加藤のメモ的日記
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中国が「日本の国難」であるといった理由は先にあげた軍事、経済面に限らない。むしろ、一般の国民の心配としてはこちらの問題のほうが深刻かもしれない。中国が援助と引き換えに日本にくれた「三つ目のプレゼント=犯罪者」だ。2000年4月に発表された警察庁の調査では、1999年に摘発された外国人犯罪は34.4398件(前年比8.2%増)89年からの10年間でその数字は実に6倍となっている。
そして摘発者数13.436人のうち約4割の5.352人が中国人。また、2000年12月に東京・葛飾で起きた猟銃強奪事件に代表されるように、強盗・殺人などの凶悪犯罪化が指摘されている。同年末には警視庁がピッキング窃盗対策として「中国人かな、と思ったら110番」「中国語で話しているのを見かけたら110番」と書いたビラを東京都内の各所に配布したほどだ。後に表記に問題があったとして回収されたが。また新宿の歌舞伎町などでは入り口に堂々と「中国人お断り」と掲げている店も少なくない。
もちろんこれは善良な中国人も含めたすべての中国人を悪者扱いしているのであり、間違った方法である。だが、同時にこれほどまでに中国人の犯罪が深刻な社会問題となっていることも事実なのだ。ならば外務省なり警察庁は中国大使館にはっきりと言うべきではないのか。「これほどまでに日本では中国人に対する感情が悪くなっている。これでは全部の中国人が悪者になってしまう。下手をすれば中国人狩りが起きかねない。あなた方はこの現状を本国に伝えてほしい」と。ただ「こんなビラを作って申し訳ない」と謝るだけでは何の解決にもならない。
ある北京の要人が私に言ったことがある。「密航を抑えるのは簡単です。人民日報と中国電視台を通じて”不法出国、密航には厳罰を処す”と警告する。三日間も続ければ十分効果が出ますよ」と。しかし中国政府はそれをしようとはしない。
そもそも、中国政府が密航を半ば公然と認めているような状態問題なのである。2000年6月、英国ドーバー港で中国人グループが冷凍トラックに隠れて密入国しようとし、その結果58人が死亡するという事件が起きた。これは中国の密航組織「蛇頭」の手引きによるものであることが後に判明したが、中国政府はこの事件解明に手を貸すどころか、世界に謝罪することさえしなかった。
かって私が中国で取材した際、私が「もうおたくの国に援助する必要はない」と言ったところ、外交部門の幹部は悪びれずこう言い放った。「では、我が国がどうなってもいいんですね。大量の難民が出ますよ。それは3000万かもしれないし3億かもしれない。それが最初に向かうのはあなたの国ですよ」開き直りとしか言いようがないが、これはあり得ない話ではない。いわば、中国の”リーサル・ウェポン(最終兵器)”は、駆逐艦でも空母でもミサイルでもない。人間そのもの、”人間爆弾”なのである。
…日本には小渕父娘の「議席継承」ひとつとってみても批判できる政治家はいない。何しろ、野党の党首である鳩山由紀夫や小沢一郎自身が代表的二世議員なのだから、それこそジョーク以外の何ものでもない。この体質そのものが、日本の民主主義のレベルの低さを象徴しているといってもいいだろう。もちろんアメリカにもに二世政治家がいないわけではない。現に2000年の大統領選を戦ったアル・ゴアもジョージ・W・ブッシュも二世政治家だ。
だが、日本の二世議員とアメリカの二世政治家には決定的な違いがある。例えばゴアは父親が引退してからすぐに政治家になったわけではなく、ジャーナリストを長くやり、その世界で一流となってから政治の世界に打って出た。彼は現在のアメリカの政治家では有数のディペート能力の持ち主だが、それはジャーンリスト時代に培った財産であり、それを政治家としての武器にしている。
一方のW・ブッシュも父親のブッシュ元大統領の”遺産”を利用している部分はあるものの、ビジネス界で成功し、テキサス州知事を務めたというキャリアを持っている。ところが日本の二世議員の典型的なパターンといえば、大学を出た後、親の”個人秘書”という便利な肩書を経て、議員になるという者ばかり。
一般社会で働いたこともなければ、あったとしても親のコネで入った会社に数年在籍しただけだというパターンがほとんどである。一般社会で誇れるようなキャリアを持っている政治家など、皆無といってもいい。日本の二世議員の多くは、よくこんなことをいう。「自分は小さい時から父親の姿を見てきた。だから、誰よりも政治の仕事をわかっている」と。
たしかにその通りだろう。だが、問題はその「父親」が何をしていたかだ。政治的駆け引き、裏工作、資金集め、金の飛び交う選挙戦…。彼らの言わんとする「政治家の仕事」とはせいぜいこのようなものにすぎない。日本の将来のビジョン、国民の安全保持、外交のあり方などといったものを見てきたわけではない。第一やっていないのだから見ようがない。
