みのるの「野球日記」
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2002年12月25日(水) 来季へ(4) 横浜国大・渡邊裕文投手【1】

 マウンドに上がった渡邊を見て、「あれ?」と思った。
 自宅を出る前に、国大野球部のHPからプリントアウトしてきたメンバー表に目を落とす。やはり、違う。メンバー表には背番号「13」と記されていたが、この日の渡邊は「18」を着けていた。
 もう一度メンバー表を見る。3、4年生を含めても、「18」を着けている選手がいないことに気付いた。

 渡邊に初めて会ったのは、今年6月のこと(※6月23日の日記参照)。神宮球場で行われていた全日本大学選手権を同期の野原投手と観戦しに来ていた。「国大のエースです」と野原から紹介されたことを覚えている。「小さくて細い」それが第一印象だった(本人曰く、171cm、60kg)。

 秋のリーグ戦。
 渡邊は第3週の横浜市大戦の第1戦で初先発。取りこぼしの許されない試合で(国大が確実に勝てる相手と言われている)、9回1失点と完璧なピッチングを見せ、国大に秋季リーグ初勝利をもたらした。
 第4週の横浜商大戦でも第1戦に先発。9回を3失点に抑えるも、味方の援護がなく1−3で敗戦。最終週の対神奈川工大戦も初戦に先発。だが、9回4失点で勝ち投手にはなれなかった。
 
 3試合すべて完投。成績は1勝2敗。2年間の通算勝利は5勝(市大3勝、工大2勝)となった。

 
 国学院大とのオープン戦。渡邊のピッチングを見る初めての機会だった。
 右サイドハンドから、ナチュラルシュート、スライダー、シンカー、ストレートを左右に投げ分ける。ヤクルト・高津に投げ方が似ていた。
 当初は5イニングの予定が、調子が思ったよりも良かったということもあり、6イニングを無失点で投げぬき、先発の役割を果たした。
 ほぼベストメンバーだった国学院大に対し、6回を散発の2安打、四球2、三振1という内容だった。

「こんなに良い試合ができるとは思いませんでしたよ」
 試合後の第一声だった。
 クラブチームからの勝利を除けば、強豪(国大から見て)と呼ばれる大学に勝ったのは、今年初めてかもしれないということだった。話しをしながら渡邊の顔には自然と笑みがこぼれていた。背番号のことを聞いてみた。

「18にしたのは、秋のリーグが終わってから?」
「そうです」
「エースナンバーって意味で良いのかな?」
「そうですね」
 少し照れながら答えた。

 隣で話しを聞いていた野原が、突っ込みを入れた。
「18番着けるために、北川さんの携帯に電話したんですよ。いきなりだったんで、こっちがビックリしましたよ」

 野原の話しによれば、北川卒業後、その活躍に敬意(?)を表して、誰も「18」を着けようとはしなかったそうだ。国大の「永久欠番」として、エースナンバーは封印されていた。

 その封印を渡邊が2年ぶりに破った。



2002年12月21日(土) 来季へ(3) 横浜国大・野原慎太郎投手【3】

 笑顔を浮かべながら、話を続けた。
「今は野球をやっていて、充実感があります」

 東海大相模は、門馬監督の指導のもと、ベンチ外の選手も、それぞれの仕事を全うしている。相手投手の癖を見抜く、試合のデータを洗う、レギュラー選手にグローブを渡すなど、試合に出場している選手だけでなく、全部員で戦っている。
 先日、野原からは「自分らの代の相模は、尊敬している選手に、ほとんどの選手が『井上』と書いてましたから。そんなチーム、他にないと思いますよ」とメールをもらった。
 井上とは、高2からマネージャーに転向し、チームを陰で支え続けた井上茂樹マネージャーのことだ。
 裏方も含めた全員野球が浸透していたことを物語っている。

 野原も、夏の県大会はベンチ入りを外れたが、ネット裏から戦況を見つめ、チームが勝つためのデータを作り上げていた。試合には出られなかったが、「戦力」になったという自負は持っている。


