加藤のメモ的日記
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2010年09月30日(木) 中国

中国は建国以来、50年足らずの期間に、10数回の戦争を行なっている。1950年代の朝鮮戦争、台湾海峡での2回にわたる国民党軍との戦争。チベット動乱の鎮圧、60年代に中印国境紛争、中ソ国境紛争、70年代の南シナ海の西沙諸島でのベトナムとの戦争、中越戦争。80年代に南シナ海の南沙諸島でのベトナムとの戦争、天安門事件である。

それらのうち、天安門での民主化運動鎮圧を除いてあとの全ては中国の主権、領土、あるいは国境線という国家の安全保障に関するものである。また、50年代、60年代において紛争は主として陸地境界線をめぐるものだったが、1970年代以降は海上の境界線に関するものになっている。

だが、幾多の戦争にもかかわらず、中国が帝国列強によって奪われたとする領土のうち現在まで取り戻した領土は、台湾正面の江山島、大陳島などのいくつかの島、そして南シナ海の西沙諸島全島と南沙諸島のいくつかのサンゴ礁、および1997年に返還された香港、99年返還のマカオなどであり、中国の国境線は19世紀末とほとんど変わっていない。

その半面、中国の海洋進出の現状はすさまじく、このままでいくと南シナ海、東シナ海は「中国の海」となるのも時間の問題である。南シナ海と東シナ海が中国に抑えられると、台湾はその生存空間をを失い中国に呑みこまれることになるだろう。そして次には日本の領土である、先島諸島や沖縄諸島などの南西諸島、そればかりか朝鮮半島も呑みこまれていくことになるだろう。

中華帝国史上最大の版図への回復は、徐々に進んでいるのである。中国は10億の国民全体にパイを配分し、平等を目指す国ではないということにまず気がつかなければならない。中国には読み書きのできない人がいまだに人口の3分の1近くいるというような諸々の現実は、中国の貧しさではなくパイの配分、国家戦略として切り捨てた部分と考えるべきだろう。



『中国は日本を併合する』


2010年09月28日(火) サラ金の終わりの始まり

70年代後半には毎晩、顧客の家に押しかけて強引に回収したり、一家離散を招いたりするなどの「サラ金地獄」が社会問題になった。その後も、複数の業者から高い利息でお金を借りる「多重債務者」の増加が社会問題になった。転機は、多重債務者らを減らす目的で2006年末に成立した改正貸金業法。今年6月に完全施行された。

同法は総借入残高が年収の3分の1を超える個人向け貸し付けを原則禁じ、上限金利も年20%に引き下げた。この影響で、たとえ返済が滞る顧客がいても、多くの人に高利で貸し付けることで利益をあげるというモデルが成り立たなくなった。苦境に追い打ちをかけたのは、過払い利息の返還だ。

返還のための資金が必要になり、一気に経営が悪化する業者が増えた。全国の貸金業者数はピークだった86年の4万8千社から今年7月には10分の1以下の3千社余りにまで減った。厳しい経営環境の直撃を受けたのが、かって最大手だった武富士だった。過去のモーレツ営業のツケで、営業貸付残高に対する過払い利息返還の負担の割合が大手4社の中で最も多く、10年3月期までの4年間だけで約4.000億円も返還をしなければならなかった。

武富士はメーンバンクを持たない「独立系」。自由奔放に営業していたころは銀行の口出しがないのが強みだったが、08年秋のリーマン・ショック後に社債の発行が難しくなり、銀行の後ろ盾もないことから資金繰りが悪化した。しかも、創業者の故武井保雄元会長自らが武富士に批判的なジャーナリストらの電話を盗聴した事件で03年に逮捕される不祥事などから、「法令遵守に弱点がある」(大手行関係者)との見方が根強く銀行からは敬遠されがちだった。資本・業務提携に踏み切る相手も現れなかった。

武富士は07年3月期決算の純損益が4812億円の大幅赤字に陥った。昨年11月以降、貸し付けをほとんど止め、顧客からの回収や不動産売却などで資金繰りに奔走していたが、万策尽きた。「来るべきものが来た」。大手消費者金融のある幹部は、こう受け止める。

武富士の破綻は消費者金融業界に一層の淘汰を促す可能性がある。他社の顧客も過払い利息をきちんと返してもらえないと恐れ、いったんは返還請求が増えるとみられるからだ。特に中小・零細業者や独立系は一層苦しくなり、破たんや再編もあり得る。

逆に、三菱UFJファイナンシャルグループ子会社のアコムや三井住友FG関連会社のプロミスといった銀行系は資金面でのバックアップがあり、ライバルが減れば有利になる。一方、消費者金融の破綻が相次げば、多重債務者だけでなく、給料日前など一時的な資金不足の穴埋めを消費者金融に頼っていた人たちも借入先に困り、資金繰りに行き詰る恐れがある。業界では、こうした人たちが「無登録のヤミ金融に走り、不法な融資が増える」との指摘もあり、政府はこれらへの対策も合わせて急ぐ必要がある。



『朝日新聞』


2010年09月27日(月) 中国には対抗措置を

中国外務省が、尖閣諸島沖の漁船衝突事件で、日本側に謝罪と賠償を要求するなど強硬姿勢をエスカレートさせている。これに対し、菅直人首相は26日、改めて、「中国側の要求は何ら根拠がなく、全く受け入れられない」と拒否した。当然の対応である。だが、日本側は領海侵犯し、海上保安庁の巡視船に意図的に体当たりした中国人船長を処分保留のまま釈放したことで、事態が好転すると甘く見ていたのではないか。

