12月の始め、2年ぶりに歯医者に行きました。 同じく2年ぶりにレントゲンを撮りました。 レントゲン写真を見た瞬間、歯医者さんが「うわっ!」と、何かゲテモノ料理でも目の前に出されたかのような声を挙げました。 写真を見ながら、私への説明が始まりました。 「何でこんなになるまでほっといたの。奥歯の下に膿が溜まってって、このままほっとくと血管にまで侵食していくよ。痛くない?」 いや、全然痛くない……、心の中で呟きました。ほんと、全然痛くなかったんです。自覚症状ゼロでした。 「これは、うちじゃ直せないよ。紹介状書くから、大学病院で診てもらってくれるかな。多分、手術することになると思うよ」 え? そんなにデカイ事だったの……。
3日後、鶴見にある大学病院に行きました。いや〜、ビックリしました。何がビックリって、診療台の数です。町の歯科では、せいぜい3台ぐらいしかない診療台が、ザッと見ただけで20台ぐらいありました。全ての台に患者が座ると、なかなか異様な光景に見えました。
担当ドクター(なぜかみんなドクターと呼んでいた。大学病院では当たり前?)と話をしました。 「これは、やっぱり手術した方がいいね」 あっさりしたものでした。 手術の手順を決めるために、もちろん歯の状態もチェックされました。 「ちょっと、口開けてくれるかな」 口を開けるとビックリ! 私の口の中を覗いていたのは、ドクターだけではありませんでした。白衣を着た学生やら研修医らが、メモ帳片手に覗いていました。 「げっ! おれは教材か」と思ったのは言うまでもありません。
その後、週に3〜4日は地元の歯医者と大学病院に通う日々が続きました。先々週は、生涯最大の痛みが訪れ(ようやく自覚症状が)、急患で診てもらいました。その間、食べたものといえば、うどんと豆腐、たまに蕎麦といった感じでした。歯の大事さを、痛切に感じた日々でした。
そんなこんなで……、明日30日からしばらく入院することになりました。手術は全身麻酔とのこと。誓約書やら同意書やら、書類をたくさん書かされました。 母親は「全身麻酔でそのまま目覚めない人もいるんだよ」と、これから全身麻酔にかかる息子に言うべき言葉か? と思う心優しい言葉を投げかけてくれました。ちなみに、全身麻酔は必ず親が立ち会わなければいけないそうです。それだけ、危険ってことなのでしょう……。
無事に手術が終われば、また日記に戻ってきます。それまで、更新できませんので、ご了承ください。なお、友人、知人などなどの心優しいお見舞いメールは、エンピツメールへお願い致します。選抜甲子園出場校の速報なんぞ入れてくれると、とっても嬉しいです。もちろん、メロン持参でのお見舞いもお待ちしております!
2003年01月27日(月) |
第2回スポーツライター塾のお知らせ |
作家・スポーツライターの小林信也が主宰する「第2回スポーツライター塾」が3月7日(金)から、東京・三鷹で開講します。 前回に引き続き現場取材も予定しております(今回は大学野球春季リーグや、高校野球春季大会、プロ野球など)。 詳細は http://www.s-move.jp/ をご覧ください。 また、個人的に質問等ある方は、私宛までメールをお送りください。
2003年01月23日(木) |
来季へ(5) 横浜国大・渡邊裕文投手【2】 |
なぜ、エース番号の封印を破ろうとしたのか。 今まで笑みを浮かべながら話していた渡邊だが、その話しになったときだけ、真顔になった。 「着けなきゃいけないと思ったので」 短すぎる言葉。でも、想いは十分伝わってきた。エースの自覚を感じた。
渡邊は、大学進学を決める際、国大のほかに、関西の名門大学も視野に入れていた。国大へ進めなければ、その道に進むつもりだったという。 「国大でなく、関西の方に進んでいれば、野球は続けていなかったと思います。マネージャーやろうと思ってましたから」 渡邊のいた岐阜北高は3年夏の県予選、初戦となった2回戦で大垣東に3−6で敗れた。甲子園は夢の夢。あっという間の夏だった。 「大学で野球を続けるなんて、考えられなかった。自信もなかったですし」 いわゆる「強豪」ではない国大だからこそ、野球を続けることができたといえる。
