2006年01月26日(木) |
ドブロブニクよさようなら・・・クロアチアの旅 |

4月21日(木) ベニス訪問から始まった今回の10日間の旅も終焉に近づいた。ドブロブニクのホテルを正午に発って空港に向かった。空港へ赴く途中見晴らしの良い場所でドブロブニクの市街を展望した。 遠景にドブロブニクの立地状況がよく判る。そして手前の原にはエニシダが今を盛りに咲き誇っていた。今回の旅ではドブロブニク訪問が一番印象に残るであろう。
2006年01月25日(水) |
ドブロブニクのハプニング・・・クロアチアの旅 |

4月20日(水) 現地ガイドはこの城郭市内で生まれ育った中年の婦人であった。 彼女曰く。「12時15分になるとハプニングが起こります」 ハプニングとは鳩の餌付けであった。この時間には城郭内の全ての鳩が一斉にこの場所に集まるのだという。 写真上は餌付けを待って集まってきた鳩が近くの建物に止まって待機している所。 写真下は餌に群れる鳩達。あっという間のハプニングであった。 今日の俳句 ・春の鳩 群れ集まりて 餌を待つ

ドブロブニクは城砦都市であることは何回も書いた。その城砦の壁を紹介しよう。 写真は城砦の隔壁の上から撮影したものである。左側が城の外で右側が城の中である。このような頑丈な隔壁で城は外界から遮断されていた

城砦の壁は頑丈に出来ている。 写真左は断崖絶壁に建つ隔壁。 写真右は城砦内の路地風景。

ドブロブニクの城砦の城壁を約一時間半かけて一周した。この散策はいろんなことを考えさせてくれた。とても有意義な時間であった。
民族、宗教、人種、生活習慣それぞれに異なり、相争う戦乱の世界において、生活信条を同じくする人達が団結して纏まっていくためにはこのような城砦が必要だったのかとの思いが強い。
写真は城砦の城壁の歩廊の点景である。

ドブロブニクはアドリア海に面している。従って海の交通が大切な交易の手段となる。入り組んだ地形の中に天然の良港が作られ城砦の門の前に控えている。今は観光地として繁栄しているので係留されているのはレジャー用のボートやヨットが多い。

1991年の旧ユーゴースラビアからの独立をめぐる内戦ではここドブログニクも戦禍に見舞われた。爾来10有余年を経て戦禍の爪痕は殆ど見られない位に復旧している。 城砦の城壁一周の散策をしていて目にとまったのが紹介する写真である。 この土地に生まれ住んでいる中年の婦人ガイドの説明によれば、このドブロブニク城砦もかなりの頻度で空爆されたと言っていたので多分その時被害を受けた民家がやっと修復に着手したものであろうと憶測している。

ドブロブニク城砦の城壁を一周ゆっくりと散策した時撮影した街並みである。オレンジ色の瓦が美しい。遠くに見える島はロクルム島である。

ドブロブニクの城砦の城壁を散策していると防備のための大砲がところと゜ころに今も誇らしげに展示されている。今は使い物にならない旧式の武器であるが、国を守る、城を守るという住民の意気込みが窺える。国を守る気概をなくした祖国日本国民の精神のありようを深刻に考えさせられた。
2006年01月24日(火) |
ドブロブニク城砦都市・・・クロアチアの旅 |

4月19日(火) 夕刻ドブロブニク市へ到着した。この市は複雑な地形をしている。観光案内所で入手した地図を掲載しておこう。 写真左はドブロブニク市の全体図である。この図の右手下方に茶色く色のついている箇所が旧市街地で町全体が城郭都市になっていて町全体がユネスコの世界遺産に登録されている素晴らしい景観の保存されている地区である。 写真右は旧市街の見取り図である。