政治家の汚い部分ばかり見てきた二世が政治家になれば、汚い二世議員になることは火を見るより明らかだ。ところが、それでも簡単に二世議員は当選する。先に上げた小渕の後援者のように、二世議員を大歓迎している連中までいる。それが続く限り、国民は政治家にバカにされ続けるだけで、政治が変わることはないと断言できる。
『変わろうとしない…』
9条で述べているのは、「善意の無い奴が日本を武力で攻めてきても、日本は戦いません」ということ。つまり、国家は国民の生命と財産を守らないと言っているのだ。これは国家としての責任放棄にほかならない。これに対して、11条と13条では「国民の生存権は尊重します」としている。果たして我が国はどちらを最優先するつもりなのだろうか。
日本国憲法の3本柱は「国民主権、基本的人権の尊重、戦争の放棄」とされているが、そのうちの2つは両立できないのだ。この「二重人格憲法」という現実は、憲法そのものを根底から揺るがしているといえよう。対外的にも国内的にも時代遅れ。そして憲法違反がゴロゴロ―。事実上、この国の憲法は機能停止状態に陥っている。昨今、憲法改正論議がかまびすしいが、もはや改正や修正といった小手先のリフォームでは、憲法が抱える欠陥は修復不能だ。賞味期限切れの食材にどんな調理をしても食べられないのと同様、今の憲法をベースにした改正論議ではもはや今世紀の国際社会に対応することはできない。
憲法改正というといつも「9条」ばかりがクローズアップされるが、前述のとおり憲法の欠陥は9条に限ったものではなく、ありとあらゆる部分で表面化している。一か所ならまだしも、全体がヒビだらけの建物であれば壁を塗り直すのではなく、一度壊して建てなおすほうが効率的である。今、日本人に求められているのは、現在の状況にかなった憲法を日本人自身が作り上げる「創憲」であって、「護憲」や「改憲」といった現行の憲法をベースにした議論ではない。
半世紀以上前にアメリカ人が英語で書いた憲法ではなく、21世紀を生きる日本人が日本語で書いた憲法が必要とされているのだ。もちろん憲法をスクラップにして一から作り直すという作業は非常に難儀なものであることは言うまでもないが、それには何よりもまず、日本人は今の憲法が時代遅れであることをはっきりと認識しなくてはならない。そのために簡単にできることが一つある。
現在憲法について子供たちが最初に学ぶのは中学の「公民」の授業となっているが、現代社会を学ぶ「公民」ではなく、代わりに「古文」と「日本史」の教科書に「憲法」の章を載せることだ。第一、憲法の条文は「現代文」ではない。「学問の自由は、これを保証する」などという文章を国語のテストで書いたら、間違いなく零点だろう。
半世紀前、日本がアメリカの統治下に置かれていた時代の特殊な文章に、翻訳者たちはさぞかし苦労したことだろう。だから、分類としては「古文」になる。古文が苦手な子どもたちが多いと聞くが、きっと退屈な古文の授業が面白くなるはずだ。そして日本国憲法は「日本の歴史にはこういった憲法が必要だった時代もあったことを示す重要な資料」として、大切に保存されるべきだ。
その意味では、私は正真正銘の「護憲派」である。伊東博文らがつくった「大日本帝国憲法」は日本史の授業で必ず学ぶだろうが、その後に並べておくとよい。聖徳太子の「十七条憲法」、藤原不比等らの「大宝律令」などと並べて「日本の法律史」という学び方もいいだろう。いずれにせよ、こういった形で日本国憲法が時代遅れであるという論議が浸透すれば、後生大事に憲法を守れと主張することや、今の憲法をベースにして改憲することがいかにナンセンスであるかがわかるだろう。
日本国憲法あっての日本人なのか、日本人あっての日本国憲法なのか―。我々はこのことをもう一度よく考えるべきだ。そして12歳のメンタリティーで魑魅魍魎の国際社会を渡り歩こうという、甘く、傲慢な考えを猛省すべきだ。過去に与えられた憲法を抱えたまま国家ごと沈んでいくのか、それとも日本人の手で「創憲」された21世紀を生きる日本人のための憲法と共に歩んでいくのか。答えは一つしかないはずだ。
『国が死ぬ』
私は長い間検事として取り調べもしたし、弁護人として弁護も経験したが、逮捕・拘留というような過酷な状況に置かれた場合、人間は弱いものでそれが事実でなくても、事実として認めてしまうことが多い。特に社会的な地位が高かったり、学歴が高かったりすると、あれこれ思い悩んで早くその状況から逃れたいと思うがために、検事に迎合したり、辻褄を合わせてしまうことが多い。ところがそのような状況での供述も一旦調書になると、それがひとり歩きするのである。