渡邊は目指している選手に、高津の名を挙げた。 投球フォーム、投げ方が、よく似ていると思う。足りないのは、中身の質。 国学院大戦で、遅いシンカーがほとんどなかった点が、もったいないなぁと思った。その話しを渡邊に振ると、「マスターしたいとは思っているんですが、まだ未完成なので怖くて投げられない」と答えた。
学生コーチのひとりである黒田は、「北川さんが抜けたあと低迷が続いたが、来季のチームには手応えを感じている」と話す。 渡邊も野原も、以前から同じようなことを言っていた。 「自分たちの代になったとき、国大を変えます」 変わるのではなく、変える。明確な意志が感じられた。
春季リーグ開幕まで、約3ヶ月。 神奈川大学リーグに、国大旋風が巻き起こることを今から楽しみにしている。
2003年01月10日(金) |
東林中学 日本一への挑戦(4) 修徳中との合同練習【2】 |
二人一組によるキャッチボールで練習は始まった。両足を揃えたり、片足を浮かして投げさせたりと、様々な投げ方で指導をしていた。 私が一番驚いたのは、修徳中の選手が「股投げ」と呼んでいた投げ方だ。右投げであれば、まず投げるときに左足を上げるが、その左足の下からボールを投げる。スナップがうまく使えていないと、相手に投げることはできない。初めて挑戦した東林中の選手は戸惑うばかりで、ボールがあっちへ行ったりこっちへ行ったりと、まるでキャッチボールになっていなかった。それでも、何球か投げていくうちに、レギュラークラスはさすがに飲み込みが早いのか、しっかりと投げ返していた。
キャッチボールのあとは、内外野に別れての守備練習が1時間ほど続いた。そして、最後はサーキットトレーニングで合同練習は終了した。
佐相先生は、内野の守備練習を見ているときに「色々、勉強になるなぁ」と感心していた。 「修徳中の守備には何か秘密がある。全然エラーしないし、どうやって教えているんだろう。修徳の守備を盗めたら良い」 合同練習が決まったあと、私にそう話していた。 先生は、手応えを確実に掴んでいたようだった。
練習中、「みのるさんの今年の目標は?」と訊かれたので、「今年こそ、雑誌に書きたいです」と答えた。「先生は?」と振ると、「おれは……」。先生の視線の先には、練習着を来た生徒の背中があった。全部員の背中には『全国制覇』と書かれている。「毎年、全国の頂点が目標」、先生は躊躇することなく言った。 この日頂いた年賀状にも、『全国制覇あるのみ』と書かれていた。 生徒に配った『平成15年 東林中学野球部 試合日程』にも、決意が記されてある。
【7月6日 相模原市中学校総合体育大会開幕】
「この日が背中と帽子に書いた全国制覇の第一歩 今までの先輩が果たせなかった目標をぜひ今年実現して欲しい」
2003年01月06日(月) |
東林中学 日本一への挑戦(3) 修徳中との合同練習【1】 |
12月下旬。東林中・佐相先生からメールを頂いた。 「1月6日、修徳中と合同練習をすることになりました。修徳中の守備を学びたいと思っています」 昨夏の神奈川県大会の決勝。守備の乱れから、上溝中に惜敗した。1年を通して、打撃では相手を倒すことができたが、負けるときは、小さな守備の綻びが原因だった。 「打ち勝てるチームを作りたい」と、佐相先生は頻繁に口にする。他県が主催する中体連の講習会には何度も「バッティングの講師」として招かれている。明徳義塾の試合を甲子園で見たあとは、「明徳みたいなチームを作りたい。打ち勝てるチームを作りたいよ!」と興奮気味に話していた。「打ち勝つ」ことにこだわりがある。 でも、大会を勝ち進めば進むほど、「打」だけでは太刀打ちできないときがある。「堅守」が必要となる。 「昔はバッティング練習ばかりやっていたけど、最近は守備練習にも時間を費やすようになった。上に行ったときは、守り勝てないとダメなときもあるんだよね」