ドブロブニクにチトー大橋というのがあり、ドブロブニク市の名物の一つになっている。ユーゴースラビアの元大統領の名前を取って付けられた。既述の地図の左手上方にかかっている橋が写真の橋である。
チトーにはクロアチア人とスロベニア人の血が流れている。西洋史辞典・・東京創元社刊・・によればチトーは次のような人物である。
1892-1980 本名Josip Broz ユーゴースラビア大統領、共産主義者同盟議長、連邦幹部会議長、元帥、第一次世界大戦に従事し、ロシア軍の捕虜生活を経て20年に帰国して共産党に入党。革命運動により数次にわたり投獄されたが、1935-36年にはモスクワに亡命。37年ユーゴースラビア共産党書記長に選出され、第二次世界大戦中は対ドイツパルチザン闘争を指導、43年国民解放臨時政府首席となり、45年以降首相、軍最高司令官、国防相を兼務し、46年人民共和国成立後、53年大統領に就任。47年にベオグラードを本部に結成されたコミンフォルムで指導的役割を演じたが、その民族主義的傾向からスターリンと対立してコミンフォルムから追放、それ以降は非同盟・積極的中立主義の立場で自由世界とも接近し、スターリン死後は対ソ関係の正常化にも努め、社会主義運動と第三世界に大きな影響力を発揮した。国内の民族的調和も進めた。

ドブロブニクの旧市街を散策した。頑丈な城壁で囲まれた市街地は中世の面影をそっくりそのまま現在に伝えている。典型的な城郭都市である。 写真は旧市街地への入り口近くの画像である。

ドブロブニク旧市街内を散策した。写真に示すのは旧市街での点景である。

城郭内の総監の館を見学した。 写真上の左右は何れも総監の館の一階広間である。 写真下左は総監の胸像、右は総監の館を出たところである。

4月20日(水) 午前中、旧市街を見学し且つ散策した後、城壁の上を一周した。写真上左は城壁登り口近く。写真上右は城壁の見張り台。写真下は城壁から見た旧市街の点景である。

旧市街の城壁の上から城外の街並みを撮影した。

ドブロブニク旧市街は城砦都市であり、自己完結型の都市として造営された。今もその名残を十分に留めていて観光客の鑑賞に耐えている。 写真は城内のメインストリートで石畳になっている。
2006年01月23日(月) |
スプリットの町・・・クロアチア紀行 |

4月19日(火) スプリットはクロアチアのリゾート地であり、漁師町でもある。この町で宿泊したが街中は駆け抜けるだけであった。それでも朝出発までの間、しばし散歩していくつかの光景をカメラに収めた。
写真左は港の風景、写真右は釣り人が用意していた餌のゴカイ。
今日の俳句
・釣り人の 離合集散 「ごかい」知る

スプリットには城郭に囲まれた旧市街が昔の面影を留めて現存する。朝ホテルの周辺を散歩してみた。リゾート地のこの町のヨットハーバーには沢山のヨットが係留されていた。教会も沢山あるようだが、写真の教会の名前は判らない。
今日の俳句
・春風を はらんで帰る ヨット基地

4月19日(火)
スプリットからドブロクニクへ長駆227㎞をドライブの途中、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内で小休止した。
地図からも判るようにクロアチアは海岸線に沿って細長い国である。紫色が国境線であるが、ドブロクニクはボスニア・ヘルツェゴビナ領によって母国本体から分断された飛び地になっている。
このボスニア・ヘルツェゴビナを通過するためには入国と出国の手続きを検問所で行わなければならない。
運転手がガソリンを補給するためにこの地で小休止したのには訳があった。物価が非常に安いのである。我々もガソリンスタンドに併設されたディスカウント・ショップで買い物をしたが、クロアチア国内よりも二割から三割値段が安いことを知った。
国の経済力の格差が物価に如実に現れていることを実感した。
2006年01月22日(日) |
サロナのローマ遺跡・・・クロアチアの旅 |

4月19日(火) スプリットの近郊にサロナ市というのがあり、ここにローマ時代の水道橋が残されている。スプリットからトロギールへ赴く途中、バスの車窓から瞬間的にこの橋を撮影するのに成功した。サロナ市は皇帝ディオクレティアヌスの出身地であるからこの辺りにはローマ時代の遺跡があちこちに残されている。
今日の俳句
・春草や 水道橋に ローマ見る