一度譲歩するとさらなる譲歩を迫られるのが常である。日本として、どういう対抗措置をとるのか。菅政権は体制の立て直しの総力を挙げねばならない。中国側が尖閣諸島の領海権を主張したのは、東シナ海大陸棚で石油資源の埋蔵の可能性が指摘された直後の1971年12月である。日本が1895年に領有を閣議決定した後の70数年間、中国は異論を唱えていない、こうした事実を日本政府は国際社会に発信し、理解を深めなければなるまい。

一方で中国は、��小平氏が1978年、領有権の棚上げを語り、日本側もこれを容認した経緯がある。ただ、中国は領海法を制定するなど尖閣を自国領とすることに着々と布石を打っており、今回の漁船の侵犯と体当たりは、その一環と見ることもできる。それだけに日本側は、尖閣に施政権があることを明確にしなければ、日米安保条約の対象地域に該当しなくなることも考えておく必要がある。

問題は、領土や領海に対する国家主権を菅政権が守ろうとしているのか、はっきりしていないことだ。今回の釈放についても首相は「検察が事件の性質を総合的に考え、国内法に基づき粛々と判断した」と、釈放は検察の判断だとする見解を繰り返しただけだ。民主党の岡田克也幹事長も「政治的な介入はしない」と強調している。

釈放は今後の対中外交に重大な禍根を残し、日本の国際的信用も失われた。首相がその責任を免れることなどできない。国民に十分な説明ができないなら、最高指導者の資格はあるまい。自民党の谷垣総裁が「直ちに国外退去させたほうがよかった。最初の選択が間違いだった」と、船長の逮捕そのものを批判したのもおかしい。毅然と主権を守る姿勢を貫くこととは相いれない。発言を撤回すべきである。


【主張】

日本も航空母艦を持たねばならない時に来ている。日本は1980年代、排水量15000トンの洋上防空用空母を計画したが、アメリカのアーミテージが「日本が空母を持てば、北東アジアでの日本への脅威が増すので反対」と主張した。「それよりアメリカの空母を護衛するイージス艦を優先せよ」と横車を押すので、計画はとん挫した経緯がある。そのイージス艦は無用の長物と化している。


2010年09月24日(金) 力道山VS木村政彦

昭和天皇が亡くなってから、木下道雄侍従長が戦争直後に綴った『側近日誌』が公開された。そこに外国人カメラマンに追随する同胞の姿が苦々しい思いで描かれている。外人を制御するには彼らと面談、意思相通ずるようにすべきなり。彼らは彼らの風習に従うのみ。これが日本にて無礼とは思わぬなり。教うればすよく判ると思う。ただ邦人班がこれに劣らじと騒ぐは見苦しき限りなり」(昭和21年2が22日付)

とはいえ日本人カメラマンがハードルを越えるのには少なからず勇気がいった。毎日新聞のカメラマン金沢秀則は後日、カメラの専門誌(カメラ毎日昭和39年9月号)で、あるアメリカ人が天皇に近づき「ストップ」と言い、シャッターを押すのを目撃し、「陛下に声を書けるなんてとんでもない奴だ」と睨みつけた時のいたたまれない心情を吐露している。

ところが気がつくと自分の脇にいた自社の若いカメラマンが天皇の半身をクローズアップで写している。「カメラマンの慣例として、陛下の半身を写すことはこれまで禁じられていたので、この時も私には大きなショックだった」と言う。いずれにしろ結果的に露出した昭和天皇の肉声、それが「無技巧の極致」であろうとなかろうと、大いに流行するのである。

こうした無垢な天皇の存在は、アメリカ兵たちにとっても好奇心の対象であり続けた。何しろヒロヒトといえば、ヒトラーと並び称される怖い独裁者のイメージしか連想できなかったのだから。その逆転があまりにも鮮やかだったため、やがて「あ、そう」は独り歩きしはじめる。いまでも欧米人の芝居には「アーソー(Ah Soh!)」とやることで、日本人あるいは東洋人の振る舞いを茶化し、受けを狙う役者がいることは事実である。


……


工藤の解釈では、力道山のほうが役者が一枚上だった。木村は力道山に「言い分を書いてみろ」とせかされ確約書を書く。力道山へも同様の確約書を要求すると「あとで渡す」と返答された。調印式の時間が迫っているので信じた。確約書を手にした力道山は「しめた」と思ったにちがいない。調印式は試合の日程とルールを確認するもので、記者会見を兼ねていた。

帰途、工藤は木村に質問した。大船撮影所でも木村と力道山が別室でしばらく話し合っていたので、進展があったのかどうか確かめるためである。木村は「決裂しました」と答えた。木村はどこかで確約書が生きていると期待していたのだろう。熊本から上京したのは試合の前々日で、ろくにトレーニングもしていない。

前夜も一升酒を飲んでいる。工藤は木村に忠告した。「こうなったら先手でお前が空手で肋骨の2,3本も折ってやればいいじゃないか」と。木村は「分かりました」と頷いた。だが、最後まで事態を見抜いてはいなかった。先手を打ったのは力道山である。八百長のつもりの木村は隙だらけだった。力道山は力まかせに張り手を食らわせたのだ。鋼のように鍛え抜かれた体とはいえ、すでに37才、しかも無防備な状態。ひとたまりもなかった。

