みのるの「野球日記」
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2002年08月27日(火) 桐光学園全国制覇を目指し(13) 真のエースへ

 8月18日、桐光学園の夏の甲子園が終わった。川之江高校に3−4で惜敗。ベスト16で甲子園を去った。
 敗戦から3日後の8月21日。日大三グラウンドで、新チーム初の練習試合が行われた。川之江戦に先発し、KOを食らった吉田干城が中2日で先発した。


 川之江戦。甲子園に到着したのは、第1試合智弁学園対智弁和歌山の6回頃だった。知り合いの記者A君にネット裏のチケットをもらいに行くと、A君は私の顔を見るなり、こう言った。
「大変なことになった。今日の先発、吉田だよ」
 A君の言う大変なこととは、「吉田のネタがない。何か良いネタ持ってない?」ということだ。でも、私は違う意味で「大変なことだ」と思った。甲子園の大舞台で、吉田の先発は全く予想していなかった。あるとすれば、コントロールが良く、度胸抜群の2年生の笠貫。「心臓が弱い」とされる吉田の先発は予想外だった。
 それから、試合が始まるまでの約1時間、吉田の立ち上がりだけが心配だった。1年の秋の準々決勝では、先発したものの1回持たずにKOされたこともある。今年の夏の県大会では、緊張のしすぎで顔面蒼白になり、先発を回避されたこともあった。立ち上がりを切り抜けた5回戦の法政二戦では、先発し7回まで好投を見せた。とにかく立ち上がりさえ切り抜けてくれれば…。それだけを思っていた。
 だが、吉田は結果を出すことができなかった。クリーンアップに2本のホームランを浴び、3回途中でエース清原にマウンドを譲った。

 試合終了後、ネット裏から吉田の姿だけを追った。校歌が終わり、アルプス席に挨拶に向かう途中、うつむき加減にずっと泣いていた。挨拶が終わりベンチに帰るときも、涙を流したままだった。
 取材を終えたA君に電話をかけると、「吉田が話ができないくらい泣いていて大変だった」と言った。「負けた責任をひとりで背負い込んでるだろうな」。翌日の新聞に、「負けたのはすべてボクのせいです」と吉田のコメントが掲載されていた。

 日大三との新チーム初の練習試合。桐光は4−8で完敗した。西東京大会準決勝の敗戦から約1ヶ月、秋に向けて練習を重ねてきた日大三と、甲子園の疲労が残るうえ、十分なチーム練習を積んでいない桐光との差が出た結果だった。
 この結果には何の驚きもしなかった。唯一驚いたのは、甲子園でのショックが残る吉田を中2日で投げさせ、しかも8点を失いながら、最後まで替えなかったことだった。

 甲子園で2試合連続の完封勝利を上げた清原は、1年前の練習試合でめった打ちを食らい9回を投げきることができなかった。
 2001年8月11日、対二松学舎大付戦。3年生引退後、初の練習試合で先発した清原は、4回までに4本のホームランを打たれ、大量10失点。交替を告げられた。新チーム最初の公式戦となった秋のブロック予選、法政二戦でも、清原は敗戦投手になっている。
 はっきり言って、清原は2年秋の時点では、もっと言えば3年の6月あたりまでは、甲子園で2度の完封を見せられるような投手ではなかった。でも、現実に県大会では優勝の原動力となり、甲子園でも大活躍を見せた。何が清原をあれほどの投手にさせたのか。
 「最後の夏、絶対に勝ちたい」と横浜商大戦のあとに話してくれた言葉が心に響く。先輩はいない。投手陣を引っ張っていくのは自分しかいない。エースの自覚が最後の最後に芽生えたのだと思う。


 9月7日、来春のセンバツの重要資料となる秋季大会が開幕する。夏の甲子園出場によりブロック予選を免除された桐光は、7日か8日に(5日に行われる抽選次第)新チーム初の公式戦に臨む。今夏のレギュラーからは5人の2年生が残った。
打撃と守りは、今の段階では県内トップレベル。だが、清原が抜けた投手力は優勝候補と目される横浜や東海大相模と比較すると、レベルが落ちる。