スプリットからトロギールへ赴く途中サロナ市でローマ時代の遺跡である、円形劇場を見学した。アンフィーシアターと呼ばれている。最近公開されたばかりの遺跡で、日本人観光客としては我々が一番乗りであろうと添乗員は言っていた。未だ発掘作業が続けられていた。
今日の俳句
・初物の ローマ遺跡に 春の風
2006年01月21日(土) |
皇帝ディアクレティアヌスの町トロギール・・・クロアチアの旅 |

4月19日(火) 朝スプリットの宿を出発してトロギールへ向かった。ここにはローマ皇帝ディアクレティアヌスが晩年を過ごした宮殿がある。このトロギールは島になっていて島全体が城砦になっている。
写真左はトロギール観光協会のパンフレットから援用したトロギール市の俯瞰写真である。街全体が島になっている様子がよく判る。 写真下はトロギール市への入り口の橋で自家製の野菜や花を売っていた老婦人である。
今日の俳句
・春の花 ひさぐ婦人の 皺渋し

トロギールはローマ皇帝ディオクレティアヌス(284~305在位)が晩年の宮殿を営んだ土地である。
ディオクレティアヌスはダルマチィアのサロナで生まれた解放奴隷の子であった。軍人としての優れた手腕により執政官に就任、ヌメリアヌス帝の死後皇帝に選出された。活動的、精力的で知性あふれる支配者であった。彼の下で皇帝権は絶対化しローマは元首政治から専制君主政治へと移行した。
彼は政争で暗殺されることを最も虞れ、安住の終の住処をこの地に求めたと言われている。
写真上左・・ディオクレティアヌス宮殿復元図 写真上右・・ディオクレティアヌス宮殿の一部 写真下左・・宮殿内部の天井 写真下右・・ディオクレティアヌス帝の胸像
今日の俳句
・権勢も 今は遺跡 肌寒し

トロギールの城郭内を散策した。点景の写真を四葉掲載しておこう。
写真上左は ディオクレティアヌス宮殿近くのレストラン
写真上右は城郭内の路地風景
写真下左はある教会の塔
写真下右は体重測定の商売。体重を計る商売が現存することに驚いた。
今日の箴言
・時代の急速な変化、技術革新に背を向けて昔ながらの生活を続けることも一つの見識である。
トロギールの城郭内を散策していたら、ここにもやはり紅灯の巷というものがあって、賑やかな声の聞こえるバーがあった。覗いてみると酔漢がこちらを向いたのでカメラを向けるとポーズを作ってくれた。
2006年01月20日(金) |
シベニックの町・・・クロアチアの旅 |

4月18日(月)
シベニックのヤコブ教会を訪問した。セメントを使用しないで単純な石の積み上げ技術でアーチ構造を随所に使っている。特に石の屋根が素晴らしい。世界文化遺産に登録されている逸品である。内部の装飾もまた一見に値する。 シベニックのヤコブ大聖堂についての解説
今日の箴言
・石の文化遺産は時空を越えて後世に伝わる。それに反して鉄の文化は伝わりにくい。酸化という化学現象に耐えられないからである。

