加藤のメモ的日記
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| 2013年07月27日(土) |
アンネ・フランクはなぜ殺されたか�� |
持っているはずのないものを所持しているのを見つかると、少なくとも殴られることは免れなかった。それでもなお。彼らは物々交換したり、賄賂を贈ったり、買い取ったり、盗んだりした。温かい衣類や靴や、毛布や針と糸が交換された。ボールやスプーンまで交換された。それがなくては食事もできなかったのに。
アウシュビッツの「カナダ」で働かされた収容者はわずかな食料品や衣類をこっそり持ち帰った。宝石や金も持ち帰った。紙幣はトイレットペーパーとして使われた。ジャガイモ畑で働いていた人々は1、2個のジャガイモを隠して持ち帰った。収容所の外で働いていた者は普通の市民に賄賂をつかませることもできたかもしれない。親衛隊の監視兵さえ「買収」することが可能だった。けれども取引されたいた物はおおかた取るに足りないようなものばかりだった。普通の世界にいれば、何気なく捨ててしまうようなものだ。そんな物にさえ、生死がかかっていた。かりにそれがたった一日余計に生き延びることしか意味しなかったにしても。
生き残った人々は誰も、収容所での人間関係が親密だったことを語る。「一匹狼」は長くは生きられなかった。自分の命を危険にさらしてまで、人々は選別のときに病気になった仲間をかくまった。とりわけ衰弱した病人に、乏しい割り当ての食事を分け与えた。人員点呼の続く長い時間、気を失って倒れかけた者は、前と後ろにいた二人がぴったりと身体を寄せ、支えた。
とはいえ、収容所は高貴で、無私の場所だったというわけではない、そうではなかった。例外なく誰もが上のも者の機嫌をとったわけではない。けれどもそうした者も多かった。カポや棟の統率者の中には、親衛隊員に負けないほど残酷な者もいた。嘘をつき、騙し、機会さえあれば病人や眠っている仲間から物を盗み取った者もいた。
誰でもまず自分のことを考えなければならなかった。生き残る、ということは、全面的に利己的になることを意味していた。何よりもまず、自分の命を守ろうと、人々は「画策」し、争った。もしそれがうまくいけば、それがうまくいって初めて、他の者を助けることを考えることができた。あるいは助ける力が持てた。そして誰かを助けると、たいがいは礼が返ってきた。「画策する」体力もすっかり失った時に、パンのひとかけらを恵んでもらうような、そんな小さなことにすぎなかったとしても、恩は返ってきた。
あとになって証言するために、なんとしても生き延びる決意を固めた、と語る生存者は多い。周囲で起こっていることを目撃しつつも、ドイツは戦争に負けるだろうと多くが信じていた。生き延びて、いったいどのようなことが行なわれたのか、証言しなければならないと考えた。正常な世界の正常な人々には、収容所で実行されていた、そのような殺人計画など想像もできないだろうと、彼らは承知していた。このような恐ろしいことがあったことを人々が知るようになるためには、誰かが生き延びて体験を語る必要があった。その時初めて、正義がもたらされるだろう。収容所の悪夢の世界について語り合えることができたなら、そのような悪が二度とふたたび根付き、はびこることを防ぐことができるだろう。
『アンネ・フランクはなぜ殺されたか』 バーバラ・ロガスキー
| 2013年07月26日(金) |
アンネ・フランクはなぜ殺されたか�� |
1941年12月、ヘルムノでは一酸化炭素による。初めてのユダヤ人殺戮が行なわれた。それは「会議」よりひと月も前のことだった。いや、それ以前、すでに夏にはアウシュビッツでチクロンB を使った実験が行なわれていた。ハイドリヒ自身、初期の殺戮とゲットーの設置を「暫時的処置」、「一時的処置」と呼んでいた。そして今、最終的処置がどのようなものか、その正体が明らかになった。
安楽死計画を担当していた二人、クリスティアンとブラックの指導のもと、六つの収容所が殺戮施設になった。最初にアウシュビッツで、その後ヘルムノで、チクロンBが使われた。それはもともと害虫とネズミの駆除に使う毒薬だった。その他の収容所では一酸化炭素ガスが使われた。その目的のために回転するディーゼルのモーターから、一酸化炭素ガスが管を通して部屋に送り込まれた。
到着から、死体の処理まで
いったい何が起ころうとしているのか、それが犠牲者に気取られないように、到着に使われるプラットフォームと建物が設計された。樹木に囲まれていたので、外からは見えない。到着した人々は目的地に着くまでの一時的な滞在のための収容所、あるいは労働収容所だろうという印象を持った。実際にガス室に送り込まれるまで、そう思っていた。ガス室には偽物のシャワー栓が取りつけてあって、浴室のように見せかけてあった。
到着から死体の処理まで、可能なかぎり速やかに行なわれた。犠牲者は汽車から追い立てたれて降りると、最期の瞬間に至るまでせかされた。そのような方法には、犠牲者に衝撃を与え、驚かせ動揺させ、いったい何が起ころうとしているのか考える余裕も与えない、という印象があった。犠牲者は混乱に陥り、抵抗もせず命令に従った。混乱の度がひどければひどい程、親衛隊の仕事は容易になるというものだった。作業は手早く、単純だった。汽車から人々を降ろし、荷物を積み上げる、そして生かしておく者を選別する。まったく選別は行なわれず、即座に全員ガス室で殺されることもあった。
選別が住むと、移動するように命令された。走らされることが多かった。それから裸になれといわれた。ある者は進んで、ある者は強制されて、ガス室へ入っていった。厚い扉が密閉されると、ほんの数分のうちに全員窒息死した。選別され、生かしておかれたユダヤ人の中には、ガス室から死体を運びだせと命令された者たちがいた。死体についていた宝石類と金歯を集め、衣服と荷物を調べ女性の髪を切り取れと命令された。
そしてその後、彼らと他のユダヤ人が素手で、あるいは手押し車で死体を穴へ運んでいった。最初のことは遺体はひとまとめにして埋められた。のちには焼かれた。アウシュビッツやブーヘンヴァルトなどの強制収容所では、死体を焼く目的で設計された大型の焼却炉が使われた。炉に死体を入れ、灰を取り出す作業も、まだ殺されていなかったユダヤ人の手によって行なわれた。
生き残る
収容所で生きながらえたユダヤ人がいたことは、信じ難い。しかし事実生き延びた人々もいたのだ。選別を逃れたのは運がよかったかもしれない。あるいは何らかの偶然によって、選別や殴打や病気を免れたのかもしれない。しかし生きながらえたのは運や偶然によるものではなかった。収容所の規則は生き延びることを不可能にするように特別に考えだされたものだ。そのような場所で生き延びるには、何とか方法を見つけることが必要だった。方法はあった。生き延びるための手段を表す言葉はすべての収容所に共通していた。その言葉は「画策する」だった。ある生存者の次のような言葉が、その意味を最もよく説明している。
「アウシュビッツの用語で最も重要だったのは「画策」するだった。生き残るカギを握っていたのはこの言葉だった。それは盗みや買うことや、交換すること、獲得することを意味していた。どんなものでも、交換するものがなければ手に入らなかった。目覚めている時間のすべてを、「画策」することに費やしていた人々もいた。仲間から盗んだり、賄賂を使ったり、パンのかけらを一杯の水と交換したり、一枚の皺くちゃな紙と寝る場所を交換したりした」
| 2013年07月25日(木) |
アンネ・フランクはなぜ殺されたか �� |
ユダヤ人虐殺の記録
キリスト教の歴史の初期には、事実ではないのにユダヤ人はキリストを殺し、神を殺す者、などと中傷された。それはあまりにも根源的かつ恐ろしい非難だったから、ユダヤ人にはどんな悪事もはたらくことができると人々は信じた。プロテスタント主義を創始したマルティン・ルターは、キリスト教徒から見ればユダヤ人は悪魔について、もっとも邪悪な敵であると宣言した。
中世には、ヨーロッパで長年疫病が続き、何百万人という人が死んだが、そんなことになったのは、ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだからだと、犯してもいない罪を咎められた。そしてまた、ユダヤ人は宗教の儀式に使うための血液を手に入れるために、キリスト教徒を殺す、とりわけ何の罪もない子供たちを殺すと、でたらめな中傷を受けた。それが悪名高い「血の中傷」と呼ばれる事件だったが、ナチはそれから何百年もたった後に、そのような根も葉もない中傷を再び持ち出してきたのだった。