合同練習を行う修徳中とは昨夏の関東大会初戦で対決。修徳中が5−3で勝利を収め、そのまま決勝まで勝ち進んだ。関東2位校として臨んだ全国大会では、初戦で大会3連覇を狙う明徳義塾中を下すなど快進撃を続け、3位に輝いた。「もし修徳中に勝っていれば……、全国への道が拓けたかもしれない」。東林中関係者の共通の想いだった。 筑川がいたときも、関東大会の決勝で修徳中と対戦し、敗れている(当時の修徳中には、のちに東海大浦安で全国準優勝投手となった浜名翔もいた)。また、春秋には定期的に練習試合を行うなど交流がある。ライバルでありながら、お互い切磋琢磨し、レベルアップをはかっている。
6日、東林中グラウンドで行われた合同練習。 午前中は、佐相先生によるバッティング指導。昼休憩を挟んで、午後からは修徳中・小野寺先生による守備指導が始まった。
新年あけましておめでとうございます。「野球きちがい日記」は2度目の正月を迎えました。おかげさまで、3万アクセスも目前に迫っております。アクセスして頂いた全ての方に感謝いたします。
12月の始め、ある高校野球部の選手に「ネットで日記書いてますよね?」と訊かれました。彼が、日記を読んでいることは、周りからチラホラと聞いてはいたのですが、いざ面と向かって言われると、恥ずかしさと嬉しさが入り混じった複雑な気持ちになりました。 彼のことは日記で何度も書いているので、書かれた本人はどのように思っているのだろうか。もちろん、本人に読まれることを意識して書いてはいるのですが、やはり本人の感想は気になります。
12月中旬の「スポーツライター塾」では塾生ふたりが組んで、お互いを取材するという課題を行いました。人数の関係で私も参加したのですが、これがなかなか新鮮でした。 今まで取材される側、書かれる側に立ったことはなかったので、「なるほど、自分のことを訊かれるというのは、こういう気持ちなんだ」と、少しですが、理解できたような気がします。 また、書き終わった作品は、それぞれ取材した本人の前で、声を上げて読みました。取材対象者を前にして読み上げる……、何とも言えない気持ちになりました。書かれて嬉しかったのか、事実と違うよと思ったのか……。
細々と書いていた日記ですが、最近は読んでいる方々の顔が分かるようになってきました。顔というのは、いつも読んで下さっている方々のことです。毎日アクセスしてくれている方もいるそうで、嬉しい限りです。 その中には、大学野球部の現役選手もいます。たまたま、検索で見つけて、アクセスしてくれたそうですが、「自分のことが書かれていて、ビックリしました!」とわざわざメールを送ってくれました。地方リーグに所属している彼は、ほとんどメディアに取り上げられることがなく、「ビックリしたけど、嬉しかったです。見られていることを良いプレッシャーにして、頑張りたいです」とメールには書いてありました。 昨年を振り返ると、桐光学園の甲子園出場や東林中学の関東大会出場と、取材してきたチームが良い結果を残し、非常に嬉しいことがありましたが、彼からもらったメールもそれに負けないぐらい、私にとっては嬉しい出来事でした。
昨年の夏前までは、「読まれること」はあまり意識していませんでした。でも、読んで下さっている方の顔が見えるようになり、色んな意味で「読まれる意識」をするようになったと思います。べつに、書いた選手を持ち上げようとは思いませんが、取材した選手が日記を読んだとき、読んだ前と後で何かが変わってくれたら嬉しいです。 10月25日に書いた「人生を変える本」の日記で、「最後の頁を読み終えて顔をあげたとき、目に映る姿が、これまでとは違ってみえること。良い本の条件はただ一点、これのみである。世界中が輝いて見えるような、ドラマティックな変化ではなくてもいい、ほんの僅かな変化でいい」(『新潮45』から引用)と書きました。 私の日記も、そうなりたいと思ってます。
本年もよろしくお願いいたします。
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