力道山は異文化の中で孤立無援の戦いを強いられてきた、木村も、アメリカを転戦する際には油断しないだろう。だが力道山にはアメリカも日本も同じ外国なのだ。だから苦しいトレーニングに絶え、試合中にテレビカメラの位置に気を配る。ところが木村は熊本という故郷から時たま出稼ぎに来るぐらいの発想しかない。拓殖大の柔道人脈も背後に控えている。

僕は木村に会ってみたくなった。幾度も断られ、一年後にようやく取材を許された。「どうしてもというなら、これだけ伝えよう。あれはどちらが勝っても事件になるので、引き分けと話がついていたんだ。私が勝てばリングサイドの奴らに必ず殺された。試合後、熊本の連中がダイナマイトを持ってトラックで駆けつけると電話してきたが、私は制した。股間を蹴るふりは反則したぞという合図。次に空手チョップを受けやすく体を開けた、とたん本気の空手が入ったんですから、たまりませんよ」

騙されたんですね、とたたみかけた。「いやそんなことではない。ああいう卑怯なことをしたので、報復した。彼は命を落とした」どういう意味か。「私が座禅を組んで念をかけた、すぐには死ななかったが、10年後に死んだ」72歳の木村は、力道山の不慮の死を、そう理解していた。



『欲望のメディア』猪瀬直樹


2010年09月21日(火) 猪瀬直樹

遂に70回を数えたこの欄で、これまで4度も血祭りに上げた人間はいない。しかし切っても切ってもミミズのようにしぶとく生きる猪瀬に対しては、4度目の筆誅を加えることにした。今度の大宅壮一ノンフィクション賞選考について、人間はそれほど卑劣になれるものかという動きをしたと聞いたからである。

つまり、有力候補だった佐野眞一の『巨怪伝』をけなし、何人かの選考委員に、これを選ばないよう、しつこく働きかけた。佐野は猪瀬のかっての盟友である。実力は佐野のほうがあることははっきりしていたが、猪瀬は小ずるく立ちまわって大宅賞を受賞した。ならば、今はケンカしているとはいえ、少なくとも佐野の受賞の邪魔はしないというのがニンゲンではないか。

なのにこのミミズ男は恥も外聞もなく妨害をした。それだけ佐野に対するコンプレックスが深いということだろうか。佐野の作品では、私は『巨怪伝』より『業界紙諸君!』などのほうが優れていると思う。それにしても、イヤな話ではないか。『巨怪伝』が落ちて、櫻井よしこの『エイズ犯罪』が受賞し、その後開かれた祝いの会で猪瀬が大きな顔をしていたという。多分、選考委員でもないのに自分が受賞させたぐらいのことは言っているのだろう。

平凡社の『大百科事典』によれば、陸生のミミズは「土中にほぼ垂直な穴を掘って、日中はその中で静かにしており、夜になると穴から体の半分を地表に出して地上の餌を飲み込んだり、穴の中に引っ張り込んで食べる。また夕方から朝にかけて頭を下にして穴の底の土を飲み込んでは穴の周囲に小さい糞を積み上げる」とか。

一日に体重のおよそ二分の一を量の糞を出すと言われるミミズは、まさにクソ製造機だが、次々とイヤな糞話をつくりあげる猪瀬はミミズと同類である。本誌で女性がらみのスキャンダルを書かれ、とりわけ娘に読まれるのを恐れて、ミミズのように穴にもぐりこんでいたという話もある。

ミミズには眼がない。だからミミズの名もメミエズから転じたと言われるが、そんなこともあって日光の紫外線が苦手らしい。猪瀬もまったく同じで、田中康夫や私が批判した時も、正面から反論することはなく、陰にまわってコソコソと足を引っ張る動きをした。

立花隆がその受賞に強力に反対した猪瀬の大宅賞作品『ミカドの肖像』について、作家の藤堂志津子と対談した時、ついでに触れ、「彼は天皇を商品化している。しかも、右翼が相手にしない」と言ったら、藤堂は「それは悲しい。右翼に相手にされて一人前じゃないですか」と喝破していた。「憎まれてこそ華」などという彼女の指摘は高級過ぎて猪瀬にはわかるまい。道学者めいたことを言うつもりはないが、せめてミミズから人間に昇格してほしい。その日を期待しないで待っている。


『佐高信の直球・剛球』


2010年09月17日(金) 悪態をつく患者

歯医者にとって患者は今やお客様です。だからご機嫌を損ねないように治療するなど、細心の注意を払わなければなりません。これが歯医者の数が少なくて、待合室に行列ができたような時代なら、「痛いだなんだと、文句を言うな。嫌なら診ててやらないから他へ行け。自分が悪いんだから我慢しなさい」なんて強いことを言った歯医者もいたんです。

大学の教授に聞いた話ですが、それほど昔は歯医者は威張っていたそうです。雑な歯医者に電気エンジンで誤って歯ぐきを切られ、口の中が血だらけになったくらいでは患者は文句を言えない。そんなことはよくあることで、ある歯医者の治療がひどいので患者が文句を言ったら、突然、治療の手を止めて一言、「次の患者を入れてくれ」と言い、他のユニットに行ってしまったそうです。