シベニックの街中を散策した。外国からの観光客が多い街だがやはり初老の人達が多い。
今日の俳句
・春光を 浴びて歳も 若くなり
2006年01月19日(木) |
港町ザダール・・・クロアチアの旅 |
4月18日(月)
プリトヴィツェ湖に別れを告げ、港町ザダールへ立ち寄った。ここは漁業の盛んな町であるが、欧米の人々のリゾート地にもなっている。この町の岸壁に最近造られた波を音楽に変える設備は世界でも初めての試みで最近完成したばかりである。
写真はザダールの町へ入る手前でバスの中から撮影したものである。左側前方の町がザダールである。
昔栄えたが産業革命に取り残されて、一時衰退した城郭都市であっても、文化遺産をかたくなまでに保護したお蔭で今観光ブームに沸き返っている都市が欧州には多い。
 プリトヴィツェ湖を朝出発してバスで長駆約2時間半かけて港街ザダールへ到着した。港を散策しているとき、漁船が獲物の鰯を水揚げしているところへ出くわした。
この港街の波止場には波のエネルギーを利用して波動を自然の音楽に作り変える珍しい装置があった。この装置は世界初めてのもので最近完成してお披露目があったばかりだという。1週間前のことだという。
港街ザダールへ立ち寄り中世の名残の残る街中を暫し散策した。 写真はザダールの街の全景を観光協会のパンフレットから転載したものである が、写真下辺の岸壁には珍しい仕掛けがしてあった。波の動きをパイプに取り込んで天然の音楽を創出しようという試みである。世界でも初めての試みで、岸壁に立つと得も言われぬ妙なる波動のメロディーが流れてきて観光客を驚かせる。この施設はつい最近完成したばかりであった。
ザダールの町にはローマ時代の遺跡も残されていて、アドリア海沿岸の諸都市の中でも歴史が古い。 市の岸壁のところに最近できた波動を音楽に変換する施設が2005年に完成したことを記したザダール市の市章。この上に乗って波動音楽を聞くと一番音響効果がいいと言われている。市章には次のような文言がクロアチア語で書かれている。
GRD ZADAR 2005 MORSKE ORGULJE
ダルマチア地方で一番大きな教会がこのアナスタシア聖堂である。時の流れの中でいろいろと洋式も変化してきたが、現在のこの洋式はロマネスクを代表するものである。
ヨーロッパの教会建設は完成するまでに随分と時間がかかっているものが多い。百年以上かけて建設されたものもそう珍しくはない。時の流れの中で様式も次々と変わっていく。
ザダールの街は歴史が古いから、ローマ遺跡も残されており、遺跡の中は子供達の格好の遊び場となっている。 写真はシモン教会前のローマ遺跡
・春の日に 遺跡に遊ぶ 子供達
歴史の古い町ザダールは散策するのに楽しい町である。こじんまりと纏まっているところがいい。ヨーロッパの城郭都市というのはあちらこちらにあるが、アドリア海沿いのこの町の雰囲気はとてもよく旅情をそそって尽きないものがある。
写真は市の観光協会が発行しているパンフレットからザダール市街の街並みを俯瞰したものを転用した。
ザダールはショートステイしてゆっくりと過ごしてみたい魅力ある街である。
ザダールは漁師町であるとともにリゾート地でもある。写真はthe church of st.Donatで周辺地域を散策すると昔の面影が随所に見かけられる。しかし、1991年のユーゴースラビアからの独立戦争ではこの町も内乱に巻き込まれ、民家のあちこちに銃弾が打ち込まれた。内乱が収まり10数年が経過し、今では戦火の爪痕は見つからない。しかし、注意してみると補修されないままになっている小さな弾痕の跡を見つけることができる。
外見は内戦があったことを忘れさせるような町の佇まいである。激しく壊された家屋は補修されて綺麗になっている。しかし、小さな弾痕は補修されることもなくそのまま残されている民家が散在する。
ガイドに説明されてそれと気がついた小さな弾痕の写真である。
2006年01月18日(水) |
プリトヴィツェ湖国立公園・・・・クロアチアの旅 |
 4月17日(日) 朝、オパティアの町を出発してプリトヴィッツェ湖へ229㎞のバスドライブである。正午近くに到着した。
プリトヴィツェ湖群国立公園のロケーションを同公園のパンフレット掲載の地図を抜き出して掲示しておくことにしよう。