このように、ユダヤ人が長いこと平穏な暮らしを送れることはまれだった。ユダヤ人社会全体が襲撃され、略奪を受け、破壊された。ユダヤ人の子供たちは両親のもとから無理に引き離されて、キリスト教徒として育てられたこともある。改宗しないことを理由にユダヤ人は火あぶりの刑にされたこともある。ユダヤ人がしてよいこと、してはならないことは厳しく制限されていた。医者や弁護士になることを禁じられたり、ユダヤ人でない人々の教師になることを禁止されたこともあった。
キリスト教徒に食料品を売ることや、キリスト教徒を仕事のために雇うことを禁止された。キリスト教徒の看護婦から看護を受けることも禁止された。ユダヤ人でない人々が住んでいる建物の中に一緒に住んではならないといわれた。特別の衣類を身につけたり、布の記章を付けることを強いられたこともあった。しるしをつければ、一目でユダヤ人とわかり、彼らを差別することが容易にできた。
利息をとって金銭を貸すことを、キリスト教徒は罪だと信じてた。ユダヤ人はその役目を引き受けることによって社会の重要な必要を満たし、金を貸してほしい要請した非ユダヤ人に都合してやった。そのような役目をユダヤ人は長いこと果たした。そして徴税する権力を持った人々によって利用されもした。大きな農園の小作人たちを監督したこともあったし、金銭や財政問題に関して、権力の座にあった貴族と民衆の間をとりもったこともあった。「ユダヤ人は誰でも金持ちだ」とか、「ユダヤ人がすべての金銭を操っている」などという偏見は、おそらくそのような歴史に根差しているのだろう。
ユダヤ人は行く先、行く先の国々から追放された。イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、イタリア、ドイツなどがその例である。追放を免れた場合には、特別の場所に住むことを強いられた。それがゲットーである。1700年代のロシアでは、「ユダヤ人強制集住地域」と呼ばれた地域の西に住むことだけを許された。そのような制限が撤廃されたのは、およそ200年後、20世紀になってからのことである。近代に近くなってからも、状況はあまり良くならなかった。ロシアや、ウクライナや、ルーマニアでは無数のユダヤ人がポグロムで殺された。組織された集団が無防備なユダヤ人社会を襲撃し、略奪し、破壊して居住者を殺したりひどい負傷を負わせたりした。1900年から1904年の間に、少なくとも5万人のユダヤ人がそのような事件で命を落とした。
『アンネ・フランクはなぜ殺されたか』
| 2013年07月22日(月) |
植物と話がしたい �� |
後日談 その三
下鴨神社の立ち入り禁止の森林を計画する実験は、下鴨神社の実験が終わってからすることになった。しかし私は最初に木戸から覗いた時に、中の空気が重くて嫌な気分がしたと前に述べたように、どうしても気乗りしなかったのである。実は覗いている時に、ジンマシンみたいに毛穴が膨らんできて気持ちが悪くなったからである。三輪教授には仕事の都合で実験に参加できないと断りを入れて、ひりだけ一日早く帰郷してしまった。
二日後に三輪教授から電話があり、研究室で会いたいと言うので出かけてみると、三輪教授は全身に発疹が出て顔まで膨らんでいる。私は内心「残らないで良かった」と思ったのだが、そうも言えないので心配そうな顔だけしてみせた。三輪教授は体をボリボリ掻きながら、立ち入り禁止の森林で取り込んだデータがコンピューターの入っていないと言うのである。実は入っていることは入っているのだが、入力オーバーのような状態で何も記録されていない。
この実験のコンピューターを担当した柳原氏は、生体電位の計測機器の開発論文で博士号を取った天才人物だから、とても彼のミスとは考えられない。柳原氏は計測中には何も問題はなく、普通の状態であったと言う。三輪教授と柳原氏と私は、この実験はここですべて打ち切ることにした。どんなに考えても理解できない現象にぶつかった時には、そこで打ち切るのが最善策だというのが、何回かの実験で知った知恵であったからである。
京都は古くから戦いの場であった。その中にあって立ち入り禁止の場があるのは、必ずそれなりの理由があったからに違いない。それが「古墳」であったり「埋蔵」であったり、「処刑」であったかもしれないが、人に立ち入られては困る理由があるから長い歴史の中で立ち入り禁止区域とされていたのであろう。計測データが消えてしまったことも、三輪教授が体調を崩したことも、私が空気の重さを感じて実験に参加するのが嫌だったことも、この歴史の推察とは何の関係もない。
(京都の戦乱 戊辰戦争 応仁の乱 保元・平治の乱 南北朝の動乱、本能寺の変、山崎の合戦、宮本武蔵と吉岡一門、新撰組の詰め所があった)
これは偶然の出来事であって結論を出すようなことではない。ただ植物の実験を20年してきて、このような結論が出せない奇妙な出来事が数多くあり、そういうことも含めて植物との付き合いだと思っているからである。これとは別の話として、戦いの場であった京都にはいろいろな逸話が残っている。横尾忠則氏はホテルで夜中に武士の訪問を受けたそうだし、日野照正氏はやはり夜中に武士が馬に乗って駆け抜けていったと私に話してくれた。
ブナの木には心がある
ブナ林に入ってみると、ブナの木はそれぞれが一定の広さを確保して生きていることがわかる。このスペースにはさまざまな植物が共生しているが、ブナの子供はこのスペースの中では芽を出すことができない。乱立すれば水不足や光不足で全体が生きていけなくなることをブナの木は知っているからかもしれない。しかしブナは子孫を残す。それは自分が死ぬときに枯れた自分の身体を養分にして、一本だけ子供に芽を出させる。これが育って次の世代のブナ林を引き継いでいくのである。
ブナの葉は枯れ落ちると水分を吸収する特性があるので、この枯葉が数年堆積すると湿地帯のような土壌ができあがる。この土壌は他の植物にとっては絶好の土壌だから、さまざまな植物が所狭しと芽を出し、山菜採りの時期には山菜の宝庫と呼ばれるようになる。自分の子供の芽を出させないブナは一見、身勝手で冷たい木という感じがするが、これは全く逆で、周囲の植物には実にやさしい心遣いを見せる。
春が来て他の樹木がみんな緑の葉を繁らせても、ブナの木はじっと我慢して葉を広げない。葉を広げないから下の土壌には光がよく当たり、他の植物たちは順調に育ってくる。最後の段階まで来ると、ブナの木は突然のように葉を広げる。だからブナ林はごく短い期間で緑の森に姿を変えるのである。ブナは寒地の山に多いから、場所によっては1年の半分を雪の下に埋もれて木が少なくない。そうなると残りの半年で次の年を越すための養分を蓄積しなければならない。ところがブナはその半年で貯めた養分を、自分のためだけではなく多量に地面に戻してやるのである。この養分の恩恵に浴するために、他の植物は競ってブナの木のまわりに集まってくるのである。
この全く逆の例としてはスギ林がある。スギは養分を大地にあまり戻さないし、水を蓄積する土壌をつくらないから、大雨が降ると洪水を起こし日照りが続くと渇水を招く。そのうえ根から毒を出し、それが川に流れるので、スギ林を持つ川には魚類が少ない。だが、人間が木の品質を定める基準は木の行為ではなく、その中身である。それが人間社会にとって有益ならば良い木で、無益ならば悪い木である。だからブナのように水の吸い上げが多い木は伐採後の乾燥がうまくいかず、材木にした時に狂いが生じるために悪い木とされている。日本でも炭を多用していた時代には、ブナは切られるためにある木のような感があったが、最近はあまり切られることもなく保護林として数カ所が残されている。
『植物と話がしたい』 神津善行
| 2013年07月21日(日) |
植物と話がしたい �� |
御神木の発信電波
京都市のいくつかの神社が世界遺産に登録され、それを記念するコンサートが開かれることになった。市とNHKの要請で登録された神社の御神木の発信電波を取り込んで、京都市交響楽団と共演する交響詩の作曲を委嘱された。三輪教授はちょうど群生樹木全体から電位を取り込む研究をされていたので、御神木を中心とした周辺樹木にも興味があるということで、調査班を組んで京都に行くことにした。