取調官は、拘留されても否認している者を何日もの間、取り調べないでおくことがある、立場の弱い被疑者は一人で黙って留置されていることに耐えられなくなる。人に会いたい。検事にあって取り調べてもらって自分の立場を説明したい。呼ばれないのは検事の心証を悪くしたからかもしれない。どうなってもいいから検事に迎合し、寛大な措置をとってもらいたいと思い悩み、中には取調べを申し出る者がいる。
すると検事は被疑者を呼びだして調書を作成する。これを形だけ見ると被疑者が自発的に取調べを申し立てて、自白したということになるため、裁判所では信用性があると判断されるのである。こうして有罪への道が開かれていくのである。ロッキード事件でこのような状況を公判廷でいくら主張しても認められたためしはない。
…こうした田中首相の独自外交がアメリカ側を怒らせたという見方は早くからあった。田原総一郎氏は、早くも1976年7月に「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」において、「ロックフェラー財閥に象徴される東部エスタブリッシュメント対メロン財閥を中心としたガルフ、テキサコ、ロッキードなど西南部の新興勢力の汚い内ゲバであり、新興勢力との黒い癒着で大統領にのし上がったニクソンを血祭りに上げたのが第一幕で、現在その二幕目が展開されているのだという」と書いている「中央公論」
又、1987年には毎日新聞の簾信彦記者(当時)が、「かって、我が国は田中角栄元首相時代、独自の資源ソースの確立を目指した資源外交を着々と展開したところ、これがメジャーズ(国際石油資本)を中心とする米国の資源のカサと衝突した。一部で「日本は米国の虎の尾を踏んだ」といわれ田中元首相がロッキード事件に巻き込まれた遠因ともみられている」と書いている。「毎日新聞」1987年7月2日付」
1996年には中曽根元首相がさらにこう明確に述べている。「田中君は、国産原油、日の丸原油を採るといってメジャーを刺激したんですね。そして、さらに彼はヨーロッパに行った時、イギリスの北海油田からも日本に入れるとか、ソ連のムルマンスクの天然ガスをどうするとか、そういう石油取得外交をやった。それがアメリカの琴線に触れたのではないかと思います。世界を支配している石油メジャーの力は絶大ですからね。後にキッシンジャーは「ロッキード事件は間違いだった」と密かに私にいました」
独自のアジア外交を警戒? ただし、アメリカが嫌ったのは、田中首相の独自のアジア外交だったとの見方もあるようだ。公明党元委員長の矢野純也氏は「私の角栄論」において、田中首相の「一種のアジア中心主義」がアメリカに歓迎されなかったことを次のように示唆している。
「田中氏は将来、日本がアジアでどう位置づけられるべきか、アジアの資源と消費者としての人口を視野に置いた一種のアジア中心主義が意識の底にあったと思う。東南アジア諸国連合(ASEAN)へのアプローチも資源収奪などの批判から必ずしも歓迎されなかったが、この視点から見直す必要がある。そこには雪で象徴される土着性を背景にした日本という、氏なりの座標軸があり、アジア意識があった。必ずしも対米一辺倒ではなく、この面でも異端の政治家だったのであろう。氏がアメリカ初のロッキード事件で政治生命にとどめを刺されたのも、単なる偶然だったのか、という印象すらある。(毎日新聞1993 12/23)
生前渡辺美智雄氏は「71年の頭越しの米中接近、その翌年の日中正常化。日本と米国が相次いで中国と急接近していったことに、米国の保守派が非常な危機感を持った。このままにしておくわけにはいかないと。CIAとFBIが手分けしてFBIがニクソン元大統領を葬り、CIAが角さんを葬った。これは間違いありませんよ。根は中国問題です」(毎日新聞 98 11/23)
『田中角栄の真実』
8月11日、環境相は猛暑やゲリラ豪雨などの異常気象を科学駅に検証するための会議を立ち上げました。大学教授や気象庁関係者を集め、熱中症といった健康被害や世界的な食糧問題への対応を協議します」(環境省関係者)政府が緊急対策に乗り出すのも当然だ。日本の猛暑をはじめ、世界各地で異常気象が起こっている。
例えばロシアでは、シベリアを中心に一日の平均気温が平年より10度も高い状態が続き、森林火災や干ばつで1万5千人を超える死者を出した。プーチン大統領自ら、航空機に乗り燃え盛っている森林の上から消火剤をまいているニュースが流れた。「「モスクワでは、ウオッカを飲んで行水する人が急増し、国内で2000人以上が水死しています。また、穀物地帯では干ばつ被害が深刻で、小麦の先物価格は約2倍に高騰している。政府は禁輸制限をかけています」(ロシア大使関係者)
中国では、甘粛省で大規模な土石流が発生し、1200人近い死者が出た。豪雨による洪水も中国全土で相次ぎ、被災者は2億人と言われている。一方南米には記録的な寒波が襲い、死者は200人以上に上っている。ブラジル・サンパウロ沿岸ではペンギン約530羽の死体が見つかった。餌の小魚が減少して餓死したという。