それっきり戻らないので、さすがに患者も腹を立ててそのまま帰った。とはいうものの、削ったところには何も詰められていないので、ズキズキと痛みが続く。他に移ろうと思っても、歯医者は隣の市にしかない。その患者は仕方なくお詫びの品を持って誤りに行き、治療を続けてもらったとか。うらやましい話です。想像もできない。実際今はうるさい患者が多いんです。歯医者が余っていることを知っているし、歯科治療についても知っているんです。

「お金払ってるんだから、もっと痛くないように上手にやってよ」などと大声でわめく人が時々いるんです。おばさんで、しかも自由診療の患者です。知識を持つのは悪いことではありませんけど、やりにくい。ただ自分の歯について知らなさすぎる、というのも問題です。ちょっと気になる歯があるのでいつごろ治したのか聞いても答えられないんです。自分の歯が何本あるかってことすら知らない。

そうした患者は文句を言うことが少ないから楽ですけど、知識がなくて根掘り葉掘り聞く人は治療にもうるさい。都内のビルで開業している友人の話ですが、そのビルには弁護士事務所がたくさん入っていて、その関係者の患者が多いそうですが、やはりうるさいらしいです。それもなかなか治療に入れない。どういう治療をするのか、保険と自由診療ではどう違うのかなど、しつこく聞いてきて嫌になるって言います。

それでも貴重な患者、お客様ですから怒りを我慢して説明。やっと治療に入れたのはいいが、今度は仕上がりにケチをつける。”光沢が悪い”なんて文句を言うそうです。噛み合わせが悪いと言うならわかりますが、光沢がどうのこうのと言われたって、材質で決まってしまうようなもので、どうすることもできない、保険だからこれが限界と説明しても「それだから歯医者はダメなんだ」なんて悪態ついて帰っていくそうです。

建設現場で働いている患者で、虫歯にレンジを充填する治療をしたんです。それが2日で取れたと言うので、怒鳴りこんで来たんです。「おい!金払ってるのに2日で取れるとはどいうことだ」確かに詰め物が2日で取れてしまったんでは、こちらとしても、多少の弱みはあります。しかしレンジの場合は歯と密着するから、そうすぐには取れないはずなんです。

だから、「治療はちゃんとしています。しかし保険ではそれほど精巧なものがつくれないので。患者さんの歯の質によっては、短期間で取れてしまうこともあるんです。そのことは治療前にご説明したはずです」そう弁解しても聞く耳を持たず、診察室に入りこんで「とにかく腕が悪いんだよ、おめえは」なんて怒鳴るので、他の患者もいますから迷惑極まりない。

「ここで大きな声を出されると、他の患者さんのご迷惑になります。よろしかったら診療時間が終わったらゆっくりご説明しますから、待っていただけますか」「うるせえ。俺はとにかく、どうしてくれるんだってことを聞きてんだ」「分かりました。それでは今診ますので、診察台におかけください」「バカいえ、俺は用事がある。今日はお前に文句を言いに来ただけだ」

そうまで言われたら、私だって我慢の限界です。「分かりました。もう治療はしません。これまでの治療代はお返ししますから、他の歯医者さんで治療してください」私は助手にカルテで治療代を確認させ、その金額を自分の財布から出して男に返してやりました。「気をつけろい、バカ野郎」なんて捨て台詞を残して男は出ていきましたが、思いっきり殴り飛ばしてやりたい衝動を抑えるのが大変でした。



『私は悪い歯医者』






2010年09月16日(木) 死の瞬間から幽体離脱へ

死を迎えるとき、人はそれぞれ千差万別の態度をとる。「死にたくない」と言い続ける者、「いろいろありがとう」と周囲に語りかける者、意識のないまま眠るように死んでいく者……とさまざまだ。だが、これは客観的に見た死の瞬間でしかない。

では、主観的にみた場合、すなわち、私たち自身が死を迎えたとき、どのような経験をするのだろうか。もちろん、ここで紹介する死後のスケジュールは、私自身の体験に基づくものではない。その根本にあるのが「霊界からのお告げ」であり、それを裏付けるのが、数多くの霊能者たちによる証言、近似死体験者のレポートなのであることを、ここでもう一度お断りしておく。

さて死の瞬間、どのようなことが起こるのだろうか。ご存じのように「死」は肉体が滅びるだけの現象である。魂(幽体)にとっては、単なるプロセスの一環に過ぎない。これは、子供が思春期を迎え、大人の体に移行するのと同じことだ。幼児の身体が成人の身体に移行する。いつの間にか大人の身体になっているが、幼児のそれとはまるで違う、といったようなものなのだ。

すなわち、生から死への決定的瞬間は感知できないのである。夏の午後、風通しのいい座敷でうつらうつらうたた寝をしているうち、本当に眠ってしまい、夢の世界(霊界)に入ってしまうのによく似ている。眠りに入る決定的瞬間は、普通だれにも知覚されない。いつ夢の世界に入ったのか、その戸口さえ意識にないのだ。気がついた時には、すでに夢の中に身をゆだねているのだ。

だが死の瞬間には、頭部と腹部で肉体と幽体をしっかり結び付けている糸、名づけて「霊糸」が切れてしまう。そのため、その後しばらく、すなわち転生するまで霊界(夢の世界)で暮らすことになるのだ。霊糸が切れる時、ものすごく耳障りな音がして、まず目を覚まされたような具合でハッとする。そして気がついてみると、自分は客観的に自分の死体を上方から見下ろしているのである。