この湖群はユネスコの世界遺産に登録されているもので自然の環境がよく保護保全されている。
走行中、窓の外にはチェリーの白い花や連翹の黄色い花が咲き乱れ木々の緑は若々しく萌えさかっていた。まさに春爛漫の景色であった。
公園入り口に到着し看板にでていた見取り図を撮影した。
プリトヴィツェ国立公園へ到着して昼食を摂ったのだが、食堂へ入ったとき目に入ったのが、子豚を串に刺して丸焼きにしている情景であった。人間はその種が異なれば残酷な行為でも平然とまた当然のことのようにして行動するものだ。お釈迦様は動物や昆虫を人間が平然として殺すのに無情を感じて求道の生活に入ったと教えられたが、凡人にはお釈迦さんの境地には近づくことができない。
外国の観光客はビッフェ方式で食事をしていた。我々の食事のメインディッシュは生ハムであった。
この公園には世界各国から観光客が訪れる。一晩宿泊したホテルの写真も掲載しておくことにしよう。
プリトヴィツェ湖国立公園の滝は随所にあり、天然の造形美を求めて世界中から観光客が訪れる。湖畔を約一時間かけて散策した。自然の美しさに見せられた至福のひとときであった。

午後フリトウ゜ィツェ湖の湖畔を散策した。至る所に滝が流れており、雪解け水が清冷な流れをつくり、晴天に恵まれて滝の水しぶきの上に虹がでていた。
プリトヴィツエ湖は美しい自然がそのままの姿で残されており、静謐な時間が流れている。折から雪解け水が豊富に湖へ流れこんでおり、大小の滝が至るところに見られた。湖畔を巡って遊歩道が作られており、観光客は世俗を忘れてしばし、寛ぐことができる。写真は遊歩道から撮影したものである。この清冷な流れの中で生育している植物があった。名前は判らない。
このように清らかな流れであれば、山葵がよく育つのではないかと思った。この思いつきは飛躍して日本の山葵の栽培技術を指導して山葵栽培をし、湖から採れる魚で寿司を作るという事業も成り立つのではないかなどと夢想していた。
プリトヴィッツェ湖は丁度雪解け水が流れ込む時期で随所に滝が見られた。そして晴天に恵まれ鏡のやように静謐な水面は色彩鮮やかに観光客の目を楽しませてくれた。
2006年01月17日(火) |
オパティアからプリトヴィッツェ国立公園へ・・クロアチアの旅 |
 4月17日(日) オパティアの街を後にして次なる訪問地プリトヴィッツェ湖群国立公園に向かった。展望のよい所でオパティアの街を俯瞰した。実に美しい街であった。
 オパティアを朝出発して長駆229㎞をバスで次なる目的地プリトヴィッツェ湖へ向けて出発した。途中瞥見した湾の写真を掲載しよう。地名は判らないが、このような光景はクロアチアの海岸線ではよく見られる。
 プリトヴィッツェ湖へ至る緑豊かな平野の中に廃墟と化した民家を何軒も実見した。1991年クロアチアが旧ユーゴースラビアから独立するに際して勃発した内乱は田舎の村にまで戦火が及んだ。写真で示したのはセルビア人がクロアチアから追われて廃墟となったセルビア人の旧民家である。 撮影することができなかったが、クロアチアの野原には地雷が沢山敷設され、未だに撤去されない箇所が何ケ所も残っていて「地雷あり危険」という警告の看板があちらこちらに建っていた。
2006年01月15日(日) |
プーラの円形劇場・・・クロアチアの旅 |
2005年4月16日(土)

オパティアの宿を朝出発してプーラへ向かった。ここにはローマ時代の遺跡が残されている。円形劇場である。今でも音響効果のよいこの劇場でコンサートが開かれるという。
写真上は劇場内部。椅子が並べられてコンサートの準備が行われていた。 写真下は劇場の外側から。近くにはビルが建ち並び劇場の全景を撮影することは出来なかった。
 円形劇場の中に博物館がある。 写真上はローマ時代の難波船に積み込まれていた葡萄酒用の壺である。 写真下は円形劇場の側の広場である。この日は土曜日ということもあって、市の催し物に警察の楽団が演奏をしていて大変賑やかであった。