 まだメンバー発表は行われていないが、ほぼ間違いなくエース番号は吉田が背負う。吉田の活躍なくしては、センバツは見えてこない。先輩がいなくなり、最上級生となったこの秋。
 甲子園で味わった悔しさを糧に、清原に負けないほどの大エースに成長して欲しい。



2002年08月13日(火) 中学野球 相模原市の強さ(2)

 相模原市の学校は県大会出場や関東大会出場ではなく、目標を「全国大会出場」に置いている。東林中や上溝中においては、全国出場を飛び越えて、「全国制覇」を目標としている。東林中の練習着の背中には「全国制覇」、帽子のひさしの裏にも「全国制覇」と書かれている。全国制覇を目指している中学生など、全国に一握りしかいないと思う。
 
 いつも試合を行う近隣の中学が関東大会や全国大会に出場する。相模原市の中学にとっては、全国レベルの中学と試合をする機会が他の市よりも非常に多いといえる。
 県大会を一緒に見ていた友人が試合中「やっぱり相模原の学校は強いんだよね。東林中って強いよね」と話していた。友人はいつもいつも東林中の試合、練習を見ている。言い換えれば、東林中のそれしか見ていない。必然的に相模原市の学校との試合を見ることが多い。相模原市の大会では苦戦していた東林中が、県大会になると比較的楽な試合で勝つことができる。

 県大会に出場してみて、自分たちの強さに気付く。相模原市内で切磋琢磨し、レベルアップしてきたことが、市を出たときに発揮される。

 今年の関東大会で上溝中が優勝を決めたあと、県大会の決勝でその上溝中に負けた東林中の佐相先生に「上溝が優勝して、『おめでとう』と言って良いんですか?」と訊くと、「おめでとうで良いよ。これで相模原市の学校に刺激を与えてくれる。また上溝を目指して、他の学校がレベルアップしていけば良いんだよ」と話していた。

 関東大会を制し、全国に出場する強豪校が同じ市内にいる。選手にとって、また指導者にとっても、これ以上のお手本はないと言える。

 他にも相模原市の強さを探ると、「少年野球のレベルの高さ」「指導者の情熱、意識の高さ、育成のうまさ」が挙げられる(指導者については、『東林中学、全国への道』の中で触れていきたいと思っています)。



 現在、桐光学園のエースとして活躍する清原尚志は、東林中でも2年の夏からエースとして投げ、平成10年11年と神奈川県大会2連覇を飾った。平成10年には関東大会でも優勝し、仙台で行われた全国大会では3位に輝いている。
 エース清原を攻守で支えたのがショートを守っていた佐藤健介だ。東林中卒業後、桜美林に進学し、この夏は1番センターで活躍し、優勝に貢献した。

 ふたりは2日後の夏の甲子園2回戦で対戦する。

 桐光学園と桜美林。清原と佐藤を含め、ベンチ入り16名のうち相模原市出身者は、両チームぞれぞれ以下の6名ずつ。

<桐光学園>
 1 清原尚志 (東林中) 軟式
 3 佐藤宏樹 (内出中) 軟式
 5 照沼佑時 (大野台中)硬式 相模原ホワイトイーグルス
10 吉田干城 (若草中) 硬式 相模原ホワイトイーグルス
12 伊東浩邦 (上鶴間中)軟式
16 飯塚 翔 (清新中) 硬式 相模原ホワイトイーグルス

<桜美林>
 6 花房 誠 (大野北中)軟式
 7 照山忠幸 (旭中)  硬式 相模原ホワイトイーグルス
 8 佐藤健介 (東林中) 軟式
 9 大内 圭 (中央中) 軟式
13 森下和也 (大野北中)軟式
15 熊谷英敏 (大野北中)軟式


 15日に行われる桐光学園対桜美林。
 相模原市が生んだ甲子園球児が対決する。



2002年08月12日(月) 中学野球 相模原市の強さ(1)

 7月30日から8月3日まで、横浜スタジアムなど3球場で神奈川県中学校軟式野球大会が開催された。
 3日、横浜商大グラウンドで行われた決勝戦では上溝中が東林中を2−1(延長8回サヨナラ)で下し、2年ぶり2度目の優勝を飾った。前日2日、保土ヶ谷球場で行われた決勝が、2−2(6回終了)のまま降雨コールドで翌日に延期。大会史上初の決勝再試合として行われた翌日の試合でも延長に突入。勝負の行方が最後まで分からない熱戦だった。
 