不思議なことに。肉体的苦痛は何もなく、身ががあまりにも軽やかなのに驚かされる、次に驚くのは、自分の死体を取り巻いて泣いている人、首を垂れている人などあらゆる人の心に思っていることが、話し言葉のように聞こえてくことだ。それが悲しみの問いかけであったり、恨みであったりさまざまだ。

そこでその人たちに答えてあげようと自由自在の幽体となった自分が、そばへ寄って語りかけるのだが、誰ひとりそれに気づかず、話を聞いてもくれに。その中で自分の存在に気がついてくれる人がいたとしたら、その人は間違いなく霊媒体質なのである。

と、突然、真っ暗なトンネルのようなところへ引き入れられ、有無を言わさずどこへともなく連れ去られてしまう。不安で恐ろしい体験だ。医師が「ご臨終です」といい、幽糸が切れてから自分の死体を上方から見下ろしている自分に気づくまで、現世時間で約2時間である。これを幽体離脱という。


……人間は肉体ではなく、その中に宿れる霊そのものであることを。生命は決して滅びることはなく、永遠に生き続けることを。そして最も大切なことは、人にとっても世にとっても「愛」であることを。私は前述しました通り、何の宗教にも属しておりません。そういうと人は、「じゃ、あなたは無神論者ね」とすぐ言いますが、私はそうは思いません。

宗教を持っていることと、神を信じ、霊界を信じることとは別なのです。私が見た光も、決して私に対し「我はΟΟの神ぞ」とか、「我はΟΟ宗教の使いであるぞ」とも言いませんでした。それでいながら、偉大な愛の情念がひしひしと心の奥まで沁み入り、ただただ感謝と無常の悦びの念を抑えることができませんでした。

霊界とは、宗教を超越した世界なのだということが、明確に分かったのです。私はこれからもどんな宗教にも入る気はありません。しかし、私は自分で見たものを信じます。そして、生きている限り、この世において私が使命を持っているならば、それを精一杯やりぬくことだけです。やがて、あの光のもとへ帰って行く日まで……。


『死よ、こんにちは』 丹波哲郎

本名 丹波正三郎 2006 9/24 84才没  


2010年09月15日(水) 欲望という名の宮殿

……翌朝になっても事態にまだ変化はない。私は相変わらず黒海艦艇の基地セバストポリに入れずに、ヤルタで待機しているしかなかった。そこであいている早朝を使い、ヤルタからセバストポリに向かって車で40分ほどの、ファロスにあるゴルバチョフのの別荘に取材に出かけた。91年8月19日の保守派によるクーデターの折に、彼が夫人とともに軟禁されていた場所だ。

ファロスはクリミア半島の最南端にあって風光明媚なクリミア半島黒海沿岸でもひときわ美しい海岸線を持っている。ゴルバチョフはこの海岸を1�匐瓩�も占有し、宮殿のような邸宅、ゲストハウスなど数棟の家屋を所有していた。もちろん自分の金で買ったわけではない。国民の税金で建てたものだ。そこで働く料理人から警備員まで約300人の人員も、国民の税金で賄われていた。

私はこのチャウチェスク宮殿にも匹敵する別荘を見ていて、彼に抱いていた一片の同情を捨てた。たしかにゴルバチョフはペレストロイカによって民主化への道を開いた。しかし彼は権力によってツァーへの道を歩み始めていたとみたられても仕方ないだろう。かってアレキサンドル・ヤコブレフがゴルバチョフのもとを去るにあたって、「権力は人を腐敗させてしまう」と語った。

ゴルバチョフの別荘を見て、私はこのヤコブレフの言葉を思い出さざるをえなかった。ゴルバチョフは国民に捨てられるべくして捨てられたのだ。そんなゴルバチョフを日本に呼んで接待狂いする意義がどこにあるのか。4月11日に来日した元ソ連大統領ゴルバチョフを巡る、日本の政界・大新聞のハシャギぶりは目に余るものがあった。

この愚かなまでの興奮ぶりほど、今日の日本の危うい状態を正しく物語っているものはなかった。ゴルバチョフが行なったペレストロイカという歴史的な功績と、その後の彼の政治的堕落はきちんと分けて評価しなければならない。日本人特有のセンチメンタルさといい加減さが、致命的なまでに外交を誤らせようとしているのだ。

プラウダは「日本の朝日新聞と読売新聞が50万ドル(約6500万円)ずつ出してゴルバチョフを呼んだ。また創価学会も池田名誉会長の会見のために多額の謝礼を支払った」と報じ非難している。私の調べたところでは、それらの金の振込先はロンドンである。こうした日本の外交がロシア国民にバカにされていることはいうまでもない。もはやゴルバチョフは国内に支持基盤がないのだ。

ゴルバチョフもそうした情勢は充分に理解している。イズベスチャ紙によれば、彼はアメリカのフロリダに密かに別荘を購入したという。彼はもはやロシアにとどまれないと自分の将来を見越したのだろう。だから、この華麗なクリミアの別荘は、相変わらずKGBによって厳重に警備されているが、もはやゴルバチョフがここに戻ってくることはない。私は彼の当時の権力者ぶりを知るために邸内の取材を申し込んだが、すげなく断られてしまった。管理はウクライナ共和国ではなく、まだモスクワのKGBが行なっているという。


『赤い帝国の罠』


2010年09月13日(月) コベントリーの悲劇(2)

ドイツ空軍の暗号解読によって、イギリス中部にある軍需産業都市コベントリーが爆撃されることが判明した。その日時までも分かった。つまり市民には避難勧告を出すこともできる。チャーチルはどうしたか?……この避難勧告を握りつぶしたのである。イギリス国内によるドイツ・スパイによって、暗号解読の事実がばれることを恐れたためである。

つまりチャーチルは、暗号戦での勝利を優先し、コベントリー市民の生命を見捨てたのである。空軍による迎撃すらしなかった。1940年11月15日、爆撃が行われ、およそ1.000人のコベントリー市民が犠牲になった。しかし、戦時には国益がいかに優先するとはいえ、これは権力者による犯罪だとはいえないだろうか?