上賀茂神社の御神木はブナ科のスダジイという樹齢400〜500年という大樹であったが、あまり元気がなく弱々しい。しかし他の条件には適していたので、御神木と周辺の樹木から取り込むことに決定した。御神木の上部にある枝を二本選び。それぞれの枝から4枚ずつの葉を選定して8ヶ所に電極を取り付けることにした。それ以外に御神木の根に2カ所と枝の付け根に2ヶ所、合計12ヶ所を決定した。
この電極を設置するために御神木の片側に6メートル程度の鉄パイプの櫓(やぐら)を組まねばならず、翌日早朝から櫓組の作業を開始した。計測を始めてみると御神木の電位は低く、ブナ科独特の波状は変わりないが、月山の天然ブナなどに比べるとあまり元気がない。真夏の暑さの中、6日間かけて取り組みを行なったが、どの日も御神木に関しては同じ結果であった。御神木以外にも周辺の60本程度の樹木を選び出し、御神木をとりまく環境の計測を24時間連続で取り組み、上賀茂神社御神木の計測実験は終了した。
[後日談 その1]
上賀茂神社の御神木は元気がなく、老樹という感じの発信電波であった。三輪教授は周辺の樹木を60本選び、それらの発信電波も同時に取り込み、周辺との関連を丹念に調べていた。その結果、現在の御神木は周辺にある樹木の主導者ではなく、20メートル程度離れたところにある樹齢50〜60年程度の若い木に主導権を奪われていた。御神木と呼ばれるものは、根を下ろした場所の地質とか水利などがよい所で、場所によっては特殊な鉱物などが下にあったりして植物の成長環境がよく、長く生きてきたと考えることができる。
上賀茂神社の御神木の場合には、地質や日射条件は最良だが、周辺を流れる小さな川の流れを人為的に変えたことが元気のない原因ではないかと思われる。川の流れを変えたのは明治かそれ以前かもしれないが、御神木の樹齢から見れば最近の出来事となってしまう。結果として何十年かの間に地下水の流れに変化が生じ、大量に水を吸い上げるブナ科であるから、水利が有利な方に位置した若い樹木に主導権を握られてしまったのであろう。
周辺樹木の発信電波を見ると、御神木と同調した波を出している樹木は一本も存在していない。逆にほとんどの木は若い新勢力の木に同調した波を出している。雑木林はグループをつくる傾向がある。グループをつくるというのは、同じような波状を常時出す樹木の群が、いくつかに分かれて集団をなしているということである。上賀茂神社の御神木の場合には、周辺の樹木の中に同調するものがなく、たぶん疎外されている状態だからいずれ枯れてしまうだろうということで三輪教授と意見が一致した。おそらく80年から100年程度先のことだろうから神官もこの世にいないだろうし、報告しても信じないだろうから黙っているのが最も平和的な方策だと思ったからである。
雑木林に限らず樹木が集団で林や森を形成すると、樹木の種類に関係なくいくつかのグループを形成する。これは根の世界とは関係なく空間で繋がっているらしく、隣の木でも違うグループに所属している場合も多い。このいくつかのグループのどこにも所属していない樹木は育ちが悪く、人間的な表現を借りれば村8分にあって枯らされる運命にあるような気がする。
約150本程度の樹木林を集団計測すると、、3グループ程度に分かれ、木の種類によっては同じグループになる場合もある。必ずしも同種類同士が集まってグループを形成しているとは限らない。子の波状は数日間続けて計測しても変わることはないが、樹木を伐採して樹林構成が変化すると、グループの所属に変化が起こることもある。なぜグループ化する必要があるのかはわからないが、情報交換が生存競争に関係あるのではないだろうか。
『植物と話がしたい』
| 2013年07月19日(金) |
植物と話がしたい �� |
マングローブに撃退されて
人跡未踏のような西表島のマングローブの林で実験を開始したのだが、参加した学生の半数がひどく陽気になり、残りの半数はひどく陰気な精神状態を示し出した。どんな気持ちかをご説明するのは難しく、一種の拒絶反応のようなものが襲ってきて、早くマングローブ林から出たいという気持ちになったとしか答えられない。教授も私も実験を中止しようとは言えず、お互いに終始無言で作業していたのだが、ついに教授は体調が悪いと私にそっと訴えた。この理由が何であったのかはご説明できないが、話を少し前に戻したところから聞いていただきたい。
実は私は西表島は初めてではなかった。それ以前にも石垣島で森重久彌氏との仕事があり、途中の休日に森繁氏が西表島にある友人の墓参りをしたいということから、日帰りで森繁氏のお伴をすることになった。このアルゼンチンの歌手のグラシェラ・スサーナ嬢が出演しており、彼女も観光を兼ねて同行することになった。
石垣島で船をチャーターし、木の葉のように荒海に弄ばれながら、一時間半をかけてやっと西表島に到着した。ところが全員が船を降りてもスサーナは船を降りようとしない。理由を聞くと「気持ちが悪くて降りられない」という。船酔いかと聞くとそうではないという。森繁氏が待っているからと無理に説得して船から降ろしたが、傍で見ているもの気の毒なくらいにフラフラしている。
墓参りをすませて全員で昼食をとったが、もちろんスサーナはジュースも飲まずにテーブルにうつ伏せていた。昼食を終えて船に戻った途端、スサーナは元気を回復し、食事をしなかったからお腹がすいたといって、持ってきた菓子パンをムシャムシャと食べ始めた。私も森繁氏もちょっと唖然としたのだが、ラテン民族の気ままなとことだろうと思って何も言わなかった。
しばらくして彼女は「お墓参りのときに、大勢島の人が身に来ていたね。森繁先生はめったに見られないからねぇ」と言う。私はこれに対して答えに窮した。なぜなら我々一行の他には、島の人は数人しかいなかったからである。何か勘違いしているのかと思い「そんなにいたかい?」と聞くと「たくさんいたじゃないの。神津先生どこを見ていたの」と真剣に言う。
彼女は、墓地の横の土手でたくさんの人が見ていたというのである。私の勘違いかと思って、同行した何人かにそっと確認してみたが、誰もそんな人たちはいなかったと答えた。このことを私は森繁氏には言わなかった。というのは私自身も島に上がって少し体調が悪くなり、軽い船酔いと思って我慢していたが、船に戻ったらケロリと治ってしまったからである。だからこの話はこれ以上は船の中ではしないことにした。石垣島に戻って私はすぐに一番大きな本屋を探し、西表島の歴史が載っている本のすべてを買った。なぜか読んでみたくなったからである。そして私は次のようなことを知った。
西表島の地下に「燃える石」があることを発見したのは、嘉永6年、当地を訪れて地質調査をしたペルリ艦隊であった。これによって明治初年から太平洋戦争終了まで、西表島には60余年にわたって西表炭鉱史がくりひろげられることになる。この炭鉱の規模の大きさと労働の過酷さは、日本炭鉱史の中では類を見ない凄まじいものであったという。
囚人労働力の導入から始まって、日本各地から甘い言葉で集められた人たちが、島に着いた途端に囚人同様の監禁を受け、死ぬまで働かせられるという過酷な強制労働に従事させられた。この島から泳いで逃げることなどは論外であるし、逃亡者がいなければ情報は外部に一切伝わらない。この状態が戦後の閉山まで延々と続いたのである。
西表炭鉱史研究家の三木健氏の『西表炭鉱慨史』の資料を見ても、この炭鉱で死んだ人の数は正確には書かれていない。その理由は記録が一切消されてしまっていることと、事業者や関係者が島の人間ではなかったために、全員が戦後に離島してしまったからだと記されている。それでも食料不足やコレラの流行で大量に死んだ記録や、自殺他殺が連日のように起こっていた記録を見る限り、60年間に死んだ人の数は膨大になるであろう。
しかし慰霊碑はあるのだが、墓はなく、いまだに坑道に埋まっているは数千人と推定されると書かれている。この歴史の事実を知ったからといって、それをスサーナの行動に結びつけるつもりは毛頭ない。歴史の事実とスサーナの行動は、まったく別の次元の出来事と思ったからである。だから今回の実験にしても、三輪教授にも同行する学生スタッフにもこの話はしなかった。
『植物と話がしたい』