二泊したオパティアの街はリゾート地であるとともに造船の街でもあり、又漁業の街でもある。
写真上はヨットハーバー 写真下は造船所
2006年01月14日(土) |
ボストイナ鍾乳洞・・・スロベニアの旅 |
 4月15日(金) スロベニアの首都リュブリャーナの南西約48㎞のところにスロべニアでは最も長いポストイナ鍾乳洞がある。全長20㎞に及ぶ地下道が発見されている。入り口から約2㎞を黄色いトロッコ電車に乗って進み終着駅でおりる。そこからはよく整備された観光コースを約1㎞徒歩で見学することになる。
周囲に繰り広げられる天然の造形美にはしばしば感嘆の声が発せられる。
この鍾乳洞の中にはここでしか見られない、4本の手足を持った類人魚が棲息している。
プレッド・ヤムスキー城へ行った。この城は15世紀に作られた城である。戦乱の絶えなかった中世に敵からの攻撃に遇わないよう隠れ砦として鍾乳洞の中に作られたものである。時の流れ世代の交替の中で洞窟から外界へ次第に増築されて現在の形になったものである。
写真に見える建物の奥には幾つもの洞窟があり、カルスト台地の鍾乳洞であったが、城として利用された頃には既に死んだ鍾乳洞となり、単なる洞窟になっていたものと推定されている。
この城の中を見学中に豪雨があったが、通り雨で幸い濡れることはなかった。
プレッド・ヤムスキー城への入り口近くの畠に咲いていた花をカメラに収めておいたが、その名前が判らない。

プレッド・ヤムスキー城の見学を終え、再びポストイナ鍾乳洞周辺のレストランまで戻り昼食を摂った。その時居合わせたスロベニアの高校生達のグループが賑やかに喋っていた。カメラを向けると誰かの合図で一斉にこちらを向きポーズをとってくれた。
2006年01月13日(金) |
アルプスの瞳ブレッド湖・・・スロベニアの旅 |

4月14日(木) 午後からリュブリャーナの北西に位置するブレッド湖を訪問した。アルプスの瞳との愛称のあるこの湖は鏡のように静かな水面と背後に控える雪を抱いた山々はどこまでも清冷でゆったりと時間が流れていた。 写真上はユリアン・アルプスの山々。 写真下は湖に浮かぶ小島ブレッド島に建つマリア教会
 ブレッド湖の畔の断崖の上にブレッド城という小さな砦がある。ロケーションはギリシャのメテオラの修道院を偲ばせるものがある。そのブレッド城への入り口には日本の寺院によく見られる光景があった。侘、さびの世界とでも言えようか。苔の状態が懐かしくカメラに収めておいた。

先程まで入場していたブレッド城を湖の上に浮かべた手漕ぎ舟の中から眺めた。断崖絶壁の上に建っているのがブレッド島で右手の教会がブレッド島にある小島の中のマリア教会である。今乗っている舟はブレッド島へ向かっている。 その時シングルスカルを漕いでいる漕手を発見した。ボートをここで漕いでみたいという気持ちがむらむらと沸き上がってきたのを思い出す。
 ブレッド湖で小舟に乗ってブレッド島へ渡った。我々の乗った舟の船頭は二本の櫂を巧みに操って静かに湖面を滑っていった。 同行のパートナーは別の舟であった。途中お互いの舟影を見つけエールを交換した。舟から眺める雪山やお城もなかなか乙なものであった。

ブレッド島のマリア教会へ参詣した。礼拝堂に天井から一本のロープが吊り下がっていた。このロープを握って下の方へ引っ張ると鐘がなる仕掛けであった。 訪問の記念に力一杯鐘の音を轟かせた。
2006年01月12日(木) |
スロベニアの首都リュブリャーナ・・・スロベニアの旅 |
4月14日(木)
 スロベニアの首都リュブリャーナ市内を午前中見学した。リュブリャーナ城、聖ニコライ大聖堂、市庁舎、プレシェーレン広場、三本橋等を駆け足で廻り午後からは世界遺産のブレッド湖へ向かうことになる。写真の上はリュブリャーナ市内の街並み、下は昼下がりの繁華街の川沿いの遊歩道。