翻って、日本軍の指導部はこれほど非常な決断をなしたことがあっただろうか?確かに戦争の終盤では、追い詰められた大本営は、次々に無謀な作戦を発動し、将兵たちを死地に送り、多くの犠牲を出した。大本営、あるいは軍司令部のメンツを保つために師団規模の兵団が犠牲にされた例はいくらでもある。

その好例は、インパール作戦である。これは制空権も補給の当てもなく、インド奥地インパールの奪回を狙った作戦である。しかしこれは非常な決断とはいえない。一見非常に見えても質が違う。つまり計算ずく、目の前の犠牲と大局的な勝利を天秤にかけた末の決断ではない。ひたすら押されまくってのなし崩しの決断であり、何とかなるかもしれないという幻想と願望によって将兵を送り出したのである。



『日本人は悪党になりきれない』


2010年09月12日(日) 情報には魔力がある

「マスコミは最大の取材先である検察から情報が取れなくなることを極端に恐れている。だから、私が告発しようとした検察の裏金問題などは絶対に書かない。特に大手マスコミはダメです。私は日本に真のジャーナリズムなんてないと思っています」

私が「リークの現場」を聞いた記者たちの”見解”も、実は様々だった。「こちらが必死に取材努力を重ねたうえで、その結果を検察幹部に当て、ようやくヒントのような情報を得たことをリークというのなら、それはリークなのでしょう。しかし私たちは検察の太鼓持ちをやっているつもりは断じてない」と半ば声を荒げる者もいれば、次のような率直な内容もあった。

「私も組織人ですから、デスクに他紙に絶対抜かれるな、と厳命されれば、必死になって検察幹部にぶら下がるしかない。本当は独自取材で政治家や企業の問題点に切り込んでいたいのですが、社の上層部から『それは事件になるのか』『訴えられるのではないか』と一蹴されてしまう。要するに当局に寄り添っていたほうが楽なんです。ノンフィクションライターの魚住昭氏は、私も所属した大手通信社の先輩記者であり、かって検察担当として法務・検察幹部に深く食い込んでリクルート事件などの取材にかかわった経験を持つ。その魚住氏は、検察と大メディアの「特異な環境」が事態をより複雑にしていると見る。

「情報というのは魔力がある。特ダネ欲しさと検察の正義を信じて取材していると、彼らのインナーサークルに入ったような気分になるのです。情報が濃密であればあるほど、取材源と記者の一体感は高まり、客観的な視点が失われていく。検察担当のような閉鎖的、特権的な空間にいるとなおさらです」つまり検察にベッタリと寄り添った報道姿勢が、検察捜査のお先棒を担ぐ報道を構造的につくり出しているということだろう。以前リポートした「新聞危機」でも伝えたが、ネットの隆盛とともに旧来型メディアを取り巻く経営環境は一段と厳しさを増している。部数や視聴率の低下、広告の減少で新聞、テレビは今、深刻な危機に見舞われつつある。

しかし、小沢氏をめぐる報道に対して噴き出した「検察リーク」批判は、新聞やテレビに一層深い疑惑を突き付ける。メディアがどういう姿勢をとり、何をどう伝えていくのか、ジャーナリズムとしての立ち位置そのものが問われているからだ。

小沢氏を筆頭とする政治権力や「政治とカネ」の病弊は、もとよりメディアが批判を加えるべき対象だろう。しかし一方、検察という強大な捜査機関もメディアが果敢に監視の目を注ぎ込むべき対象にほかならない。近年の検察―特に特捜検察の内部には、「正義の使徒」として強烈な誇りを持つがゆえの独善が生じていないか。検察にのみ寄り添い続けるメディアがそれを煽っているとするなら、メディアがいくら「取材努力」と強弁しても、国民の目から見れば「馴れ合い」でしかない。



『週刊ポスト』


2010年09月09日(木) 世界最大の難民

…ただ、ひたすらイラクの内戦を静観していたアメリカにも一つの誤算があった。イラク北部でグルド人が予想外の抵抗を示し、これに対してサダム・フセインが非道の限りを尽くして鎮圧した。その結果、大量のグルド人難民が周辺諸国に流れ込み、グルド人難民が中東の新たな起爆剤になる危険性が出てきてしまったことだ。

グルド人はイラク、トルコ、イラン、シリア、ソ連の5カ国にまたがるクルディスタン山岳地帯にすむ半遊牧民族だが、これまで自らの独立国家を持ったことがない。人口1.200万とも2.000万ともいわれる世界最大の難民である。そのため昔から独立国家建国はグルド人の悲願だったが、彼らの独立運動はことごとく潰され、そのたびに多くの血を流してきた。クルド人がイラク北部で予想外の抵抗を示したのも、国家建設の悲願があればこそだった。