の-ベル賞受賞者、フランシス・クリックは、「進化した存在がDNAをバクテリアに組み入れて宇宙に撒いた。そしてバクテリアがどこかの惑星に根付き知性を持った生物に進化するまでじっと待つ、その40億年後の姿が我々だ」と仮説をたてました。現在では、DNAが完全に無限の、大容量の驚異的な記憶装置として使用できることがわかっています。最新技術として実用化に向けて研究されています。クリックはDNAの二重らせん構造を発見した功績によりノーベル賞を受賞しました。
いくつかの理論がありました。初期の地球は45億年前に誕生したのだと。いかなる生命も存在しない冷却の過程を経て、地球が誕生してちょうど6億年後の39億年前にはすでに生命が登場していました。科学の大部分は、じっくり考えずにただこれをくり返すだけです。それが正統派の主な視点です。理論だけです。
事実など誰も知らないのですから、その理論を、たいていの科学者はまくし立てます。彼らは、中にいろいろな化合物の入った「原始のスープ」のようなものがあると主張するでしょう。それらが互いにばったり出会い、DNAの分子を作ったのだと。これは私にとって、信じられないおとぎ話です。髭を生やした神様とかいうものによって「地球は7日間で作られた」という旧約聖書の幻想よりも、とんでもない話です。偶然起こったというのは、とんでもない幻想かもしれません。
実際、天文学者のフレッド・ホイル卿(宇宙物理学者)は、「DNA分子はこの惑星で進化したのではない」というクリックの意見を支持し、DNA分子が偶然発生する確率は「がらくた置き場の上を竜巻が通過し、その中の物質からボーイング747が組み立てられるのと同じくらいだ」と述べています。偶然に起こったとは信じられないというのです。
DNAはそれ自身で繁殖する、密にコード化された生殖分子を扱っています。それはあるコードと一致してタンパク質を作り出すアミノ酸と交わります。このDNA分子の出現のメカニズムを単なる偶然の奇跡とみなすのは不可能です。これこそタンパク質との関係で偶然起こりえたのだとする信念に真っ向から対立するものです。クリック博士も、それが偶然起こり得たとは信じていませんでした。彼は無神論者で、霊的な解釈では考えませんでした。他に何かあると思いました。
クリックがのちに言い始めたことを考えてみましょう。彼は地球上でこの分子が進化したと信じることができなかったのです。クリックは霊的なものを信じていなかったので、それに代わる理論を提案しました。初期の地球では分子が進化するのに適した状態ではなく、この宇宙のどこか遠くに、DNA分子が偶然進化できるような惑星があったのではないかという仮説を立てたのです。でもこれは真相を知りたいとは思っていなくて、問題を解決するための仮説にすぎません。
問題とは、DNA分子のような複雑なものがどうやって地球に着いたかということです。何十億年以上も前、遠い惑星で、知的感覚を持った生物が進化したのだと示唆しました。私たち人類のような姿はしていなかったかもしれませんが、DNAにもとづき知性を持っていました。非常に知的でした。
もちろん仮説ですが、クリックによると技術的には現代の私たちよりも進歩していて、さらに、その惑星の特定な場所でこれらの知的な存在は、自分たちが全滅の危機に直面していると悟っていたことも暗示しています。おそらくその惑星近くで超新星が爆発しようとしていたのでしょう。彼らはそのために死ぬのです。数百年のうちに消えてしまう。彼らの惑星は破壊され、完全に消え去るのです。他の星は遠すぎて、自分たちの体を丸ごと送ることはできませんでした。
クリックが提示したことは、地球上の私たちも同じ状況にあったとしたら、おそらく同じことをやっていたのではないでしょうか。彼らはある方法で、生命の本質を何とかして保存しようと思いました。生命の本質とは、DNAと呼ばれる神秘的な分子です。バクテリアにも、高等動物にも見られます。彼らはDNAをバクテリアの中に組み換えると、バクテリアを冷凍して、ロケットとか宇宙船に詰め込み、宇宙のあらゆる方向に打ち上げました。いつか、この輸送船の一つが進化に適した段階にある惑星に到着したら、積み荷の中のバクテリアが溢れだし、その惑星の環境をうまく利用して、たちまち増えていくことを願いながら。
彼らは願い通りに運べば、長い時間をかけて再び進化し、知的生命体となることがわかっていました。このようにして、生命は保存されたのです。DNA分子は地球に到着したころにはすでに完全に形ができていて、知的な存在によって送られたものだということを、クリックはこのように説明しています。生命の起源を地球外とするこの考えは、「パンスペルミア説」(宇宙墦種説)と呼ばれます。
しかし、本当に重要なのは二つのことだと思います。一つめは「DNA分子はこの惑星で偶然に発展したのではない」とノーベル賞受賞者が確認していること。二つ目は「地球にDNAを送った生命体が予想した、何十億年という長い期間をかけて完全な知的生命体になる」という概念です。その生命体は、たまたま私たち人間になりました。もし、この仮説が正しいとしても、クリックさえも次のような可能性を想像していなかったでしょう。それは冷凍したバクテリアを、宇宙船で宇宙の彼方に送り出すことができる技術があれば、どんな状況でも利用できるようにバクテリアのゲノムに遺伝子操作を加えることです。さらにそのゲノムに何らかの情報を植え付けることなどです。
『人類の発祥、神々の叡知、文明の創造』
グラハム・ハンコック エハン・デラヴィ
| 2013年07月16日(火) |
フォトン・ベルトの真相 �� |
驚くことに、このクローン実験によって誕生した我々の祖先の寿命は非常に長く、1.000歳くらいだったという。また、クローンにもいろんなヴァージョンがあり、最初に誕生したクローンは、繁殖能力がなかった。つまり自分たちで子孫を残す能力がなかったので、寿命が長かったと考えられる。繁殖が可能になってからは寿命が短くなり、さらにさまざまな病気を患うようになったといわれている。このようなロー・グレード・ヴァージョンが今の我々だと考えられている。
さらに古代シュメールのアヌンナキのシンボルは、、二つの蛇がまるでDNAの2本の螺旋と同じように絡み合っている。この発見も、シッチンが「アヌンナキが人類を創世した」と考える根拠となっている、DNAが私たちの進化に何らかの影響を与えたとみているのである。先にシュメールの歴史書には、太陽系の創世から人類の創世まで描かれていると述べたが、聖書の内容も、シュメールの歴史書の内容の一部であるといわれている。聖書には人類創生からしか描かれていないが、ノアの大洪水にはじまり詳細までことごとく、旧約聖書の記述はシュメールの歴史書と一致している。シッチンも、世界中の神話や伝説に登場する「神々」とは、アヌンナキのことだと説いている。 確かに、旧約聖書に登場する預言者の年齢は600歳、700歳なんてのはざらで、なかには800歳で子供をつくったなどという記述もあり、我々の祖先が長寿だったこととも符合する。
DNAが投げかける暗号
さらにシッチンは、最先端のDNA研究家によって発見された、ヒトにしかない特有の暗号に着目した。どういうことかというと、サルでもブタでも人間でも全ての生命体は同じDNAによって形成されているので、私たちのDNAには、今まで地球上に存在したあらゆる種の進化のプロセス情報が含まれているという。例えばチンパンジーと人間は93〜98%、人間とネズミでも70%までがまったく同じ遺伝子だった。ところが人間の遺伝子には、これまでの進化の過程にはまったく見られない、人間にしかない種類もしくは暗号ともいえるDNAが223個も発見されたというのだ。
この事実からシッチンは、「人間は地球外生命体によって操作されて誕生した」というアナンヌキ説が正しかったことを証明したといっている。つまり他の生物と違うDNAは、アヌンナキのDNAだというのだ。さらに人間は23対の染色体が存在することが知られているが、霊長類の中にはなんと24対の染色体を持つ種族がいるという研究発表もあった。なぜ霊長類から進化したはずの我々の方が染色体が少ないのかと、いぶかしく思われる人もいると思う。実は実は霊長類からホモサピエンスへと進化したプロセスは明確には分かっておらず、「ミッシング・リンク」(失われた絆)といわれている。
インカ文明にも「神々」は伝えられていた