 でも、国大でやっている今は、高校時代とはまた違った充実感があると話す。日々、辛い練習に励むのは、やはり試合で結果を残すためのもの。選手として野球をやる限り、グラウンドで結果を出したい。今の野原には、その機会がある。

 野原は、秋季リーグ終了後、2年生ながら投手陣のリーダーに指名された。国大は専属のコーチがいないため、投手、内野手、外野手など、それぞれの部門にリーダーを置き、そのリーダーが練習メニューを考えるシステムを採っている。
「高校時代の練習メニューをみんなで出し合って、良いものを採り入れるようにしています」と野原は言う。


 神奈川大学リーグは、長らく3強の時代が続いている。神奈川大、関東学院大、横浜商大。横浜国大は、北川がいたときこそ、2位に入ることもあったが、卒業後は神奈川工大との4位、5位争いが定位置となってしまった。

「今、3強に24連敗中なんです……。来年からはとにかく、この一角を崩したい」
「自信はある?」と訊くと、
「これからの冬トレで、戦える自信を作っていきたい」と力強く話した。

 
 国学院大戦。勝利の原動力となったのは、1点差を守り切った野原、常にチームを引っ張り、試合では同点弾を放った主将・大槻、そして先発し6回を散発の2安打に抑えた先発・渡邊裕文である。

 渡邊は秋季リーグ後に着けたエース番号「18」に恥じぬピッチングを見せた。



2002年12月17日(火) 来季へ(2) 横浜国大・野原慎太郎投手【2】

 野原のピッチングを見るのは、2年半ぶりだった。高校3年の春季県大会。桐光学園との決勝以来である。相模時代はサイドスローから、変化球主体で攻める「技巧派」という言葉がピッタリと合う、ただコントロールには課題がありそうな印象を受けた。

 野原は高校1年の秋まで、オーバースローで投げていた。だが、秋が深まる頃、サイドスローへのフォーム変更を決めた。監督に言われたわけではない。自ら決断した。
「隣で、筑川と山本がビュンビュンと速い球投げていたんですよ。これは敵わないと思いました」
 
 フォームを変えても、最後の最後まで筑川と山本を追い抜くことはできなかった。

 
 野原は国学院大の先頭打者・広兼(3年・高陽東)に対し、カウント2−3から四球を与えた。2番・真野目(3年・学法石川)は初球をバント。野原は一塁へワンバンド送球。一瞬ヒヤリとしたが、野手がうまく捌き、1死二塁へ場面は変わった。
 
 1点差で抑えに登板。明らかに緊張の色が伺えた。

 同点のピンチで、主軸に打席が回る。
3番・松田(秋田経法大付)に対し、まずはシンカーでストライク。2球目に緩いカーブを放り、カウント2−0。カーブが決まった瞬間、「ヨシッ!」と右手で小さく拳を作った。3球目は外角へのシンカー。サード正面へのゴロに打ち取った。計算どおりのピッチングだった。
 
 勝利まで、あとひとり。
 左打者の4番池田(国学院久我山)を迎えた。ストレートとカーブで2−1と追い込んだあと、シンカーを投げ込む。低めに落ちるシンカーに、池田のバットは空を切った。野原はマウンドを降り、キャッチャーと笑顔でハイタッチをした。

 今秋、東都2部リーグ2位の国学院大を、横浜国大が2−1で破った。

 試合後、勝利の余韻に浸りながら、野原は笑顔で話した。
「自分がチームの戦力になっていることが嬉しい。最高のゲームでした」



2002年12月13日(金) 来季へ(1) 横浜国大・野原慎太郎投手【1】

 11月のはじめ、横浜国大・野原慎太郎投手(2年)から、メールをもらった。
「14日に、横浜スタジアムで国学院とのオープン戦があるので、良かったら見に来てください。自分は抑えで登板する予定です」
 迷うことなく、行く旨を伝えると、
「大学に入ってから、知り合いを試合に呼ぶの初めてです。今まで恥ずかしくて、友達すら呼んだことなかったんです。新チームから国大は変わろうとしているので、是非来て下さい」
 
