東京で新商品開発に関するセミナー。品川で朝10時からだから朝に岐阜をやっても十分に間に合うと当日出ようとしたら、主催者から「新幹線が止まるといけないし、何とか前泊してくれないか」と言われた。これまではずっとそうしてきた。ただ最近の疲労具合から家でゆっくりする時間が欲しかったのだが、今時の災害のことを考えてれば主催者の心配はごもっとも。そのプロ意識に感心して前泊した。
世界陸上の解説者で高橋尚子が出ている。彼女の服装のセンスは相変わらず今一歩だが、少しふっくらとした笑顔と、何でも肯定するQちゃんスマイルと、決して流暢とはいえない話し方は健在。「女性はファッショより表情が何倍もものを言う」とはカーネギーの名著『人を動かす』に書いてあったことだが、Qちゃんはまさにそういう人だ。彼女の話しぶりからは一生懸命さが伝え割ってきて、こっちも元気になる。
近所の西友に、1枚200円のワンピースの名シーンのカードのガチャガチャがあるのを見つけた。中には、23巻の最後に出てくるビビとの別れを描いた一枚があるらしく、それが欲しくてついやってみたくなった。黄金の鐘が鳴るシーンのカードを自宅で見たことがあるが、それは息子がここで買ったものだったのだろう。名シーンがカードになるなんて他のアニメでは考えられない。これを商品化した人は頭がいい。
東京駅で土産にワンピースのWANTEDのポスターを買おうとしたら、一枚400円だと言われた。娘が好きなチョッパーのと自分が好きなゾロのを買おうとしたら、中身は不明でガチャガチャと同じく当ててみろの方式だという。全部で9種類あるから…その確率は2/9。いくらワンピが好きとはいえ、これはリスクの大きな博打だ。こんな大きな博打を考えたのは誰だ?と恨みながら、こんな儲け方もあるのかと舌を巻いた。
ディズニーランドを歩きながら人気の「ワンピース」について考えてみた。ワンピースを題材にしたテーマパークはできないものかとい…しかし、それは難しいと思った。あのワンピをもってしてもとても、これだけのスペースは埋められない。せいぜいハウステンボスやラグーナのイベントの一環として花を添えるのが精一杯。米国のテーママークであるディズニーはそれだけでかい、ということだ。
ディズニーランドで昼のパレードを6年ぶりに観る。今年のパレードの前半は「自然」や「森」をテーマにしていて、登場したキリンには度肝を抜かれた。しかし後半はそのようなテーマ性はなく人気のキャラが居並ぶお決まりのパターンだった。震災の影響とかいろいろあって準備が不足したのかも知れないが、テーマ性を重視するスタイルが好きな私としては最後尾まで同じテーマで貫いて欲しかった。
3年ぶりに家族と東京ディズニーリゾートに出掛ける。16時に急にゲリラ豪雨に襲われたので慌ててホテルに避難。小降りになった18:30以降、再びパークに戻った。そうしたら、園内にはびしょ濡れになりながらも、並んでいる人がたくさんいた。彼らの顔は「遠くから来ているのだから、こんな雨で諦めるわけにはいかない」という気合に満ちていた。21:00までパークで楽しむ。雨もいい思い出になった。
「鉄分とカルシウムの多い脂肪0牛乳(グリコ)」を飲んだ。機能性に惹かれて買ってみたのだが、正直言って美味しくない。機能性を追求するために、ミルクならではの「自然の恵み」感が消えてしまったように思う。牛乳はコーラやビールのように人為的に造ったものではなく、元々は牛の乳という「生命の源」をいただいている。天からの授かりものだという有難さだけはかき消したくないものだ。
ばあちゃんの初七日法要の後の食事のとき、坊さんと話した。坊さんによるとばあちゃんは私心のない人で、よく人に「与える」人だったらしい。坊さんによると、仏の教えを説いてくれた人に、お返しをすることを布施と言う。ばあちゃんは、自分の周囲の人が皆、自分に何かを教えてくれる存在で、そのたびに布施をしていたのだろう。私も山菜や漬物、野菜など山ほど貰った。こんな私にいつも布施をしてくれてありがとう。
ばあちゃんへの弔辞では、ばあちゃんの口癖を披露した。村の人はばあちゃんのことを「姉さん」と呼び、村のおばさんたちは「姉さんはいるかな?」とよくばあちゃんを訪ねてきた。ばあちゃんはそのたび玄関に出て行き、一生懸命おばさんたちの話を聞いた。そして、それが危険な話なら「あらま、大騒動や!」とか「あ〜おそがいや」とか、悲しい話なら「お〜かわいや」とか、大きな声で相槌を打った。それが嬉しくてみんなやってきた。類まれな聞き上手な人だった。
白川村に住んでいた祖母が他界した。子供の頃からかわいがっていただき、他人を支える人生、他人のために尽く人生、他人に与える人生を貫いたとても大きな人だった。村民の皆さんの慕い方で誰もが感謝していることがよくわかり、しめやかな葬儀いうよりにぎやかな葬儀だった。祖母は2002年5月13日のこの日記に書いたように84歳とき趣味の刺し子の個展を開き、アーティストの仲間入りをする。老いてからも輝き続けるその生き様に脱帽。大きな器でいつも包んでくれたおばあちゃん、ありがとう。