一体、世界に広がる異常気象の原因は何なのか?気象予報士の森田正光氏はこう解説する。「今年初め、インド洋東部の海水温が高かったせいで、偏西風が例年以上に大きく蛇行したことが原因です。偏西風の北側には寒気、南側には暖気が溜まっている。そのため、東欧で豪雨、ロシアでは干ばつ、インド・中国で豪雨、日本では猛暑と、うねりに合わせて異常気象が起きています」日本の猛暑に関係するといわれる南米ペルー沖の海水温が低下するラニーニャ現象も確認された。「梅雨明け以降、全国各地で35度を上回る猛暑美が続いた。戦後5本の指に入る猛暑になる」(同前)
危険な生物が次々に北上中 東京都監察医務院の発表によれば、7月1日から8月6日までの熱中症による死者は96人。(昨年6〜9月は7人)うち、65歳以上の高齢者が9割を占め、9割以上が室内で死亡していた。熱中症に詳しい国立環境研究所の小野正志氏の話では、「33度を超えると死者の数は指数関数的に増える。死者だけでなく、救急車での搬送者数も今年は多く、2万8千人を超えている」
医学博士の中原英臣氏は高齢者にこう注意を促す。「お年寄りの場合は、クーラーを嫌がる人が多い。せめて「除湿」にして、過ごしやすい環境を作ったほうがいい。又、夜中のトイレを避けるため水を飲まない人も多いようですが、やはり寝る前に一口飲んで、水分補給をするべきです」だが気をつけるべきなのは、熱中症だけではない。実は、亜熱帯化している日本には、我々の生命に直接影響を及ぼす危険な生物が上陸しつつあるのだ。
東京医科歯科大学の藤田教授はこう警笛を鳴らす。「マラリアを媒介するコガタハマダラ蚊は台湾から沖縄を通過して、もう九州で確認されています。デング熱などの感染症を媒介するヒトスジシマ蚊は、秋田、岩手まで北上している。より効果的にデング熱を伝搬するネッタイシマ蚊もすでに九州まで来ているはず。02年に全米で300人に近い死者を出した西ナイル、ウィルスはアカイエ蚊が媒介した。日本でもいつ感染症が大流行してもおかしくないのです。
実際、アカイエ蚊が進化したチカイエ蚊は都心のビル街で活動し、地下鉄の溝などで産卵しています。本来は熱帯や亜熱帯の地域でしか見られないはずの害虫はまだまだいる。「もとは東南アジアのジャングルが原産のクマネズミには、保健所も手を焼いている。繁華街や飲食店はもちろんですが、自宅でも食べ物をかじっていることがある。殺鼠剤が全く効かない”ツワモノ”も増えています。(保健所職員)アフリカ原産のワモンゴキブリも、以前は沖縄にしかいなかったが、ここ数年、首都圏でも大暴れするようになった。
『週刊文春』
この記事は現象だけを取り上げて地球の異変がなぜ起きているか、という本質的なことが書かれていない。このところずっと快晴続きで雨が降らない。これでは気温はどんどん上がる。昨日は大分、広島は38度である。
地球の気温はまだ謎が多く原因はよくわかっていないらしい。ただ太陽黒点運動と関係しているのではないという説もある。太陽の黒点運動が激しくなると、電磁波(宇宙線)を撒き散らす。黒点運動が収まると宇宙線が地球に降り注ぎ、その宇宙線を中心にして水の分子がくっつき、雲ができ雨が降る。雨が多いと気温は上がらない。しかし黒点運動が激しくなると雲もができにくくなり晴れた日が多くなって、地球の温度は上がる。地球の温度は宇宙全体の環境が問題であるということだ。
私は常々、ガン手術の上手と下手とガンが治るかどうかは、あまり関係がないと言っていますが、「できれば上手な外科医に手術してもらいたい」と思うのが患者さんの心理です。実は手術の腕が影響するのは、手術の安全性なのです。もっとわかりやすく言えば、腕のいい外科医に手術してもらうほど、手術中や術後の合併症(手術がきっかけで起こる余病、肺炎など)が減り、命の危険性が減るということです。
しかし、昔とは違い、今の医療レベルでは医療機器や術後管理の発達のおかげで、下手な外科医が標準的なガン手術をやっても、手術が直接の原因で患者さんが命を落としてしまう確率は数%以下に低下しています。では手術の上手な外科医がやれば、それがゼロになるかといえば、さにあらず。腕の差で下がる危険性は1%あるかどうかでしょう。もともと低い確率ですから、上手、下手のありがたさも感じにくい、それが現状です。
ところが心臓の手術では、ガン手術とは違い、手術の上手い下手が命に直結しますから、よくよく術者を選んだほうがよいといえるでしょう。では確実に腕の良い外科医に手術してもらうためには、どうしたらよいのでしょうか。それがまた難しいのです。仮に、腕の良い医者にめぐりあえても、実際その医者が執刀するとは限りません。