 野原は名門・東海大相模出身。2000年のセンバツ甲子園では、優勝を経験している。ただ、甲子園での登板は一度もない。筑川(現東海大2年)、山本(現国際武道大2年)とふたりの好投手がいた相模では、活躍の場がなかった。最後の夏の大会は、20人のベンチ入りメンバーに入ることすらできず、ネット裏で同期の活躍を見つめた。

 高3の夏休み、進路先で悩んでいた野原は国大のグラウンドを訪ねた。そこに、のちにプロ入りを果たす北川智規投手(当時4年)がいた。
「大学に入って、野球部をやろうかどうか迷っていたんです。あのとき、北川さんと話しをすることができて、確か30分ぐらい、わざわざ練習を抜けてくれて、延々話しをして頂いた記憶があります。『国大はいいところだぞ。自分で考えて野球ができるぞ』と言われて、やってみようかなと思いました」

 同期の仲間が東海大など、強豪チームを選ぶ中、野原は国立の最難関・横浜国大を選んだ。
 だが、入部から2ヵ月後の6月。野球部を続けていく気持ちが薄れていた。
「もう、本当に辞めようかと思いました。部というよりも、サークルに近い感じに思えて……。でも、大槻さん(3年、現新キャプテン)に言われたんです。『オレらの代になったら、国大は変わるから。それまで我慢しろ』。大槻さんがいなかったら、もう辞めていたと思います」

 国学院大とのオープン戦。0−1とリードされた国大は、8回裏1死二塁と同点のチャンスを迎え、打席には3番大槻が入った。大槻はカウント1−3からのストレートをコンパクトに振りぬくと、打球はバックホームに備え少し前よりに守っていたレフトの頭上を越えていった。
 セカンド塁上でガッツポーズする大槻。それに呼応するかのように、ベンチでは全選手が両拳を突き上げ、喜びを表していた。ベンチ前で軽いキャッチボールをしていた野原も、その手を休め、ガッツポーズを見せた。
 その後、2死二塁から、5番新井がセンター前へタイムリーを放ち、国大は2−1と逆転に成功した。

 「抑えで登板します」とメールをくれた通り、9回表からは野原がマウンドに上がった。



2002年12月09日(月) 忘年会

 7日(土)、8日(日)と2日連続で忘年会に行った。
 土曜日は日記でお世話になっている『野球小僧』の忘年会。翌日は2年前から応援してきた桐光学園・応援団(桐光を応援する人たちの集まり)の忘年会。
 ともに、この「野球日記」を書いていたからこそ、参加することができたものだ。特に桐光学園については、日記で取り上げる回数が増えるにつれ、交友範囲も広まっていった。今までは球場に行っても、誰ひとりとして知り合いなどいなかったのに、夏の県大会が進むにつれ、ひとりまたひとりと会話を交わす機会が増えていった。「いつも日記読んでますよ」と声を掛けられることが、嬉しかった。
 最初は「自分の書きたいことをただ書いているだけ」の状態だった。でも、掲示板やメール、球場で、読んで頂いている方からの反応を知ると、「書きたいことを書くこと」に加え、「多くの人に読んで欲しい」という思いに変わってきた。やはり、自分の書いたものに対して、反応をもらうのは嬉しいことだ。また、書くことで、今まで会う機会のなかった方と交流することも増えた。

 『野球小僧』忘年会では、私と同じく「野球日記」を書いている方々とも話をした。驚いたことに、「つい最近、会社を辞めて、本格的にスポーツライターを目指し始めたんです」という方が何名かいた。彼らは、新人賞への応募原稿を執筆したり、各出版社へ売り込みに行ったりと、プロへの道を探っていた。
 