リブリャーナ城から市内を展望した。中世の街の面影が残っている。
下の写真の右側に見えている塔が聖ニコライ大聖堂でここには先日亡くなったローマ法王ヨハネ二世も来られたことがあり、ミサが行われた。スロベニアは殆どの国民がカソリック信者である。

リブリャーナ城を見学した。この城は現在市民の憩いの場として催し物等が開かれる。
写真の上は入り口近くで城を撮影したもの。 下の写真は城の内部に咲いていた花、桜に似て非なる花。チェリーだという人もあれば胡桃だという人もいた。

リブリャーナ城の内部では催し物が行われるらしく椅子が並べられていた。
また入り口近くで子供達が珍しそうに集まってきたので写真を撮らせて貰った。
お城の周辺は木立が美しく市民の憩いの場になっている。 上の写真はお城の入り口に至る並木道で緑の芽吹き時であった。
 下の写真は農民一揆の記念像で像の台座には1473.1478.1515.1573.1713と西暦年号が刻ざまれていた。大規模な農民一揆の発生した年である。
 リブリャーナの中心部にあるのがプレシェレン広場。広場から旧市街へと続く。三本橋の側には19世紀の詩人フランツ・プレシェレンの銅像が建っている。この像も排気ガスの影響を受けてブロンズが薄汚く汚れていた。
「日が昇る所、争いはこの世から消え、誰も自由な同胞となり・・・」はこの詩人の有名な作詩の一節であるが、この詩は1991年の独立戦争後、スロベニア国歌にとり入れられた。
写真左はプレシェレン像。右の写真はリュブリャッツ川にかかる三本橋。

リュブリャーナ市内の繁華街を暫し散策した。朝早くから開かれている市場ももうまもなく閉店という時間に見学することができた。 近郊の農家の主婦達が取り立ての野菜類を並べて商っているが、野菜の他にも各種各様の日常生活用雑貨類も並べられていて品数も豊富であった。自由主義社会の生活を市民達が謳歌している様子を感じることができた。 又川沿いのカフェには午後2時を過ぎたというのに市民達がコーヒーを飲みながら楽しそうに談笑していた。

ニコライ大聖堂へ参詣した。世界遺産に登録されている。内部の装飾は金張りで豪華絢爛の一語につきる。
この教会ではたまたま二組の結婚式が行われているところで神前で牧師が新郎神父に祝辞を授けている場面に出会った。 また運良く二組の新郎新婦を並べて撮影する幸運にも恵まれた。新婦の衣装はスロベニアの伝統的な結婚式の時だけに用いるものだという。

リュブリャーナで泊まったMホテルの近くに桜と連翹の花が咲いていた。この旅行中、桜、連翹、えにしだ、藤、蒲公英など日本でなじみの花や柳をあちらこちらで観察することができた。
2006年01月10日(火) |
クロアチアとスロベニアへの道中 |
2005.4.12~4.21
4月12日エールフランスの夜行便でパリのドゴール空港目指して飛び立った。パリで乗り換えベニスへ飛び陸路スロベニアの首都リブリャーナへ入る。成田からパリまでの実飛行時間は約12時間の長い空の旅である。夕食をサービスしてくれた客室乗務員は、制服が新調されたばかりだと誇らしげに語ったので請うて写真を撮影させて貰った。夕食には和食を選択した。サービス業だけあってにこやかな笑みを振りまいてくれた。

パリの空港へ向かうエールフランスの飛行機の中で退屈した姉と弟がしきりに乗客達に愛嬌を振りまいていた。

4月13日、パリのドゴール空港に午前3時55分に到着した。まだ暗い空港内で約3時間を過ごした後、やっとベニスへ向けて飛び立った。飛行機はアルプス山脈を超えるとベニスへ向けて山脈の南側を西から東へと飛んだ。この間窓の外に俯瞰できるアルプス山脈の山々の景観を堪能することができた。山の名前は全然判らないが刻々と容貌を変えていく窓外の風景に時の流れを忘れて見惚れていた。