患者さんは全身麻酔で意識がありませんから、自分では確認しようがありませんし、誰が手術したかわかるのは手術の後ですから、それでは意味がありません。今の健康保険の料金システムでは、卒業したばかりの新米医者が手術しても、キャリアを十分積んだ外科医が手術しても、値段は同じになっています。人の命に関わることなので、手術の難易度に見合った技術や、経験を持った外科医が執刀することにはなると思いますが、研究や教育もしなければならない大学病院やその関連病院では、若い経験の浅い外科医が執刀する機会が、どうしても多くなることは否めません。
ところが、このような患者さんの心理を逆手に取ったような行為が、堂々と行われているから問題です。亡大学病院では、教授に手術してもらうためには、裏金を渡すようにと、担当医が患者さんに直接指示しているというのです。金額や具体的な渡し方まで指示しているというのですから驚きです。「教授が廊下を歩いてくるときに、Ο十万円渡してください。なるべく目立たない、包装紙のようなものに包んで廊下ですれ違う際に、ポケットの中にそっと入れてください」と、こんな具合です。
この大学病院で手術を受ける患者さんの間では、「医者がポケットの大きい白衣を、ボタンをかけないで、着ている理由がよくわかった」とまことしやかに言われているそうです。以前、某大学病院の教授の家に、泥棒が入ったときのことです。被害届の中に、商品券数百万円と、あったそうです。商品券を数百万円も置いている家が、そこの世界にあるのでしょうか。まさか自分で商品券を買ったとはだれも思わないでしょう。
キャンサーフリートピアでよくされる質問の一つが、この謝礼の問題です。少しでも待遇が良くなるようにという患者さんの気持ちもわかりますが、こういう習慣はなくなるべきだと思います。私はもちろん、ほとんどの医者は、礼金で同行するという意識はなく、それが医者というものなのです。
『ドクターハラスメント』
2010年08月18日(水) |
手形決済でラクラク資金回収 |
システム金融はべらぼうに高い金利であるにもかかわらず、その回収率が高いのは、返済方法に手形や小切手などの有価証券を債務者に振り出せているからだ。例えば50万円借りたら、債務者は25万円の額面を記入した手形か小切手を3枚に分けてシステム金融業者に郵便書留で送る。期日はだいたい1週間から10日に一度で、25万円ずつ引き落とされていく。このやり方は商工ローンなどでも同じだが、実はこれが債務者をとことん奈落の底に突き落としていく大きな要因となっている。
これが従来のようなヤミ金融なら、現金融資・現金返済なので万が一返済日に金が都合ができなければ「少し待ってもらえないだろうか」という相談の余地はあった。もちろん「ふざけるんやないで」「きっちり耳揃えて返してもらおうか」と、怖いお兄さんに脅かされることは覚悟の上である。それでも中には「あと1日だけ待ちましょ」「社長さん、また金利がかさみまっせ」と言いながらも待ってくれる業者もいる。なんだかんだと言いながらも返済の「待った」がきいたのである。
ところが、手形や小切手だと「待った」なしとなる。もし手形の決済日に銀行の当座預金に入金していなければ、その事業主は不渡りを出してしまうことになるからだ。つまり倒産である。苦労して築き上げた会社がヤミ金融にまで金を借りて持ちこたえさせてきた会社が倒産の危機に追い込まれれば、債務者である事業主は何としても金を返そうとそれは死に物狂いで金の工面に走り回る。
つまり、システム金融業者は取り立てなどしなくても、銀行任せでらくらく資金回収できるというわけだ。まさに不渡りを出したくない、会社を倒産させたくないという事業主の心理につけ込んだ極めて巧妙な手口である。これが借金返済に走り回る事業主がシステム金融のグループ内で次々と回されて多重債務に陥る原因なのだ。
このシステム金融のグループに一度引っかかれば、長くて半年、ほとんどが3カ月で会社はつぶれてしまう。システム金融の場合、潰れてしまうことを見越して融資しているわけだから、3カ月の間に、元金プラス金利の回収をしてしまう仕組みになっている。
ある街金業者はその恐ろしさを、「システム金融を借りたら確実に倒産する」と証言している。システム金融に手を出した時点で、すでにその事業主の破綻は目に見えている。それでなくても苦しい経営状態の中で、1カ月で50%や100%もの金利がつく金に手を出してまともな経営ができるはずがないからだ。それなら負債額が少ないうちに事業に見切りをつけたほうが傷は浅くて済む。
ところが経営者たちは「何とかなる」「何とかしなければ」という思いからヤミ金融に手を出し、挙げ句の果てには負債をさらに膨らませ、傷口を深くして自滅してしまう。ヤミ金融であるにもかかわらず、返済方法に手形・小切手を使って資金回収率を上げる。これがシステム金融が恐ろしとされている要因の一つなのだ。