 決勝に進んだ両校は、8日から山梨で行われる関東大会への出場権を得た。両校とも相模原市にある中学校。平成5年から1県2校参加となった関東大会。神奈川県において、同じ市の中学校が揃って関東大会に出場するのは今年が初めてという快挙だった。
 
 しかも、関東大会に相模原市の学校が出場するのは今年を含めて7年連続。加えて、神奈川を制するのは、何と5年連続のことだ。例年、県大会は神奈川から約25チームが参加し、その中で相模原市に与えられる出場枠は2か3。もっとも学校数が多い横浜市では、6校の出場枠がある。比率としては少ない相模原市が、7年続けて神奈川の決勝に残り、5年続けて優勝を飾っている。相模原市のレベルの高さがうかがえる。

 関東大会に出場した相模原市の学校を見てみると、
・平成8年  大沢中(準優勝)
・平成9年  東林中(準優勝)
・平成10年 東林中(優勝)
・平成11年 東林中(優勝)
・平成12年 上溝中(優勝)
・平成13年 内出中(優勝)
・平成14年 上溝中(優勝) 東林中(準優勝)

 このうち、関東大会で、平成9年東林中、平成12年上溝中が準優勝。平成10年東林中、そして今年、上溝中が関東大会を制した。 

 特定の1チームだけでなく、複数の学校が結果を残しているところが相模原の強さだ。今年の関東大会でも、相模原の第3代表として出場した麻溝台中が初戦で川崎2位の川中島中、2回戦では横浜1位の鴨居中を破り、ベスト8にまで進んだ。
 準優勝した東林中の試合を全試合見たが、神奈川県大会よりも相模原市大会の厳しい戦いが多かったように感じた。東林中のある保護者が「神奈川を制するより、相模原で勝つほうが難しい」と言っていたが、まさにその通りだと思った。

 なぜ、相模原市は他の市に比べて強いのか。まだ、現場の方にじっくりと話しを聞いていないので、はっきりとした答えは見つかっていないが、ひとつ確実に言えることは、「目標の高さの違い」だと思う。
 



2002年08月11日(日) 桐光学園全国制覇を目指し(12) 夏の甲子園初勝利!

 8月10日。第84回全国高校野球選手権大会3日目、第2試合。桐光学園は鳥栖を延長13回、3−0で下し、夏の甲子園初勝利を挙げた。
 エース清原が13回を11奪三振、7安打の完封勝利。主将であり、女房役でもある船井が決勝の3点ランニングホームラン。バッテリーの活躍で、2回戦進出を決めた。

 
 本当は、甲府で中学校の関東大会決勝戦を見る予定だった。だが、お目当ての東林中が8日に行われた初戦で敗退。負けた日の夜中、桐光の初戦を日帰りで見に行くことを決めた。初戦を見なければ…、嫌な胸騒ぎがしていた。

 胸騒ぎの一番の要因は、エースの清原。神奈川大会の疲労からどこまで回復しているか。肉体的なものと、精神的疲労。不安が募った。

 1回裏。投球練習を始める清原。一塁側内野スタンドから清原を見つめる。初球、ストレートが高目に抜ける。キャッチャーの船井がミットをはめた左手と体を目一杯伸ばして、やっと捕球できるほどの高いボールだった。2球目、3球目、そして4球目。ストレートが全て高めに抜けた。

 不安がますます募る。「船井、カーブ投げさせろ!」と心の中で呟いた。緊張しがちな立ち上がり、それでいて甲子園という大舞台。東林中時代から緊張しやすい清原のこと、さぞや“大”緊張をしているはず。緊張して固まった手首をほぐすには、変化球を投げさせて軟らかくさせるのが良いと聞いたことがあった。

 5球目。初めてカーブを投げた。真ん中低めへのナイスボール。やっと、ストライクが入った。6球目もカーブ。ストライク。そしてラスト7球目。クイック気味にストレートを外角低目へ投げ込んだ。最高のボールだった。「よし、これで大丈夫」、一緒に観戦していた清原の恩師、東林中・佐相先生が言った。私も同感。いつもの清原に戻ったと思った。