 忘年会は、毎年この時期に行われる。どうしても、昨年の今頃を思い出して、今の自分と比べてしまう。果たして、1年間で自分は成長したのだろうか・・・・・・。
 来年こそは、今の事務所の仕事だけでなく、『野球小僧』や『ホームラン』など野球関連の雑誌にライターとして名を連ねたいと思う。
 



2002年12月05日(木) 地方大会の名勝負

 仕事の関係で、地方大会(高校野球)の名勝負、探しています。夏の大会に限りません。春季大会でも秋季大会でも、地方のリーグ戦、新人戦でも構いません。情報下さる方は、メール(あるいは掲示板)にてお願いします。

 神奈川を中心に見てきた私にとっての名勝負は・・・・・・、
(1)90年夏・準々決勝 川崎北3−1厚木(延長16回)
 生では見ていないのですが、TVK(テレビ神奈川)の速報に一喜一憂していた記憶がります。確か、TVKは保土ヶ谷球場での試合を中継していて、その最中に、この試合の速報が随時流れてきていました。
 この年は、ベスト8のうち5校が公立高校。決勝も横浜商vs神奈川工というカードでした。「公立旋風」の4文字が神奈川新聞に何度も登場していました。川崎北と厚木はその代表という感じでした。
 川崎北のエースは河原純一。卒業後、駒大を経て、巨人入り。今年は抑えのエースとして活躍し、胴上げ投手にもなりました。対する厚木のエースは川村丈夫。立大進学後、日本石油を経て、96年ドラフト1位で横浜に入団。横浜ではローテーション投手として先発投手陣の一角を担いました。
 延長16回。ふたりとも最後まで投げぬきました。生で見たかった・・・・・・。
 ちなみに勝った川崎北は、準決勝で神奈川工業に敗れました。河原に準々決勝の疲労があったのでしょうか。ヒジ痛(肩痛?)でゲーム中盤、二番手に交替してしまいました。

(2)00年夏・5回戦 東海大相模1−0桐蔭学園
 センバツ甲子園で優勝した東海大相模と、甲子園の常連桐蔭の試合。何で、5回戦なんかで当たるんだよ・・・・・・、と抽選を恨んだのを覚えています。相模のエースは筑川。桐蔭は深澤(だったと思います)。筑川が1点を守り切って、完封勝利をあげたのですが、試合後のコメントが冴えてました(色んな意味で・・・・・・。あ、ここには書きません)。やっぱり、すごい投手だなと思いました、この試合を見て。ですが、試合後、右手中指にマメができてしまい、県商工戦の敗戦に繋がっていきました。
 ちなみに、1年生でベンチ入りしていた桐蔭・栂野が2番手として登板。相模打線を完璧に抑えました。身体もマウンド捌きも、スピードも、とても1年生とは思えず、「とんでもねぇ、やつだ!」と思いました(色々欠点はありましたが・・・・・・)。
 もうひとつ、ちなみに・・・・・・、試合のビデオは我が家に大切に保管されています。
 筑川がまたマウンドで投げる姿を、一日も早く見たいです。

 京都在住の高校野球ファンに、名勝負を教えてもらいました。何試合か挙げてもらったあと、「あぁ、あの試合も!」と教えてもらったのが、今夏の京都大会、準々決勝「平安vs福知山成美」でした。昨年(01年)の夏、秋、そして今年の春と、京都大会3連覇中だった王者平安が、0−8の7回コールドで敗れた試合です。福知山成美も優勝候補の一角に挙げられていたそうですが、「まさか」の結果だったそうです。

 埼玉に住む方にも訊くと、「一昨年の決勝戦!」と返答がきました。
 00年夏の埼玉大会決勝、浦和学院が2−1(延長10回サヨナラ)で春日部共栄を下した試合です。両チームのエースは浦学・坂元(現ヤクルト)、共栄・中里(現中日)。どちらも、高校卒業後、プロ入りを果たしました。中里は2年の秋ころから、注目を集めていましたが、坂元の名が全国に売れたのは、県制覇後の甲子園でした。初戦の八幡商戦で、19奪三振の快投。伝家の宝刀スライダーが、面白いように決まり、奪三振ショーとなりました。
 