健康食品販売の会社社長がリッツカールトンに家族で泊まったときの話。子供が風呂の水を出しすぎてフロアが水浸しになった。社長はその光景に弁償することを覚悟したという。しかし、リッツの人は「自分の責任です。申し訳ありません」といい、社長一家を責めることはなく即座に別の部屋を用意。弁償まで覚悟した社長一家は以後リッツの大ファンになったという。矢印を自分に向ける人はファンを増やす。
某社で管理者研修。課長と係長のペアで受講していただき、半年かけて職場内の問題解決に挑む。課題解決の計画は課長が立案し一方的に説明、部下の協力を求めるケースが多いが、示された目標や取り組み内容に納得できない部下は「やらされている」という後ろ向きの想いを強くする。それを避けるために上司部下が一緒に考え、一緒に決める場を作るのがこの研修の趣旨。受講生には知識の習得より場の用意の大切さだとわかってくれればありがたい。
地元の家族が集うパークから経営計画策定を手伝って欲しいとのオファーを頂いた。私自身が子供たちを連れて数限りなく訪れたパーク。その再設計に携わることができるのは望外の喜びだ。近年は財政逼迫や仕分けの影響でマンネリ化したまま更新されない施設や、閉鎖される施設もある。しかし、今日もまた大勢の人が子供を連れて訪れてい。子供たちの笑顔と成長を思い出し恩返しのつもりで企画してみたい。
甲子園で2勝した能代商業の地元の練習グランドがTVで報道された。同校は2年連続出場だが、昨年は鹿児島実業に0-15(相手23安打、能代商3安打)「で大敗している。その屈辱を晴らすべくそのときのスコアボードが掲示されていた。1年間、これを掲げてプレーしてきたのだ。そして今年、再び当たった鹿児島代表校に5−3で勝利した。捲土重来の精神で成長する選手の姿を見て、勇気付けられた。
今年の甲子園の高校野球は本塁でのクロスプレー&タッチアウトが多い。かつてはそれが奇跡のように言われたが、今では当たり前の光景になった。選手がイチローや松井選手のレーザービームを観練習を積んだ成果だろう。イチローや松井選手は内野手の方が優れている、花形といわれた外野手のイメージをガラリと変えた。直接指導することのなくても憧れが存在することは、人財育成上欠かせないのだ。
UFOキャッチャーばかりのゲームセンタを覗く。その店の景品の人形の6割が「ワンピース」キャラだったので驚いた。「麦わらの一味」だけでなく、長い連載の中で一瞬だけ出てきたような敵キャラも多数存在。おそらくUFOキャッチャーでしか手に入らないレアものも多いのだろう。このフィギュアのために何千円と突っ込む中高生が目に浮かんだが、自己投影心を煽るこんな企画を考えた人に脱帽だ。
子供と故郷の川で遊んだ。流れに乗って泳ぐ・岩場から飛び込む・ヤマメを釣る・アマゴを潜って突く…やれることはこのくらいなのだが、どれだけやっていても飽きない。悲鳴を上げるほど冷水と、これ以上はないという透明な波に流されると、大人も子供もすべてを忘れて童心に返る。帰りに息子が「今日は遊び尽くした」と言ってくれて嬉しかったが、人生のデザートというべき最高の贅沢タイムだった。
墓参用の花を買いに行く。いつもの店でいつもの花を頼むと、いつもより綺麗でない。「?」と思って店の奥を見ると、「浄財」の張り紙。今日は店主のおじさんが出てこなかったが、おそらく店主であるおじさんが亡くなり、奥さんと息子さんでやっているのだろう。「追加料金を払うのでもう少し綺麗にして」と頼み対応してもらったが、個人技を標準化しておかないとサービス業は安定したCSを提供できない。
プロ野球を観る。外人投手の投げ合いで、非常に試合進行のテンポが良かったが、日本人投手に代わった途端に進みが悪くなった。投手によって投球の間合いが全然違うのである。長い投手は、一球毎にプレートをはずし、ロージンを触り、帽子を取って汗をぬぐい、 何度もランナーを見る。これで、途中の1分20秒。他の投手は10〜12秒。一球が命がけというのはわかるが、サッと決めサッと動くのが気持ち良いのはどの仕事も一緒だ。
喜多川泰氏の『賢者の書』の中に、武士道精神誕生に関する記載があった。江戸時代は身分差が厳しく、「何になるか」を選べなかった時代。よって武士は「どんな武士になるかを考えて生きる」ことにこだわり、それが武士道精神となったという。今日、職業は誰でも自由に選べる。その中で「何になるか」ばかりがクローズアップされ、「どんな人間になるかを考えて生きる」ことを忘れてしまったと、喜多川氏は警鐘を鳴らす。その警鐘は、私のような愚かな人間にも届いた。