 13回まで、何度もピンチを招きながら、いつものようにノラリクラリとアウトを重ねて行った。2死から簡単にランナーを出す。調子に乗ったと思ったら、すぐにカウント0−2になる。でも、相手打線を抑える。中学から、そして桐光に入学してからも変わらぬ清原の持ち味が、甲子園でも発揮された。

「立ち上がり、緊張しました。乗って行けるようになったのは、3回くらいから。今日はカーブが入らなくて、苦しかった。点数をつけるとすれば、50点くらいです」

 確かに苦しいピッチングだった。得意のカーブが神奈川大会ほど決まらず、打線も点が取れない。「先に1点を与えた方が負け」そんな展開だった。それでも、清原は粘り強く、辛抱強く13回を投げ続けた。

 13回表。船井が決勝打を放ったとき、清原の目には涙が浮かんでいた。「延長に入ってから、ずっと苦しかった」と話す清原のピッチングが、ようやく報われた瞬間だった。「1点でも良かったのに3点ももらって、ありがたかった。船井が打ってくれたので、最後は気力で投げました」
 

 決勝打の船井。延長12回裏、左足首を負傷し、ベンチで治療を受けた。約8分間、プレーが中断した。
「清原を暑い中で待たせるわけにはいかない。早く戻らないといけない」
 治療中、ずっとそのことを考えていたと話す。

 神奈川大会、決勝戦終了後の船井の言葉。
「清原が何も考えないで、ピッチングだけに専念できるようにさせてやりたい。甲子園では清原のカベになってあげたい。気を遣わせないで、ピッチングだけに集中できるようにさせてあげたい」

 清原は船井のサインに対し、いつもと同じように一度もクビを振らなかった。「サインは全部船井に任せてますから。ぼくはそれを信じて、サイン通りに投げるだけです」
 
 2年秋からバッテリーを組んできた清原と船井。初めて臨んだ公式戦は、昨夏の8月25日。秋のブロック予選、法政二を相手に3−7で完敗した。「このチーム、どうなるんだろうと思いました。自分が焦って、チームも焦って、あの頃が一番苦労しました」と、船井は言う。

 あれから1年。桐光を支えるバッテリーは、大きく大きく成長した。神奈川代表のバッテリーとして、甲子園の大舞台で記憶に残る好勝負を演出してくれた。

 
 桐光学園、全国制覇まであと5勝。
 



2002年08月05日(月) 桐光学園全国制覇を目指し(11) 船井!選手宣誓!!

 夕方から夜にかけてのスポーツニュース。
「選手宣誓は桐光学園の船井剛主将に決まりました」
 どこのニュースでも「桐光学園」、「船井剛」という言葉が出てくる。さぞや、学長、学校関係者は大喜びのことでしょう(笑)。


 数年前の夏の甲子園で、選手宣誓の大役を引き受けたチームの監督の話。
「失敗したら、地元に帰れないと思いました。選手よりも自分が一番緊張して。選手宣誓が終わった瞬間、涙がドーッと出てきて、安堵感でいっぱいになりました。『日本中に放送される中で、失敗したらどうしよう』それだけを考えていました」

 主将は、選手宣誓のことで頭がいっぱいで、練習に全く身が入らず、ミスを連発した。でも、監督は怒らなかった。選手宣誓がどれだけ大きなものか監督自身も分かっていた。

 主将目当てに来る取材は、全て断った。受ければ、必ず選手宣誓の話になる。ただでさえ、頭が破裂するほど考えているのに、マスコミの取材で爆発させたくない。開幕までずっと主将を守り続けるつもりだった。けれど、顔見知りの知り合いの記者にだけ、取材を許した。「彼なら、主将の気持ちを分かってくれるだろう」と思い、許可を出した。

 だが…。

 取材の途中、配慮のない一言によって、主将は取材中にも関わらず、声を上げて泣き出してしまった。ずっと張り詰めていた緊張感が、たった一言によって、切り裂かれ、とめどなく涙が流れた。もう、止めようがなかった。

 そばで見ていた監督は、取材を許したことをひどく悔いた。「何であんな質問をしたんだ」。記者の胸倉を掴み、球場の外へ引きずり出した。

 開会式当日。当初、監督はネット裏で主将の雄姿を見守る予定だったが、そんな心理状態ではなかった。近くで見たいが、見れない。アイツが失敗したらどうすればいい。おれは助けてやることができるか……。
 考えた末、監督は内野席のはるか上、一番後ろの席の近くで、主将を見守った。