じつはインカ文明にも、アヌンナキと非常に似ている存在がいたことが知られている。インカ族の子孫をずっと遡っていくと、ペルーではピラコチャという存在に、農業、数学、天文学などすべてを教わったという言い伝えがあるのだ。グラハムハンコックの『神々の指紋』には、背の高い白いひげのある存在が現れたといわれているのである。大きな災害のあとで、皆どうすればいいかわからない状態のとき、突如現れた。彼らとは違う姿形と非常に高い知性を持つ存在に助けられて、文明が再スタートしたという伝説である。ピラコチャに対して原住民たちは「神々」といい表現を使った。だからハンコック氏の本のタイトルは、『神々の指紋』なのである。
フォトンベルトと突然の変異
これまでのところ私は、2012年に向けて、地球に住む人類も含むあらゆる生命が最悪の挑戦を受ける可能性があると述べてきた。被害は物質的なものだけにとどまらない。ニビルの地球への接近に際し、その影響で私たちの集合無意識自体も変容するかもしれないと述べた。その「挑戦」によって、人類は進化せざるを得ないこととなり、我々に大きな意識の進化が起きるだろうと考えられているからである。そうはいっても、意識の進化とは抽象的すぎよう。いったいどんな状況を意味するのか。
渡邊氏は著書の中で、2012年12月22日にフォトンベルトに突入すると、人類は突然変異を起こす。要約すると、
�‖斥曚離┘優襯�ーが届かない中で、電気装置や自動車などは使用不可となり、地球は暗闇に包まれる。
��地球上のあらゆる原子は、まるで電子レンジで加熱されるように燃えることなく変容し、人体の原子構造も変化する。そしてすべての生命体のボディ・タイプが変容される。
�C麓Уい琉幣紊砲茲辰�DNAのバランスが大きく崩れ、新しいDNAを持った人るが誕生する。
�た洋爐蓮∋絢仝気龍�間から、まったく新しい時間軸へシフトする。
�イ修靴萄埜紊望匆陲靴拭崋仝気離轡侫函廖△弔泙蝓⊆仝犠緇困海宗◆屮▲札鵐轡腑鵝廚世函�結論づけている。実際、それらの変化の連続が2012年までにピークを迎えると、人類の集合無意識自体がリセットされる可能性もある。すなわち、今までの全てが消え、新しいものが始まる可能性があるのだ。
『フォトンベルトの真相』エハン・デラヴィ
| 2013年07月13日(土) |
なぜ医者は信用できないか�� |
よりによって最悪のガン
一方で幾度となくガンの再発に苦しめられながら、末期ガンと死に対して自分なりの折り合いを付けようと、道を探り続けた医者もいる。姫路市・聖マリア病院で整形外科部長を務めていた鍋島氏は、2006年、45歳の若さですい臓ガンの手術を受けた。
「発見当時でステージ3でしたから、見つかりにくいといわれるすい臓ガンの中では比較的早期でした。2月に発覚してすぐに手術を受けたのですが、それからちょうど1年後、肝臓への転移が見つかったのです。なるべく明るく過ごそうと決めていたのに、あの時は夫婦で相当落ち込みましたね」こう語るのは、鍋島氏の妻である幸子さんだ。鍋島氏もまた、自身の闘病を手記として書き残している。その中から当時のこと書いた部分を見てみよう。
〈放射線科医による僕のCT結果のレポートがコンピューター画面上に現れている。―肝転移―全身に戦慄が走った。あらゆる手段をこうして、自分自身の精神安定を保ちながら、その日の患者診療にあたった。もは「患者の気持ちがわかる医師」という段階を超えて「一人の悩める患者」そのものの姿がそこにある〉彼は医者であるがゆえに、検査結果が何を示すか即座に理解した。非常に予後が悪く、ただでさえ「ガンの王様」とも呼ばれるすい臓ガン。それが肝臓へ転移したということは、死を意味する。案の定、担当医からは余命半年と宣告された。
彼は闘病記の中でこのようにも書いている。〈ガンになったおかげで、僕はたくさんのことを学んだ。残された時間が長くないことで、一日一日を大切に生きていく姿勢を学んだ。ガンになったことを僕は心から感謝する〉最初のすい臓ガン発病から、ほぼ5年がたった2011年2月。二人目の孫の誕生を見届けたのち、50歳の誕生日を目前に鍋島氏は亡くなった。両肺への転移があり、最後の数カ月はかっての勤め先だった聖マリア病院のホスピスで過ごした。家族と親戚に囲まれた、穏やかな最期だった。
すい臓ガンの5年生存率は、手術を受けてもわずか10〜20%であり、胃ガンの約70%、大腸ガンの約73%などと比べればいかに難しいかがわかる。だからこそ、家族をはじめ精神的な支えを得られるかどうかが明暗を分けるのだろう。
これが医者の限界
篠田氏もまた、鍋島氏と同様に医者であるからこそ、自分の病状がどれほど悪いか担当医に言われずともピンときてしまった。そして日頃から多くの人の死に接している医者でさえ、治癒の見込みが薄いと知った時には、取り乱し、絶望し、そして涙を流す。「迫りくる死にどう向き合うか」ということは、医学における大きな未解決問題なのである。
手術する前に『うまくいくはずだ』と考える患者さんや、生き生きしている患者さんはやはり予後もいいものです。ただガン患者の中にはどうしても治らないという方もいます。そういう人を、現在の医療は見放してしまっているのではないかと思います。医師も人間ですから、努力して治療すれば治る人には目をかけたいし、どうしても治らない人はおろそかになる、という気持ちがあることは否定できません。しかし、本当は治癒の難しい患者さんほど、しっかりと診なければいけない。『もう打つ手はない』と見放されてしまうのが一番辛いですからね。
私の場合、次にガンを再発すればもう放射線治療を受けられません。外科的治療も非常に難しいでしょう。手術も放射線も抗ガン剤も結局は限界があるのだということです」(篠田氏)人生のタイムリミットがいよいよ目前に迫ったという時、医者にすがったとしても、もはや助けにはならない。
『週刊現代』7.6
今、橋下さんは慰安婦に関する発言の問題で大変なことになっています。米軍に「風俗を活用してほしい」といった、ということも問題になっている。風俗業の活用を提言する橋下さんであれば、遊女について大っぴらに描いた物語が多い文楽にどんどん補助をしてもよさそうなものだのに……と思うのですが、長い伝統を持つ「文化」と化した文楽の姿を見て、橋下さんはカチンときたのかもしれません。伝統の上にあぐらをかいているのではないか、と。
また橋本さんは、もしかすると「遊女のかなしみ」を見たくなかったのかもしれない、とも思うのです。日本の風俗業が、外国人にも積極的に「活用」してもらうべき産業なのだとしたら、そこで働く女性たちは、決して「望んでなどいないのに、仕方なくこの仕事に就かざるを得ない」とか、「本当ならば違う仕事をしたいのに……」などと思っていてはならないはず。「私は、自分がやりたくてこの仕事をしているんです!」という女性が多いと思っておられるから、橋下さんは自信を持って「風俗業の活用」をすすめるのではないか。
「曽根崎心中」でも「心中天の網島」でも、遊女は悲惨な運命に翻弄されます。別に死ななくてもいいのに、若いみそらで男と一緒に死んでしまうのは、「生きていたってしょうがない」と、彼女たちが思っていたからではないか。かってあった彼女たちの「かなしみ」を芸術に昇華させ、保護する日本は粋な国だと思う私。しかし彼女たちのような思いをする女性は、、文化的な国であるはずの日本からは、今後出てこないでほしいものだと思うのでした。
酒井順子
人間は所詮世代的にしか生きられないのだろうか。慰安婦と風俗は一緒にできない
毎日のようにネットには、橋下徹日本維新の会共同代表の「慰安婦に関する発言」が話題になっている。これも案外、世代的なものかもしれない。橋下君のような若い人には、セックスとか売春とかいうものに罪悪感が少ないのではないか。風俗嬢の中には、「仕事を楽しんでいる」向きもあるとか。
ボクらは今でも「苦界に身を沈める」という考え方が、まず頭をよぎる。しかもそれが国家やその出先機関の強制であれば、すでに人間の根源的な尊厳や自由を侵す犯罪になる。ボクは1970年代に、「11PM」でインタビューした従軍慰安婦の言葉を、今でも忘れていない。彼女らと風俗嬢を一緒にすることだけは、橋下君、絶対にしてはいけない。
大橋巨泉 『週刊現代』6.15
| 2013年07月10日(水) |
フォトン・ベルトの真相 �� |
フォトン・ベルトとは、地球から約400光年離れたプレアデス星団に浮かぶ、黄金色の星雲だといわれている。フォトンとは「光子」のことで、電子と陽電子が衝突する時に生まれるエネルギーである。太陽の内部で起こる核融合反応によっても生成され、地球大気による吸収や散乱を受けながら、粒子の状態で地表に達している。フォトン・ベルトとは、この光子が帯状になっている状態で、強い電磁波を有しながら巨大なドーナツのような形で宇宙に浮かんでいるといわれている。