システム金融の巧妙な手口の一つに高金利をごまかすカモフラージュがある。万一摘発された時のために高金利の分を金利扱いしないような逃げ道を作っているのだ。その一つが商品売買契約である。まず、50万円の融資額に対して25万円の額面の小切手を3枚振り出す。すると返済合計が75万円となり、明らかに違法な高金利となってしまう。
そこで値打ちのない商品を高値で債務者に買わせて、金利分を商品売買契約にすり替えて高金利をカムフラージュするのだ。送りつけてくる商品は羽根布団、高級万年筆、テーブル、掛け軸、バッグとさまざまだが、一見高級そうな商品ばかりなので値段も高いように思うだろう。ところが実際は倒産した会社や工場から引きあげてきたものなど、元は二束三文で手に入れたものに違いないのだ。これらはすべてシステム金融業者が警察に摘発された時に、違法な高金利をゴマ化す巧妙な手口なのである。
ヤミ金融というと、その背後に怖い暴力団なんかがくっついているのじゃないかと思っている人が多いようだ。だからこそ、怖くて業者のいいなりになったり、本来は返さなくてもいい違法な高金利をせっせと返しているのだと思う。
確かにヤミ金融の中には、広域指定暴力団の企業舎弟となっているところもある。まだ、そこまでいかなくても暴力団の一組員が内職的にやっているというケースも少なくない。取材中、あるヤミ金融業者が紹介してくれた暴力団幹部は「ヤミ金融は暴対法以降、しのぎが減った暴力団の貴重な資金源になっている」と電話で話していた。
一方、貸金業規正法のおかげで、以前のように夜襲をしたり深夜まで電話をかけるといった厳しい取り立てはできなくなった。しかし、法律で定められた範囲内なら今でも借金の取り立てはやっている。そんな時、やはり甘い顔をすると金を回収できないので、つい強面系になってしまうというのは取り立て屋の性というものである。
我々だって友人が貸した金を返さなかったら、つい顔がこわばって眉の一つも吊り上がろうというものだ。それがプロ化したものが、取り立て屋なのだから怖い顔も半端じゃない。しかしだからといって、闇金融の全てが暴力団とつながっているかというとこれは間違いだ。ヤミの世界の者同士ヤミの付き合いはあるにせよ、意外に一匹狼でやっている業者もいる。また暴力団と関係ないというクリーンなイメージを売り物にしているヤミ金業者もいる。
ヤミ金融資金は一体どこからきているのだろうか。例えば、正規のノンバンクやリースの会社の場合は、その資金源は主に銀行からの借り入れで賄っている。要するに銀行から借りた金にさらに高い利子をつけて金を貸し、その利息の差額が儲けとなる仕組みだ。これが上場しているノンバンクともなると、銀行からの借り入れに加えて投資家達の資金も集まってくる。未上場のノンバンクと違うのは、儲かれば配当をするが、赤字だと配当はない。しかも投資なので銀行のように全額返済を迫られることもない。
一方、ヤミ金業者は世間の表に出ないヤミの業者なので、当然銀行からの借り入れなんて100%不可能な話だ。ではその資金源はどこかというと、これが「金主」と呼ばれる人物たち。まあ、一種の投資家のようなものだと考えていただこう。「金主」は、だいたいちょっとした財産家や事業家などで、余った金を運用目的でヤミ金融に投資しているケースが多い。企業舎弟のヤミ金なら、暴力団のヤミのカネが使われていることもある。
いずれにせよ余ったヤミのカネをヤミの金融で増やすのだから、決して表には出せない金であることは間違いない。この時点で、すでにヤミ金融の金は汚れているのである。そんなヤミの金を借りているのだから、その金がきれいに流れるはずはない。仕方なくとはいえ、債務者はヤミ金融から金を借りる以上、その金の性質を認識しておく必要がある。
『笑うヤミ金融』
今年、貸銀業法の改正で借入総額が年収の3分の1を超える場合、新たな借り入れができなくなった。これでヤミ金融業者は笑いが止まらないだろう。サラ金から借りられなくなった人たちは、ヤミ金融に走るしかない。夜逃げ、倒産、自殺が増えるだろう。世間知らずの役人たちは、こんな法律を作ればどうなるか想像できなかったようだ。何もしないでいてくれたほうがよっぽどましだったのだ。
2010年08月14日(土) |
GHQを支配したユダヤ人 |
戦後のGHQを支配したユダヤ人たち 第二次世界大戦の日本の敗戦によって、日本は国際ユダヤ資本の戦略における完全な一つの駒として動かされる運命となった。当然のことながら、GHQ(占領軍総司令部)の高級職員たちのほとんどがユダヤ系アメリカ人によって占められていた。ナチス・ドイツと手を組んだ間接的ユダヤ人虐殺者である日本の、戦後レールを間違いなく敷くためには、彼らが派遣される必要があった。