共和国防衛軍によって鎮圧されてしまったが。彼らは一時、イラク最大の油田地帯キルクークを制圧した。仮にクルド人がキルクークを取ってそこにクルド人の自治を確立していいたら、彼らの独立国家創設運動の大きなステップになるところだった。しかし、国内にクルド人を抱える周辺諸国にとって、イラク北部にクルド人の自治共和国ができたのではまずい。これがバネになって自国内のクルド人の独立運動に火がつけば国内秩序が不安定になってしまう。

アメリカにしても、とりわけNATOの戦略的要衝であるトルコの政情が不安定になるのは安全保障上きわめて重大事だ。どこも本音ではクルド人の独立運動を刺激したくはない。だからこそ、イラク北部でクルド人たちが共和国防衛軍によって虐殺されていくのを横目に、形ばかりの物資援助に終始した。これも「これだけ援助するから、その代わりこれ以上騒ぎを広げないでくれ」というのがホンネだろう。


 
『そして我が祖国』


2010年09月07日(火) 受動喫煙

タバコの煙に含まれる化学物質は”有名物質”ぞろいである。悪臭防止法で規制する特定悪臭物質22種のうちアンモニア、アセトアルデヒドなど9種がある。厚生労働省が濃度指針値を決めているシックハウス症候群関連物質13種のうちホルムアルデヒドなど5種類が含まれている。それらの化学物質を、自分で吸うのが能動喫煙。タバコを吸わない人は、煙の混じった空気を吸わされてしまう。これが受動喫煙である。

タバコの煙は室内に拡散し薄まる。受動喫煙者が吸う有害化学物質の総量は、能動喫煙者と比べたら少ないはず。だが、非喫煙者の感受性はとても高い。わずかでも実際に生じる健康被害は予想以上で、能動喫煙者に近いことがわかってきた。

能動喫煙者が起こす病気は実に多種多彩である。能動喫煙で起こる病気はほとんどすべて受動喫煙でも起こる。大人が受動喫煙を受けたときの影響を米国公衆衛生官報告(2006年版)が明らかにしている。確実な証拠があるのは、肺がん、心筋梗塞、乳がん、喘息の新規発症・悪化、など、全て1.2〜1.5倍となっている。

研究の進行に伴い、受動喫煙者の病気は増えるばかりである。糖尿病、メタボリック症候群、末梢動脈閉そく症、うつ病、うつ状態も。妊婦の受動喫煙で、胎児、新生児、乳幼児の心身に健康被害を起きている。米国小児学会誌によると、喫煙者の乳児の頭囲は、マリファナ、コカイン、飲酒よりも小さく、コカイン常習者と同程度だった。

又出生時の前頭葉容積が7%小さかった。ニコチンが脳の中枢神経に作用し、胎児、新生児、乳幼児の脳容積を小さくした。また知能、精神的不調をもたらす危険は大きい、ということだ。



『健康ライフ』


2010年09月04日(土) 御用聞きと化した小泉首相

「歴史的会談が実現」―。北朝鮮、金王朝独裁政権のことを何もわかっていない大マスコミは、2002年9月17日の小泉・金正日会談をこう評した。確かに、私から見てもこれは「歴史的会談」だった。ただし、「歴史に汚点を残す会談」という意味で―。この首脳会談で得られた成果は皆無だった。いや、対北朝鮮政策において、最大の「負の遺産」を残すという最悪の結果をもたらした。

会談では、金正日が国家犯罪としても日本人拉致を認め、「8組11人(当時)」の拉致被害者のうち5人が生存、一人が行方不明、その他は死亡という発表が行われた。後に5人の生存被害者は日本に帰国したが。何のことはない、「北朝鮮はテロ国家である」という指摘を、実行犯自らが認めたにすぎない。私が耳を疑ったのは「10月から中断していた国交正常化交渉を再開する」という小泉首相の会談後の発表である。

交渉前に小泉は「拉致問題が解決しないかぎり、国交正常化はあり得ない」と述べていたはずだ。「拉致被害者の生死を発表する」ということが「拉致問題の解決」であるなどという解釈、あるいは「拉致を認めた」ことが「日朝間の問題解決にめどが見えた」という結論にたどりつくという思考回路は全く理解不能としか言いようがない。結果的に、その後の交渉がとん挫したまま現在に至っているのがせめてもの救いだ。

普通に考えれば「死亡」と発表された被害者は、「口封じ」のために“殺された“、あるいは生きていても表には出せないから“死んだことにされた”と考えるのが自然だ。それなのに、「生きています、死亡しました」の返答だけで、「ああ、そうですか」としか対応できなかった。一方的な説明を聞くために、一国の首相が「御用聞き」としてテロリストのところにノコノコ出掛けていっただけではないか。

さらにいえば、拉致被害者は政府が発表した「8件11人」だけではない。そのほかに50人とも100人ともいわれる拉致被害者については、これから全く無視される可能性もある「8件11人」に限定してしまったのは明らかに日本の外交の無能さである。

そもそもこの首脳会談の根本的な誤りは、「まず国交正常化交渉の再開ありき」という考えがあったことだ。現時点でもそうだが、あの時点で北朝鮮と国交を結ぶ必要が一体どこにあったのか、メリットは何もない。日本は経済がひっ迫している北朝鮮の「現金自動支払機」にさせられたにすぎない。社民党の親北朝鮮派の某議員が「日本のそばに国交のない国が存在すること自体がおかしい」と言っていたが、それこそ妄言以外の何ものでもない。その議員に問いたい。「では、なぜあなたは台湾との国交正常化を推進しないのか」と。これらの「親北朝鮮議員」は、北朝鮮の走狗となって世論を誘導していたにすぎない。