フォトン・ベルトの存在を初めて公表したのは、ハレー彗星で有名なイギリスの天文学者エドモンド・ハレー卿である。また1961年には科学者のポール・オット・ヘッセがプレアデス星団の近くでその存在を確認したといわれている。さらに1996年は、宇宙に浮かぶハッブル望遠鏡が、淡く青色に光るフォトン・ベルトの撮影に成功したという。ところが、地球を含めた太陽系が近い将来、このフォトン・ベルトに突入するといわれ、大きなパニックを引き起こしているのだ。
そのきっかけは、メディアプロデューサーである渡邊延朗氏が著した『フォトン・ベルトの謎』という本である。氏は同書の中で、地球がフォトン・ベルトに突入すれば、強力な電磁波によって地軸逆転や異常気象などの壊滅的な打撃を引き起こすと、科学的・物理学的な理論をもとに詳しく解明した。しかも、その日を2012年12月22日と断定していた。この日は、マヤ文明が残したカレンダーに記された地球最後の日といわれる。現代科学よりも高度な天文学と数学を駆使して予言された日付との驚くべき符号は、いったい何を意味しているのか。
目をみはるシュメールの天文学
今からおよそ6000年前、メソポタミアのチグリス河、ユーフラテス河の下流地域に人類最古の文明の一つ、シュメール文明が栄えていた。現在知られている人類の文明の中では、最古のものと位置付けられている。そして文字の発明、農耕、灌漑、建築・車輪の発明などのテクノロジー、さらには法律や幾何学、天文学に至るまで我々が受けている知識や技術の恩恵の源は、全てシュメール人に帰すことができるといわれている。
豊富な水資源を利用した小規模の灌漑農業により、当時すでに現在のアメリカ、カナダに相当する2500リットル/haの大麦収穫量もあげていたという。当時のメソポタミアは見渡す限り大麦の畑が広がる、農業地帯であったのだろ。さらに、この古代シュメールの特筆すべき特徴は、天文学に関して非常に深い知識を持っていたことである。
彼らが残した天文学に関する数百もの粘土板、およびその原型である円筒印章には、現代天文学から見ても正確としか言いようのない惑星や星座のリストがある。例えば、太陽系創世の様子が描かれているシュメールの歴史書には、太陽系の惑星の配置並びに大きさがなぜあのようになったのか、月と地球の地質が違うのはなぜか、地球に水半球と陸半球が存在するのはなぜかなどなど、現在の科学技術をもってしても解明されていない事柄が記されている。
大英博物館に保管されているシュメールの円形の銅版には、7つの星のマークが記されており、地球を7番目の惑星として表していた。人類が20世紀に入ってようやく発見した冥王星から数えて7番目という意味である
宇宙考古学者シッチンが見つけた惑星「ニビル」
このシュメール文明にのめり込んだ一人の言語学者がいた。宇宙考古学者でもある、イスラエルのゼカリア・シッチンである。彼はその研究過程で、現在発見されている9つの惑星と、火星と木星の間を通る超楕円軌道を持った第10番目の惑星が、シュメールの太陽系図の中に書かれていたことを発見した。シュメールの銅版には太陽系の惑星の正確な配列や大きさとともに、10番目の惑星がはっきりと記されている。
シッチンの研究によれば、この惑星の大きさは木星とほぼ同じ、公転周期は3600年。近日点は火星と木星の間にあるが、遠日点は外宇宙のはるか彼方にあるため、細長い楕円軌道を描くという。また、太陽系を横切るように公転するため、シュメール語で「交差する星」という意味の「ニビル」と名付けられたそうだ。そして1976年にシッチンは、『第12番惑星』(太陽と月を含む太陽系12番目の惑星という意味)という本を著し、その中で、その中で、3600年ごとに地球に再接近し、厄介をもたらすという「巨大な赤い星」つまりニビルについての詳細な研究を発表したのである。
シュメール人はニビルを恐れ、敬っていたという。なぜなら、ニビルには人間に似た知的生命体「アヌンナキ」がおり、彼らが太古の地球に降り立ち、人類を創造し、人類に文明を与えたとされているからである。世界中の神話や伝説に登場する「神々」とはアヌンナキのことだと、シッチンは言い切っている。確かにシュメールの歴史書には、これだけの高度な知識は「神から受け継いだ」と書いている。さらに古代メソポタミアでは、発見された粘土板に「文明はアッカドから受け継いだ」と書かれている。人類の文明の中で最古であるとされるシュメール文明だけが、神々から文明を受け継いだとしているのであるが、それはどうしてなのか。
異星人アヌンナキが活躍するシュメール神話
それを裏付けるような重要な神話がある。これまで人類は何度となく滅亡し、そして生まれ変わってきた。その時、人類とは全く姿形の違う救世主によって、それらの苦難を乗り越えてきたという物語は、古代文明の伝説にも共通して記述されている。そして、シュメール神話を解読したゼカリア・シッチンによれば、人類を創造したのはニビルに乗ってやって来た「アヌンナキ」と呼ばれる異星人だというのである。彼の「アヌンナキ説」によると、約23万年前、ホモサピエンスは、北京原人やジャワ原人に代表されるホモエレクトスのDNAとアヌンナキのDNAが操作されたことで誕生したと説かれている。これは「エデンの大実験」、もしくは「アダマプロジェクト」と呼ばれている。当時、今のイラクの地で行なわれたクローン実験だといえよう。
『フォトンベルトの真相』 P88
| 2013年07月06日(土) |
なぜ医者は信用できないか�� |
最後の最後、なぜ医者が信用できないかわかった―末期ガンと闘った医者の告白
人は必ず一人で死んでいく。代わりになってくれる人はいない。それはどんな名医であろうと同じことだ。自らが患者になった時、彼らは何を信じて不治のガンと向き合い、そして闘ったのか。
患者になって気がついた
〈私は間もなく根治の望めない、左大脳腫瘍の手術を受けなければならない。今、私に突き付けられているのは、ガンの終末期といわれるステージ4で、生命の危機という面からすれば、何か医学的にとても幸運なことが起こるとは望めないように思われる。外科手術、多種の放射線療法、さらに他の高度治療を何度も繰り返すのだが、死の過程というものがいまだに正確に理解できないでいる〉
昨年夏、ひとりの名医がこんな言葉を遺し、世を去った。神戸市・みどり病院創設者であり理事長を務めた額田勲(ぬかたいさお・享年72)である。冒頭に引いたのは、彼が末期ガンを患ってから記した手記の一節だ。さらに額田氏はこうも記している。「私は患者に接する時も、いつも死について深く考えてきたつもりだ。だが今、自分が死に直面してみると、70年の人生で得たものはなんと乏しかったのかと思う。そして、激しい自己嫌悪に陥ってしまう。
額田氏は、ガン患者を中心とした終末医療の専門家であり、生命倫理の研究家としても知られる。診療と病院経営の傍ら、講演、著書の執筆、後進の指導に多忙な日々を送っていた。医師として、数多くの末期ガン患者の苦しみに耳を傾け、安らかに逝けるように手を尽くしてくれた額田氏。その彼にも、ガンは容赦なく牙を剥いた。
「初めは、2005年に見つかった前立腺ガンでした。ただ、この時は手術によってかなり良くなったと本人も周囲も考えていたし、転移の可能性は残されていたものの、すぐに病院の仕事にも復帰されました。しかし、それからおよそ5年が経った2011年に、脳へのガン転移、すなわち脳腫瘍が突如発覚し、余命半年という宣告を受けたのです。しかも病巣は、言葉を司る左脳だった。書きものが好きだった額田先生にとって、残酷な運命だったとしか言いようがありません。額田先生は、われわれ後輩をよく飲みに連れて行ってくれる親分肌で、社交的な人だった。しかし、脳腫瘍が見つかってからは、親しい知人でも面会謝絶。弱った自分を見せたくなかったのかもしれません」こう語るのは、額田氏の20年来の弟子であり友人でもある、医師の村田氏だ。