ユダヤ人であるルーズベルト大統領の知的アドバイザーとして、フランクフルターとブランダイスという最高判事がいたことは有名だが、この二人の判事に育てられた弟子にケーディスというユダヤ人がおり、GHQの職員となっていた。日本国憲法の実質的草案者がこのケーディスだった。「自由」と「権利」を声高らかにうたい上げる理想主義の権化ともいうべき日本国憲法の精神は、実に中世・近世を通じて常に迫害の魔手に痛められ続けてきた、ユダヤ民族の悲願から発した叫びであったのである。
また、ルーズベルト大統領を助けた農務長官顧問に、モルディガイ・エゼキエルというユダヤ人がいた。エゼキエルの弟子にポーランド生まれのユダヤ人、ラジンスキーがいた。ラジンスキーは昭和21年1月から、GHQの天然資源局の顧問として活躍し、同年の春までに日本の農地改革の青写真を全て作成している。さらに、財閥解体、婦人参政権の確立、教育改革、労働組合の結成など、重要問題の推進役は全てユダヤ系アメリカ人であった。
ちなみに東京裁判の時、日本軍国主義の最大の実力者とされた東条英機に対した首席検事ジョセフ・キーナンもやはりユダヤ人であった。ユダヤ人の手によって、日本は再び新たな開国へのレールを敷かれていったのだった。
日本は間接的ユダヤ人虐殺者である 第二次世界大戦中に日本のしでかした最大失態事は、ユダヤ民族虐殺に関して間接的に手を貸してしまったという点だろう。これが戦後の日本の歩みを方向づけたのである。1937年11月6日締結の「日独伊防共協定」、さらに1942年1月18日の「日独伊軍事同盟」締結によって、日本はドイツと手を組み運命共同体となることを宣言した。いわば日本はドイツととともに、国際ユダヤ勢力を敵に回して戦争を遂行していったということになる。日本人の多くはこのことを今日でも忘れがちである。
そのドイツは、アウシュビッツをはじめ強制収容所において、約600万人にも及ぶユダヤ人たちを大虐殺した。そのことが、ユダヤ勢力にとり直接的ユダヤ民族虐殺であるならば同盟国日本は、間接的虐殺者という烙印を押されてしかるべきとなるだろう。日本人には、自分がやったことをすぐ水に流してしまうばかりか、儒教的な精神によって他民族も許してくれるだろうという甘えがいつもある。
しかし「旧約聖書」そのものの中に生きるユダヤ民族は、もちろん儒教的な考えによって歴史をとらえてはいない。「目には目を、歯には歯を」自分たちが多民族からやられたにふさわしいことを、その民族に必ずやり返す。それが彼らの善なのである。そして彼らこそがドイツと日本の戦後のレールを敷いたのである。
ドイツは東西二国に分けられた。一方は自由圏に、片方は共産圏に。国土が分割されるだけでも大変な悲劇であるのに、それに加えて血縁同士、家族同士の分断も行なわれたイデオロギーのことなる二つの国に分散されたならば、かりに数年後に縁者が顔を合わせて見たところで心は一つにはならないのが現実である。もし日本が突然関東あたりで二つに分散されたとするならば、そしてそれが約40年間も続いたと思えばわかりやすいだろう。
陸上に国境線が引かれ、同じ民族が異なるイデオロギー武装で睨みあう……まさに恐怖だ。戦後ドイツは完全に分けられた。人間の体でいえば胴体が真二つに分けられたのと同じことだ。これによってドイツは死んだ身体のような状態にとどめおかれたといえる。かっての民族の誇り、他の追随を許さなかったゲルマン文明の隆盛の姿を、今ではもはや望むべくもない。
日本報復にユダヤ人が打った二つの手 では、この間接的ユダヤ人虐殺者日本に対して、国際ユダヤ勢力は具体的にはどのようなものをもって報いたのだろうか。まず第一に、日本民族が再び一つにまとまることがないように、二つの手を打った。その一つは強力な野党、特に日本共産党を育てたことである。たしかに戦前から日本共産党はあった。そして当時の指導者、徳田球一や志賀義雄らは、燃えたぎる理想主義からマルクス・レーニン主義の実現を図ろうとする、それこそ岩のように強固な心を持った人たちだった。
しかし、戦後の昭和24年ごろの変革期に新編成されていく日本共産党のスタッフは、およそそうしたタイプではない人たちで構成されていたことに、誰でも気がつくだろう。国会などの政治活動の場で、常に反対を唱え続けることに集中する日本共産党があれば、日本の政治的意思が統一されることはない。政府の政策に対して、極端な反対意見を言い続ける勢力が必要だ。それには政権をとることが目的ではなく、日本の国を常に両極に分解してしまう一方の中心としての役割を担わせなければならない……。
もうひとつが、日本教職員組合をつくったことだった。もちろん同様の目的で、である。徹底して政府の教育政策に反対し、日本の教育界を真二つに割ってしまうことのできる勢力が彼らには必要だった。日本の教育が一本にまとまったとき、その力の凄さは戦前にいやというほどに見せつけられた。日教組の存在は、日本の教育方針を分断・混乱させ、学校をかっての「聖なる場」から「「闘争の修羅場」へと変質させる。子供たちはそうした「教育の現場」を見て育ち、教師への信頼を失っていく―。