長い飛行時間の後、パリのドゴール空港へは未明の4時15分に到着した。ベニス行きの出発時間までGゲートで3時間の待機である。隣のHゲートでは先日天井の屋根が崩落するという事故があった。同じ形の天井はアルミの骨材が剥き出しになっていてそれなりの機能美を示している。

ドゴール空港で約3時間の待機時間を過ごしてからベニス行きのエールフランス航空機に搭乗し、次第に明けていくパリの空を眺めていた。写真上は搭乗を開始したベニス行きの航空機、下はベニス行き航空機の窓から。空の色が随分違う。

午前9時過ぎにベニス空港に到着した。ただちにクロケットという海上タクシーの乗り場へと急ぐ。ベニスは水の上の都なので自動車では行くことができない。従ってベニスへ行く人は、皆このクロケットを必ず通ることになる。いわば関所のようなところである。 舟の中から眺めたベニスの光景を撮影しておいた。高い塔の右側に僅かばかり半円形の屋根が見えているのが有名なサン・マルコ寺院である。この寺院は冠水することが多い。ベニスの街全体がやがて水没する運命にあるようだ。地下水の汲み上げ過ぎが原因だろうと言われている。

水上タクシーから対岸のベニスの街を眺めていると次々に、ルネッサンス時代に反映した商都の街並みが観察できて面白い。ベニス空港近くで飛行機が着陸体制に入ったとき、窓下に観察したベニス近郊はあたかも洪水のあとではないかと思われるほど平地には水面が光っていた。水上タクシーの中でそんなことを思い出しているとやがて、ベニスの港に到着した。そこに待ち受けていたのは色彩鮮やかな衣装を並べた屋台の店であった。一挙に旅情は高まる。

ベニスのドゥカーレ宮殿を見学した。ここには「ため息橋」というのがある。宮殿内の裁判所で判決を受けた罪人が監獄へ送られる時に渡る橋である。もうこれ以降は浮世を見ることもあるまいとため息をつくことから名付けられたという。
写真上はドゥカーレ宮殿入り口。多くの外国の若者が見学にきていた。 写真下の奥の橋が【ため息橋】で運河には多数のゴンドラが観光客を乗せてひっきりなしに運行している。さすが水の都ベニスを象徴する写真である。

ドゥカーレ宮殿に続いてサンマルコ寺院を見学した。ベニスへは前にも平成13年11月に「ルネッサンスの美術鑑賞の旅」で訪問しているから二回目である。 その時はサンマルコ広場は洪水直後でまだ水浸しであった。寺院の中は床の上まで冠水していて通路には架台の上に板を渡してあったのが記憶に残っている。
今回再びサンマルコ寺院へ参詣のため入場した。水こそたまっていなかったが、不等沈下が続いていることを証明するように大聖堂の床が波うっていた。水の都ベニスは遠くない将来水没してなくなる運命にあるようだ。地下水の汲み上げ過ぎが原因だとも言われている。前回訪問の時撮影した写真と対比して掲載してみた。上の写真は前回のもので広場に水が溜まっているのがわかる。サンマルコ寺院の解説はここをクリック

2006年01月06日(金) |
ホリエモンが歌手デビューする? |
昨年一年間世間の話題を独り占めした感じのあるライブドアーの堀江貴文社長が今度は歌手としてデビューする計画を本気で考えていることが判明した。なんともはや目立ちたがり屋さんではある。
2006年01月04日(水) |
詐欺師の本領発揮の小嶋社長 |
耐震強度偽装事件で一躍有名になったヒューザーの小嶋社長が、常識人では一寸考えつかないことを本気で考えているらしい。まさに詐欺師の本領発揮といったところか。来る1月17日の国会における証人喚問ではどんな言説が飛び出すのだろうか。
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