 そんなわけで、あなたの地方大会名勝負、ぜひ教えてください。



2002年12月01日(日) 早稲田大学・越智大祐投手

 去年の『報知高校野球』を読んでいたら、現在早稲田大学1年の越智大祐投手(愛媛・新田高校出身)が写真入りで掲載されていた。今と変わらぬダイナミックなフォーム。「183cm、82kgの恵まれた身体を生かし……(中略)、投げ込む速球はMAX142km」と紹介している。
 やっぱり、高校時代から球は速かったんだなぁと思って読んでいたら、ビックリビックリ! 「正捕手争いに敗れ、一昨年の11月に投手に転向」と書いていた。思わず「え?!」と声を上げてしまった。あの越智が元捕手、しかも正捕手争いに負けたなんて……。捕手でレギュラーを掴んでいれば、「投手・越智」は誕生しなかったということか。不思議な感じがする。ちなみに3年の夏の大会は初戦、今治西に5−6で惜敗している(春は愛媛県大会優勝)。

 今秋のリーグ戦。越智は第2戦で先発を任されたが、完投はゼロ。第3節の明大戦では1回3分の2で、第4節の立大戦でも3回3分の0でノックアウトされた。
春と秋の成績を見てみると、
 
 春 7試合(先発6試合) 2勝0敗 21回2/3 
   16三振 19安打 1本塁打  7四死球 防御率2.91
 秋 5試合(先発5試合) 2勝0敗 21回2/3 
   28三振 26安打 1本塁打  4四死球 防御率3.74

 ともに21回3分の2イニングを投げ、2勝0敗。秋は春に比べ、三振も増えたが、安打数も増えた。「第2戦の先発」としては、まずまず(上出来?)といったところだろうか。

 リーグ戦終了後の神宮大会。越智は初戦の広島大戦で先発し、5回を無安打、5三振、無失点の好投を見せた。
 翌日の東北福祉大戦の先発はエース和田。和田は6回を投げ、5失点。本来の調子とはほど遠く、野村監督は7回から越智をマウンドに送った。1イニングだけ投げ、3者凡退に抑えた。

 試合後、選手控え室の出口には、大勢のファンが詰め掛けていた。バラバラと早大の選手が出てきた。長身の越智はひときわ目立った。
「和田さんのあとに投げるとは、まさか思ってませんでした……」。
 越智にとって、公式戦で和田のあとを継ぐのはこの日が初めてだった。そして、最初で最後となった。
「和田さんには練習に臨む姿勢や、勝てるピッチング術を教えてもらいました。今日ではなくて、明日……。4年生とできる野球を明日終わらせたかったです」

 来年の早大は、和田の卒業でエース争いが繰り広げられる。第1戦に先発するのは中継ぎで着実に実績を残してきた左腕清水(3年)か、それとも越智か。そして、来春には有望新人が多数入部してくる。しかも、投手に逸材が揃った。センバツ優勝投手・大谷(報徳学園)にセンバツベスト4の宮本(関西)、プロも注目した福本(高知)など。越智にこの話を向けると、
「う〜ん、まだ他の人のことを考えられる余裕はないです。今は自分のことで精一杯です。エース争いとかも、まだまだ先の話です。とにかく今は自分でやれることをやるだけです」

 越智といえば、常に145km前後を記録するストレートが注目されている。現在の最高速は「147km」だという。「目標は150km」かと思いきや、違った。
「スピードはもういいです。いくら早くても甘く行くと打たれることが分かりましたから。この冬は下半身を鍛えて、安定したコントロールをつけられるようになりたい」

 和田をはじめ、長田(慶大)、多田野(立大)、土居(法大)といったエースが今秋卒業した。それぞれの大学で、第1戦の先発を争い、早くも熾烈な争いが始まっていると思う。
 来春、一回り大きくなった越智が、早大の第1戦のマウンドに上ることを、今から楽しみにしたい。


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