンではなく妻。 しかも。
「えーと,私は…」
と,見るからに派手で高そうなブツを手にしている。
こら。 お前は変えたばかりだろうが。
「えー,もう2年たってるんだよ」 「それに私はもうなんちゃらじゃなくてなんちゃらにしたいのっ」
あー,なんだか聞き取れないし,聞き取れても意味がわからない…。
それを聞いた営業マンが素早い対応で妻が欲しがっている機種の在庫確認。 いえ,ちょっと,この人のはまだ使えるから変えませんよ。ええ。
「ずるい…。ずるー」
うるさい。
しかし,幸い妻が欲しい機種は在庫がなかった。
そんなこんなで,無事に,僕だけが新しい携帯を手にしたのだった。
妻が髪を切った…らしい。
そう言われてみれば短くなった。か?
「ほほう。そういう態度ですか」 「美容師さんがだんなさん気付かなかったらやばいっすよって言ってたよ」 「やばいよ,アンタ」
何がやばいんだか…。 僕は現実に押しつぶされそうに疲れてるんですよ。 だからそんな瑣末なことには…。
あ,疲れすぎて口がすべった。
しかし,妻は鏡を見るのに忙しいらしく気がついていない。 よかった。 ほんとに「やばい」ことになるところだった。
「なんか若返った?」 「元気そう?」
はいはい。そうですね。
「でもさ」 「なんか普通になっちゃったよね」
は?
「普通の奥さんっていうか」
はあ? 何言ってんだか,この人は。 前からあなたは普通でしたよ。 普通のちょっと疲れた人が,普通の元気な人になってよかったじゃないですか。
「そうか!あの疲れた感じが大事だったんだ」 「しまった〜」
いったいアナタは何者になりたいんですか…。 ああ,なんだか疲れが増していく。 普通になったのは,見た目だけなんだな。
とにかくそんなことより,夕飯の支度とか,洗濯物の整理とか,布団敷きとか,風呂掃除とか,やることはたくさんあるんですよ。 外見が普通の奥さんになったんだから,普通に家事を…。
「ええ,ええ。どうせ瑣末なことですからね,私の髪の毛なんてっ」
あ,聞こえてたんだ…。 やばいっすよ,ほんとに。
子どもたちの新体操のお迎えがあるので,家路を急ぐ。 明日からバドミントンの合宿だから,その用意もしなければならない。 しかも,明日は娘たちの学校で展覧会だ。 それもちゃんと見てから行かねば。 ああ,気ぜわしい。
そんな気持ちでドアをあけると, いつもながら妻が機関銃のように話しかけてくる。
う,うるさい。
「それでさあ,テレビで教育問題についていろいろ…」 「今日の夕飯変な取り合わせなんだよ,ミネストローネにししゃも…」 「子どもが新体操で使う帽子作んなきゃいけなくてさあ,これがまた…」
いつもにも増して話が飛んでてよくわからない。
あ,あれ?
あなた,顔が赤いですよ。
「あ,わかる〜?」 「今日,なんかだるくてさあ,熱はかったら37.5℃」 「ま,熱があるってほどてもない…」
ぎゃー,またですか。
前にもこんなことがあったような。
僕の数少ない年間行事に合わせて体調をくずされたような…。
「大丈夫,這ってでも展覧会を見に行って」 「塾には連れて行くからさあ」
「まっかしとして」
ああ,アナタたぶん熱が上がってますよ。 だってそんなに快く送り出してくれるなんて, いつものアナタじゃ考えられない。
頼む,早く寝てくれ。 パソコンになんか向かってる場合じゃないだろう。
こっちが具合悪くなりそうだ…。
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