村田氏は、額田氏が闘病中に綴った未発表の遺稿を、一冊の本にまとめた。今夏、ごく小部数に限定して刊行する予定である。今回ここで紹介するのは、その遺構の一部だ。最後の半年間、日ごとに混濁していく意識の中で、額田氏は末期ガンの苦しみ、そして死への恐怖を赤裸々に告白している。〈私はずいぶん多くの患者さんの死に対応してきて、どちらかといえば死に慣れている部類の人間である。死と遭遇した場合にどう受け入れていくかを、ひたすら考えてきた。しかし、精神的な苦悩に対しては何と答えていいかわからない場合がいまだに圧倒的で、(中略)そして今、自分が患者としてそれらの苦悩を厳しく突き付けられる局面に遭遇して、不安、恐怖に向けてそれらしい対策をほとんど見つけることができない〉
終末期の患者に日々向き合い続け、患者からの厚い信頼を寄せられていた名医。それでも自らの死を前にすれば一人の人間にすぎない。医者としての経験やこれまで培ってきたことも、末期がん患者に対しては悲しいほど無力だった。彼の最晩年の文章からは、そんな無念が滲み出るようだ。
これが医者の限界なのか
どんな名医も、高度な医療技術も、死そのものに勝つことはできない。先が長くないと分かっている患者に、医者はいったい何ができるのか。そんな思いを抱いたきっかけとして、額田氏はかって診療したある患者のことを書いている。肺ガンの手術後、鬱などの精神的な後遺症と痛みに苦しんだ70代の男性患者は、大病院を紹介し、手術を進めた額田氏をなじり続けたという。〈その患者は、当院の外来に戻ってきたとき、無表情で暗く、こちらが話しかけても容易に反応しない。私とすれば、専門医療機関に任せるにしくはない。と機械的に紹介に踏み切った。しかし彼がその後も食欲不振などで次第に衰弱していくのを目の当たりにすると、責任を問われているような重い気分に追いやられた。「あんなに苦しい思いをしたのに……うかつに手術などするものではない」と、その時ばかりは正気に立ち戻ったかのように言い続けて亡くなっていった〉
患者の言葉に、額田氏は「医療の限界」をひしひしと感じたに違いない。彼はこのようにも記している。〈メスの技術がどんどん進歩した結果、逆にかってない大きな壁に遭遇している〉家族とさえ悩みを分かち合うことなく、医者としても壁にぶち当たり、自問自答を繰り返した額田氏。ただ、ガンを発症してからの約6年あまりのうち、最後の半年間を除くほとんどの期間は、それまでと同等以上のペースで仕事を続けていた。その点では、長い間ガンとうまく共存した患者であり、彼は決してただ病気に敗れたというわけではなかった。
「額田先生の言葉で最も印象に残っているのが、『医療で大切なのは、現場の物語である』というものです。手術の件数など、数値化された病院の評価は確かに役立ちますが、末期ガンに苦しむ患者を治せるかどうかとは関係ない。医師は検査の数値ばかりでなく『痛い』『苦しい』『不安だ』といった患者の声にもっと注意を払い、耳を傾けなければ」(村田氏)これが最後の最後という時、頼ることができるのは自分自身だけだ。治癒の見込みがない末期ガンの前では、医者ができることは限られている。額田氏は遺稿の中でそう訴えている。
『週刊現代』7.6
日本の年金制度はすでに破たんしている。支給開始年齢を68歳からにする小手先の改正だけでは、結果的に若い世代を苦しめるだけだ。年金制度の廃止は目の前にある現実。それを直視するしかない
10年後には70過ぎてから、20年後には80過ぎてから支給
「今の日本の年金制度は、破綻しているといわざるをえません。ねんきんしきゅうかいし年齢を引き上げる話は、2010年の国勢調査でわかった少子高齢化の進展を受けて持ちあがりました。再来年の国勢調査までに、少子化はもっと進展しているでしょうから、再び引き上げるという話が出てくるでしょう。
このままでは、年金支給開始年齢の引き上げは、こんなふうに際限なく続いていきます。そうなれば制度への不満から、年金を廃止しようという声も出てきますよ」(元大蔵省審議官 松谷氏)現在、国民年金、及び厚生年金の定額部分の基礎年金の支給開始年齢は65歳へと引き上げられているが、今年度からついに、厚生年金(報酬比例部分)の支給開始年齢も、60歳以上に上げられ始めた。今後3年に1歳づつ引き上げられ、12年後の2025年には、65歳から支給されることになる。(男性の場合)
こうした現状に追い打ちをかけるように、今月、社会保障制度改革国民会議は、支給開始年齢のさらなる「先延ばし」を模索している。国民会議の会長を務めている慶応義塾塾長の清家篤氏は、「年金支給開始年齢を67〜68歳、あるいはもう少し上の方まで引き上げていくのは、あってしかるべきではないか」と明言している。だが、67〜68歳で驚いてもいられない。事態は一般国民が考えているよりもはるかに深刻なのだ。
「何かしらの抜本改革をしない限り、支給開始年齢は70歳を過ぎてからに変えなければ、年金財政は破たんする」と警笛を鳴らすのは、学習院大学教授の鈴木氏である。「アベノミクス効果のおかげで、年金積立金の最新の運用結果では、10兆円規模の黒字が出たたしいですが、積立金は年に約6兆円のペースでと取り崩されていますから、焼け石に水。今の年金制度は支給開始年齢をもっと引き上げなくては持たないんです。65歳にした後に68歳へと引き上げているようでは遅すぎます。もう、間に合いません。年金財政を健全化するには、スケジュールを前倒しして段階的引き上げを行なうと同時に、支給開始年齢を70歳にしなければなりません。1930年代に年金積立金は尽きてしまいますから、それらの措置に、今から10年以内に着手しないとダメでしょう」
ほとんどの人がもらえない
さらに、支給開始がもっと先延ばしされる可能性すらあるという。前出の、松谷氏が憤る。「受給者や若い人の負担がこのまま変わらないと、いずれ支給開始年齢が大幅に引き上げられてしまう可能性があります。しかし、役所の年金担当者たちは、最後の最後まで支給開始年齢の上限をはっきり言わないでしょう。受給者と若い世代の比率を眺めると、支給開始年齢は80歳近くになってしまいますからね」
80歳といえば、日本人男性の平均寿命である79歳とほぼ同じ。つまり、平均寿命まで生きられない人には、年金が一切支払われない時代がもうすぐ来るのである。10年以内に、年金支給開始を70歳に引き上げねばならないことは先に述べた。それが20年後には、おそらく80歳になっている。まさに絶望的な未来…。ここで、今こそ考えてみよう。このように、支払った分の年金が戻ってくるのかさえ甚だ怪しい年金制度、どれほど年をとっても支払われない可能性もある年金制度のために、安くはない保険料を毎月支払っているのは、とてもバカげたことに思えてこないだろうか。
保険料を払えば払うほど、損をする。それがわかっているのに金を支払い続けるのは、大切な財産をドブに捨てているようなものだ。そんなことをするくらいなら、そもそも年金制度はいらない。年金制度の廃止。もはやそれは、目の前にある現実なのである。改めて指摘しておくが、現在の年金制度は完全に”破綻”している。絶対にこの制度はもたない。なぜこんな事態に陥ったのか。そこには、日本の特殊な事情が関わっている。少子高齢化が、他の先進国と比べて想像以上の足かせとなっているのだ。
「日本は、出産する可能性が高い25〜39歳の女性が、これから半世紀で約6割も減少してしまいます。一方、フランスでは、同年代の女性が半世紀で3%増えますし、イギリスでは1.5%ほど増えます。日本の場合、戦後の産児制限が大きく影響してしまいました。ヨーロッパでは、今後半世紀で未成年者が1割増えるのに、日本では逆に、5割以下に減ります。つまり、年金をもらう人は増え続け、制度を支える人は減る一方。人口対策は、もはや手の打ちようがなく、日本の年金財政は未来永劫、悪化するばかりなんです」(松谷氏)
こうした事情を知ってか知らずか、国は、支給開始年齢の引き上げの理由を、年金制度の破綻とは決して言わずに、「諸外国も引き上げているから、それにならって」などという。たしかに、アメリカは67歳へ、イギリスは68歳へと、支給開始年齢を段階的に引き上げる予定だ。しかし、松谷氏が解説したように日本と諸外国では事情が大きく異なる。元厚生省年金局長の坪野氏も、国の態度を批判する。
「いくら外国の年金支給開始年齢が67〜68歳に引き上げられるからといって、日本も同じように引き上げようというのはあまりに説得力がありません。国によって出生率や死亡率、年齢構成比も違いますので『世界がこうだから引き上げる』というのは、理由にならないでしょう。年金の支給開始年齢は、老後の生活設計を立てる上での根幹である。一方的に引き上げてしまい、『定年後も働き続けろ』だの『働いているうちにしっかり貯金をしておけ』だのと言っても限界があるわけです。なので、支給開始年齢についても、なるべく早めに情報提供するのが親切というものだと思うのですが……」