 主将は無事に大役を終えた。

 監督は子供のように泣いた。選手はその日以来、見違えるような動きになり、試合でも大活躍を見せた。

 今、監督はその当時を振り返える。
「もう、選手宣誓は2度と引いて欲しくないですよ。立候補生になって、良かったと思いますよ。うちが出たら? 主将には絶対に出るなと言いますよ(笑)」


 今日の抽選会。船井の選手宣誓が決まったとき、塩脇部長が手で顔を覆っていたシーンが映し出された。その仕種が、とても印象的だった。
「こりゃ、大変なことになった」
 今頃、国語の教師である顧問の石井先生を中心に、原稿を考えているところだと思う。

 夏の甲子園の選手宣誓。全国約4000校、約4000人の主将の中で、チャンスを得られるのはわずかにひとり。船井はそのひとりに選ばれた。宣誓が決まった瞬間から、さまざまなプレッシャーがのしかかると思う。でも、船井なら…。プレッシャーに打ち勝ってほしい。スタンドで見守るであろう野呂監督と塩脇部長に、嬉し涙をプレゼントしてほしい。

「甲子園ではとにかく楽しみたい」
 決勝のあと、船井は甲子園に向けての抱負をそう話していた。

 選手宣誓まで、あと3日。



2002年08月01日(木) 桐光学園全国制覇を目指し(10) 10人目の選手

 桐光学園のサードコーチャーは毎試合、背番号17を着ける飯塚翔が務めている。長く伸ばしたもみ上げがトレードマークの3年生。そして、トレードマークはもうひとつ。長袖のアンダーシャツ。どんなに暑くても長袖。半袖は着ない。
「半袖より、長袖の方が腕を回しやすいんですよ。半袖だと、アンダーシャツの袖のあたりがひらひらして気になるんですよ」
 その話を聞いた瞬間、「プロのサードコーチャー!」と思った。

 5回戦の法政二戦。飯塚が大活躍を見せた。ぎりぎりのタイミングで2度、グルグルと腕を回し、ホームに生還させた。
 2度とも、一塁ベンチの野呂監督に目をやると、「飯塚、ナイス判断!」と言わんばかりのジェスチャーで、コーチャーズボックスにいる飯塚に大きな拍手を送っていた。飯塚はちょっと照れたような表情で、軽くペコッと頭を下げた。
 その日の試合後、野呂監督は飯塚の話になると、急に饒舌になった。
「今日の飯塚の判断は良かったね。彼には全幅の信頼を置いているから。私が『回して欲しい』『止めて欲しい』と思うことを、全てその通りにやってくれている。飯塚に会ったら、誉めといてあげてよ」
 球場で次の試合を観戦していた飯塚に伝えると、「ほんとですか? 嬉しいですよ」と照れ笑いを浮かべていた。

 飯塚がサードコーチャーになったのは、監督の話によれば2年の秋から。専属のコーチャーを育てるために、飯塚を配したかと思えば、そうではないらしい。「たまたま、肩を故障していて、やることがなかったから」と話す。
「最初は、ランナーへの指示の声すら出せなかった。声も小さくてね。でも、今では練習でのノックやベースランニングでも、自分からコーチャーに入って、指示を出しているんですよ。今はもう専属ですね。10人目の選手ですよ」

 甲子園が決まったあと、「選手として試合に出られなくて悔しくなかった?」と訊くと、「3年の初めは悔しかったですよ。でも、今の自分にはコーチャーしかないですから。チームの役に立てればそれで良いですよ」とコーチャーへの思いを話してくれた。
 背番号17。甲子園のベンチ入りは16名まで。単純に考えると、ベンチ入りを外れることになる。でも、飯塚は自信たっぷりだった。
「甲子園でも絶対、ベンチ入ります! 自信ありますから。甲子園でも思い切り腕を回したいです」
 後日、発表された甲子園メンバーに、飯塚の名前は記されていた。

 甲子園で、長袖のアンダーシャツを着込んだ飯塚の腕が何度回るか。サードコーチャー飯塚の笑顔が増えれば増えるほど、桐光学園の甲子園は長く続いていく。


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