まず、以下の「歴史的事実」を思い出してもらいたい。83年のラングーンでのテロ事件では韓国の閣僚を含めた21人が殺された。87年の大韓航空効爆破事件でも多数の民間人が殺された。98年にはテポドン・ミサイルを発射し、日本上空を通過させた。さらに繁雑に行われた工作船による領海侵犯。これらのテロ行為、あるいは国際法違反の首謀者は誰だったか。他でもない金日成、金正日親子だ。そして彼らの行為は国際的な裁判も受けていないし、当然、その罪を償ってもいない。

先のバカ議員にはこう聞きたい。「逮捕もされず、裁判も受けず、服役もしていない殺人犯と、あなたは友人になれるのか?」と。つまり、小泉訪朝は自ら認める国際的テロリストと握手し、彼らの存在を正当なものとして認知することに力を貸してしまったということに他ならない。北朝鮮と国交を結ぶこと自体が間違いだとは思わない。ただし、それは「国際テロリストで人権無視の独裁者による統治体制がなくなったうえで」という絶対的な条件をクリアしたうえでの話だ。

このように日朝首脳会談の前提からして間違っているのだから、9月17日に発表された共同宣言を見るまでもなく、小泉の訪朝が百害あって一利なしのものとなることは最初からわかっていたこと。第一、2001年5月に起きた金正日の息子、金正男の密入国事件の時でさえ下手に出た対応しかできなかった日本政府が、この会談で”親玉”である金正日に完全にしてやられたのは当然の帰結といえる。


『国が死ぬ』


2010年09月01日(水) 患者より研究

医学部・医科大学は卒業までに6年かかる。卒業直前に医師国家試験を受けて合格すれば、卒業後に医師免許を持てる。ただし、義務ではないが基本を身につけるため、最低2年間の臨床研修を求められる。全国79の医学部・医科大学のほかに269の臨床研修指定病院で研修できる。しかし、新人医師の約8割は大学病院の内科、外科、眼科などの医局に入局しトレーニングを受ける。医局は一人前の医師に育てる「教育の場」でもある。

ところが「内科の場合だけかもしれないが、大学病院では内科医になるべき最低限のトレーニングがありません。医局内の専門の細分化や研究至上主義などが弊害になっている」千葉県船橋市の駅ビルに「東武塚田クリニック」を開業した林直樹さん(42)は大学での医師教育のゆがみを指摘する。

林さんが学んだ東京都内の私立大学病院には4っつの内科があり、林さんは呼吸器、免疫、血液などを主とする内科に入局した。医局院が100人余の大所帯で、医局内は6,7か所の専門研究室に分割されていた。ここに入局した医師の臨床研修は、この内科が関係する呼吸器、免疫、血液分野にほとんど限定される。研修が終わると専門研究室に所属する。関連病院に一時派遣されたりしなが、ら5年10年と医局に在籍し、呼吸器の専門家や血液の専門家への道を進む。

専門以外の患者はまず診ない。全診療科の一部である内科の、さらにその一部の狭い専門の穴に閉じこもり、「臓器を見て人を見ない」ことになってしまう。今の内科は「診療より研究」という風潮があまりにも強すぎる、と林さんは考える。患者の治療成績をまとめた研究は軽視され、試験管レベル、細胞、動物レベルの実験研究が客観的で優れた実績と評価される。

別の大学の関係者は「研究室での動物実験に熱中する医師が、30分だけ患者の話を聞きに病棟に行くのを『もったいない』と感じているのは事実だと明かす。患者治療で論文を書くには、入院時の患者の状態をできるだけ統一し、その後の治療効果を観察することが必要になる。大学病院のベッド空きを待つ急性肝炎の患者に肝機能薬を注射しようとした民間病院のスタッフに対し、大学側が「データに薬の要素が混じるから」と注射をやめさせることさえ起きた。

林さんは「白血病の研究者が白血病の治療薬を知らなかったりする。10年間、狭い専門の研究に明け暮れた医師が外に出た場合、果たして10年の内科経験を誇れるかどうか」と嘆く。こんな現状を打開しなければと、林さんは「21世紀の医療をつくる若手医師の会」の事務局役の一人として行動してきた。質の高い医療を目標に、大学、医局の壁を超えた勉強会を開いている。

大学病院の使命である教育・研究・診療の三本柱のうちなぜ研究だけが特別視されるのか。東京大学医学部の教官は「教授選考における論文主義が大きく影響している」と打ち明けた。彼によると、教授選考は研究論文による評価ほとんどで、臨床技能や教育者の資質、人格は無関係。英国の科学誌「ネイチャー」などを筆頭に論文が掲載される雑誌ごとにランクづけの点数がある。

論文数とランク点を掛けて合算する合計点が算出される。慶応大学では「英語論文は日本語論文の10倍の価値がある」といわれている。英語論文を量産することが教授への近道だ。聴診器の使い方を知らなかったり、レントゲン写真を読めない内科教授の話は珍しくない。ガンの研究能力を買われ「(危険だから)絶対に手術するな、と条件付きで国立大学の外科教授になった人もいる」という。医局トップの教授が論文重視で選ばれるため、医局全体が「マウスを診て人を診ない」風潮に冒される構造だ。



『大学病院ってなんだ』


加藤  |MAIL