『週刊現代』7.6
尖閣諸島は、日本が盗んだと思われても仕方がない―鳩山氏
鳩山由紀夫元首相が、香港のフェニックステレビの取材に対し、沖縄県・尖閣諸島の領有権を主張する中国政府に、理解を示す発言をしていたことが25日、分かった。尖閣を巡る歴史的経緯に言及し「中国から『日本が盗んだ』と思われても仕方がない」と述べた。日本政府は「国益をいちじるしく損なうもので、断じて許すことはできない」(菅官房長官)と強く反発した。
鳩山氏へのテレビ取材は、6月24日に東京都内で行なわれ、発言の様子は25日午前、中国内外に向けて報道された。鳩山氏は首相経験者だけに、尖閣諸島に領有権はないとする日本政府の立場と相いれない発言内容が、日中両国の世論や尖閣情勢の今後の推移に影響を与える可能性もある。菅氏は記者会見で、鳩山氏の言動について「開いた口がふさがらない。憤りを感じる」と批判した。自民党の石破幹事長も「元首相とは思えない。『軽率な』という言葉を使うのも不適切なぐらいだ」と記者団に述べた。
中国は日本の尖閣領有について、第二次世界大戦中のカイロ宣言にある「日本が盗み取った中国東北地方や台湾などの島しょを中国に返還する」との規定に違反すると主張している。鳩山氏は「カイロ宣言の中に尖閣が入るという解釈は、中国から見れば十分成り立つ話だ」と明言した。
日本政府は「尖閣は歴史的にも、国際法的にも日本固有の領土で、領有権問題は存在しない」との立場。鳩山氏は「『私の島だ』という気持ちを日中双方が持つのはある意味で当然だ」と述べ、日本は領有権問題の存在を認めるべきだとの認識を強調した。
『西日本スポーツ』6.26
| 2013年07月01日(月) |
私が日本株を売った理由 |
世界でもっとも有名な「投資の神様」ジム・ロジャース直撃インタビュー
「私が日本株をすべて売り払った理由を話そう」
プロなら誰でも知っている
昨年11月、安倍首相が無制限の金融緩和策を行なうと発表した直後、私は日本株を買いました。一般的に、紙幣が多く出回るようになると、株価は必ず上がる。だから、その前のタイミングを見計らって買ったのです。そして、買った株のほぼ全てを、5月6日の週に売り払いました。
こう話すのは米国生まれの世界的投資家、ジム・ロジャース氏(69歳)だ。「稀代のカリスマトレーダー」として有名なジョージ・ソロス氏と共に、1970年代、「クオンタム・ファンド」を設立。10年間で投資額の4.200%もの驚異的な利益を生みだした。現在は、英語圏と中華圏の接点であるシンガポールを拠点に、投資活動を続ける。そんな氏が、先日保有していた日本株を売却したという。なぜ、今このタイミングだったのか。「投資の神様」ジム・ロジャースに、売却の真意と、今後の相場の見通しについて、独占取材した。
「そもそも、私が日本株を買ったのは、アベノミクスを評価してのことではありません。日本国民は株価が上がったことでアベノミクスを歓迎しているようですが、巨額の財政出動は根本的な問題解決ではなく、先送りにすぎない。長期的に見れば、円安は止められなくなり、通貨の価値は下がり続けるでしょう。日本経済の見通しは、決して明るくないのです。
それなのになぜ、私は日本株を買ったのか。私を含め今、日本株を買っているのはプロの投資家たちです。経験豊富な彼らは、その国がどこであれ、政府が紙幣を刷ると発表すればすぐその国の株に食いつく。金融緩和がなされれば、株価が上がることを経験上知っているからです。そして、売り時にもセオリーがある。つまり、株価が一定の割合で直線的に上昇している時です。事実、私もずっと売り時を見計らっていた。そして、まさにそのタイミングが訪れたのが、5月6日の週でした。株価は毎日、2〜3%の上昇を見せていた。一般の投資家の方には意外かもしれませんが、このように一定かつ急激に上がり続けている時こそ、プロは売り時とみるのです。
しかし今現在、日本の株式市場は、5月23日に株価が暴落して以来乱高下が続き、不安定な相場となっています。私は、あの時に売った自分の判断は正しかったと確信しています。先ほども言ったように、私はアベノミクスが成功するとは思っていません。安倍政権発足以来の株価の急騰は、アベノミクスによるバブルといわれていますが、私は安倍首相の経済政策全般について、まったく評価していない。バブルでもないと思っています。
解決法はある
確かに、株価は急上昇している。潤っている人は多いし、みんな幸せを感じている。でも、これはくまで短期的な影響なのです。日銀はインフレターゲットを2%としていますが、政府がインフレ率をコントロールすることはまず不可能。歴史的に考えても、インフレを起こしながら通過の切り下げに成功した国を私は見たことがない。いずれ実際の物価上昇率は、政府の当初の想定よりもはるかに高くなるでしょう。そして円安が進み、通貨の価値は下がっていく。
すると何が起こるか。今はアベノミクスによって、円は25%も価値が下がり、輸出関連産業は息を吹き返しました。しかし、日本は食料、石油、銅、綿など、多くのものを輸入に頼っている国です。円安が止まらなくなれば、それらの輸入価格がどんどん上がっていく。インフレが起こり、物価が上がって日本の国民の生活はどんどん苦しくなることは必至です。これまでの歴史を振り返ってみても、無制限に印刷された紙幣が、どれだけ最悪のインフレを起こしてきたか。想像するのも恐ろしい。安倍首相にはそれが見えないのか。あるいは見ないふりをしているのか…。
借金とインフレに基づいた経済システムは、いずれ崩壊するでしょう。今の日本は、応急処置ではどうにもならない、本質的で深刻な問題を抱えています。それは、人口の減少と、増え続ける借金です。日本では高齢化と少子化が進み、労働力が不足しています。これを解決するには、移民を受け入れるか、女性をもっと効率よく労働力として使うか、もしくは労働のシステムを変えなければならない。例えば、欧米のように定年をなくすなどです。欧米では仕事ができるかどうかが問題なのであって、年齢は問題ではない。
少子化問題の解決法は、とにかく子供を作ること。少子化対策や移民の受け入れを進めなければ、本当の意味で日本の発展はありえません。日本は、国債も大量に発行し続けている。借金は天文学的数字に膨らみ、世界有数の借金大国となった。今後も借金が減る見込みはなく、10年後、20年後には日本の財政状態はもっと悪化しているはずです。財政支出を大きく削減していかない限り、日本経済は衰退していくだろうし、デフォルト(債務不履行)だってないとはいえません。
今、世界的に経済が悪化していく中で、各国が自国の通貨の価値を下げることに狂奔しています。事実、安倍首相と日銀の黒田総裁が無制限の金融緩和を発表したすぐ後、アメリカもイギリスも、「我々ももっと紙幣を刷らなくては」と追随した。すでに、通貨安競争は起きているのです。このような状況下で、日本人が資産を守るためにどうすることがベストか。それは、「実物資産」に投資することです。実物資産とは、原油や金、銀などの貴金属、小麦や米などの穀物、銅やアルミなどの非鉄金属など、先物市場で取り引きされる商品のことです。
各国が競って紙幣を刷り続ければ、全ての貨幣価値は実物に対して下がっていく。だから、紙幣よりも実物資産に投資すべきなのです。一方、為替で儲けるのは非常に難しい。しかも今は、通貨安競争が起きているので、どの通貨も非常に危うい。うっかり手を出すと、大損する危険があります。私自身、実験的に少しだけ円を売り買いしながら、様子を見ているのですから。
日本では金が上がり、米や不動産価格も上がった。賢明な人は、紙幣ではなく米や不動産を持つようにすべきでしょう。では、株式投資はどうしたらよいか。私は日本の農業部門の銘柄は売らずに手元に残してあります。これから円安が加速していけば、リアルな商品を生みだす分野が強くなるからです。とはいえ、総合的に見て日本株の相場は不安定です。今度の参議院選後に暴落する可能性も十分あり得る。これから新しく買おうと思っている人は、危険が伴うことを忘れてはいけません。
『週刊現代』6.15
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