野口嘉則氏の『いつだって、うまくいく!』の中に、こんな話が紹介されていた。フランス革命史の著者は、不運なことにその原稿を完成させた後に、その原稿を消失してしまう。その失意のどん底の中で「これくらいのことでくじけるような人間が書いたフランス革命史には価値がない。この本は誰が書いたかが問題なのだ」と意を決し再び著作に挑む。その姿勢に感動するとともに、本を書くことの本質を見た。
某外食チェーンの社長と話す。同社は価格ではなく、味と前後のサービス品質によって顧客から評価される会社を目指している。そのため同店は実際に高い客単価にもかかわらず行列ができる大変魅力的な店になっている。その社長が上場したいという。が、上場が必要か、慎重に考えたほうがいい。株主が増えると、個性的であり続けることが難しくなる。多店舗化より、個性を慕うファンを育てるべきだと思う。
沖縄に出張。ランチタイムにクライアントの女性が連れて行ってくれた店は、探さないと見つからない看板しか出ていない「隠れ家」のような存在の店だった。古民家を改造したそのレストランに入ると、那覇市内の特有の雑踏と熱砂から開放された。メニューはなく、決まった定食しか出さない。三種のサラダとテビチーとコーヒーがバイキング。都心にありながら沖縄の田舎を体験でき、大満足だった。
名古屋の地下鉄内に上着を忘れてしまった。駅に問い合わせると、「自分で終点の駅に電話して、あったら取りに行け」とのこと。連絡すると終点駅にあり、終点駅まで往復60分を無駄にしてしまった。この対応は名鉄だと全然違う。たとえば朝、電車に忘れものをしても、夕方には名鉄名古屋駅に届けてくれる。だから帰り際にピックアップでき、わざわざ取りに行く必要がない。忘れ物対応も官と民ではこんなにも違うのだ。
4日の竹内日祥上人の「他人の評価に満足しない」3つの教えの続き。教えの第三は「『何かに貢献したい』という想いを胸に、自分の気持ちを受け止めてくれる『お客との出会い』を楽しみに生きろ」。 大ヒット漫画『ワンピース』のように、「志」のある人は人との出会いを楽しみに生きることができる。自分が進む次のステージにはどんな人がいるのだろうか?それを楽しみにする人生は、本当に豊かな人生だと思う。
昨日の竹内日祥上人の「他人の評価に満足しない」3つの教えの続き。 教えの第二は「お客が酒井の仕事を評価するのではなく、お客から『酒井さんと一緒に仕事ができるのが楽しい』あるいは『酒井さんの仕事を支援させて欲しい』と言われることを求めなさい」。こんな発想はなかったので、頭を割られた想いだ。 今の私のクライアントは、このような感覚を持ってくれているだろうか?この教えを受けて不安に感じたが、逆に不安を払拭するくらい熱情的に仕事がしたくなった。
私には「他人から感謝される仕事を目標にする」ことを人に教えてきた時期があった。しかし、この生き方には少なからず違和感があった。他人の評価のためのみに生きるのは受動的すぎないかという疑問だ。そのことを、竹内日祥上人に質問してみた。すると上人は3つのことを教えてくれた。 その第一は「『自分自身への共感、納得感』を求めなさい」。CSは、その前にESがないと成り立たないというが、個人の場合もまずは自分の納得感があって、その上で他人に評価されると嬉しいもの。当たり前だが、まずは自分の納得感を大事にしようと思う。
31日の大学の同窓会で、何年かぶりに「慶應賛歌」を歌った。その中に「熱情」という言葉が出てきた。明治時代らしい言葉だな、と思って辞書を引いてみた。驚いたことに広辞苑では「熱情」の方が詳しく載っていた。曰く「一定の方向に向かって努力させ、冷静な判断をさせない感情の状態」。冷静な判断がなくなるのは問題だが、私自身50歳を前にして「ほとばしる感覚」が失せているのを禁じえない。今一度「熱情」を取り戻したい。
中国の高速鉄道事故の顛末を見ながら、「中国政府は国民のレベルを随分過小評価しているな」と感じた。「証人の命より鉄道技術を高く売ることが大事、証拠は揉み消せ、真実を隠せ…」という利己主義の感覚は、民衆を愚民と見ている証だろう。が、これと同じことを日本政府もしている。肉牛出荷停止は、政府の放射能汚染の隠蔽工作が引き金になっている。今の日本に、中国の高鉄事件を批判する資格はない。
昨日は大学の卒業25周年の大同窓会だった。同期の卒業生5000人のうち1100人がニューオータニに集まった。皆、いいおじさんになっていた。正装者が多い中、私は少し砕けた服で参加した。が、もっと砕けた人も多く、おじさんたちのファッションはとても勉強になった。一方で未だに学校のカラーを引擦る人も多数いた。この日のために3年前から準備してきたという幹事の皆さん、ありがとう。皆さんの頑張りには本当に頭が下がる。