今日、臨教審において、「教育改革」が熱心に討議されている。しかし臨教審がいくら時間をかけても、「名案」を出すという保証はどこにもない。なぜならば、今日の「教育荒廃」の原因は、六三制などの制度、困難な入試問題・受験競争、教育内容にもあるが、その最たるものは「日教組」とその傘下の教師自身にあり、これをどうするかというところに明暗の可能性があるはずである。
しかし臨教審は、この肝心な問題に目を向けるどころか逆に聖域視し、避けて通って行こうとしていることが明らかである。このままでは、いかなる改革があっても、次代の日本の教育は絶望的だというしかないのではないだろうか。
米中国交の隠された狙いは何か。 1979年、米中国交が回復した。戦後30年余の長きにわたって台湾政府をあと押ししてきたアメリカはようやく、共産主義中国と手を握ったのである。ここで大事な点は、米中国交回復は「国交」という形はとっていてもその内容は、ユダヤ民族と中国共産党・中国民族との和解であるという認識である。 国ではなく民族があくまで問題なのだ。そして1972年9月の日中国交回復は中国・ユダヤ和解の露払い役にすぎないことに留意すべきである。
両民族の和解という観点に立てば、72年ニクソンの歴史的中国訪問の翌年にロックフェラーが訪中していることの意味や、1997年に行なわれる香港返還についてもわかってくる。つまり香港返還はイギリスという国が中国から手を引くことだが、国際金融市場香港を実施土支配しているユダヤ勢力にとっては何らの変更もないこと、いやむしろ、香港における行動の自由を拡大するためのユダヤ・中国の共同作戦が香港返還だ、という図式が見えてくるだろう。
米中日三極関係において日本はあくまで脇役にすぎないということは、教科書問題、中曽根首相の靖国参拝に対する中国の執拗な非難に示されている。ユダヤと中国はナチス・日本による民族受難の共通体験を持ち、そうした背景に立って、今後とも、事あるごとに、米中は共同歩調をとって対日牽制策に出てくるだろう。
フランス革命においてヨーロッパのユダヤ人を、ロシア革命でソ連のユダヤ人を(これは後に裏切られた)、第二次世界大戦でヨーロッパのユダヤ人を解放したユダヤ勢力は、今や唯一の閉ざされた門戸中国を解き放ち、200〜300年後には、アメリカを捨てその本拠地を中国に移すべき長期戦略を練っているとも思えるのである。近代史における中国・ユダヤの密接な関連、そしてともに歴史の悠久性を信じる両民族を考えるとき、日本的近視眼はその本質をとらえきれてないことをおそれる。
『ユダヤが解ると世界が見えてくる』
ロシア帝国のこれまでのいかなる犯罪も巧みなものいわぬ陰になくれて行なわれた。50万人のリトアニア人の強制移住、何十万というポーランド人の殺害、クリミア・タタール人の絶滅、これらすべてのことが写真という記録なしで記憶の中に残った。ということは何か実証不可能なものだから、遅かれ早かれでっちあげといわれる運命にある。それに反して1968年のチェコスロバキアの侵攻は全部が写真と映画に撮られ、全世界の記録保管所に保管されている。
チェコの写真家やカメラマンは彼らだけができる唯一のこと、すなわち遠い将来のために暴力の画像を失うまいとすることを意識した。テレザは丸7日というもの通りにいてロシアの兵隊と将校が評判を落とすようなあらゆる状況での姿を写真に収めた。ロシア人たちはどうしたらよいのかわからなかった。
誰かが彼らに向けて銃を撃ったり、石を投げたりしたらどのようにするかについては、正確に指示されていたが、誰かが彼らにカメラのレンズを向けたとき、何をしたらいいのかは何らの命令も与えられていなかった。
テレザはたくさんの写真を撮った。。そのうちの半分ほどは外国のジャーナリストにまだ現像されていないネガのまま無料で渡した。(国境はまだ開かれており、記者たちは国外からたとえ短い期間でもやってきて、そしてどんな記録であっても感謝した)そのうちの多くのものがさまざまな外国の新聞に掲載された、そこには戦車や威嚇のこぶしや破壊された家、血まみれの赤青白のチェコ国旗で覆われた死体があった。
フルスピードで戦車のまわりを走りまわり長い竿につけられた国旗を振りまわすバイクに乗った青年たち、それに可哀想なロシアの兵隊たちの感情を刺激する信じがたいほど短いスカートをはいていた若い女たちがいて、彼らの前で誰かれとなくあたりを通る人とキスをしていた。私がかっていったように、ロシアの侵入は単に悲劇であったばかりでなく、不思議な(そして、決して誰にももう説明できないような)幸福感に満ちた憎悪の祭典でもあった。
訳者あとがき
『存在の耐えられない軽さ』(1984年刊)の著者ミラン・クンデラは、1929年チェコスロバキアの中心都市ブルノ生まれの作家で、1960年代の後半、当時のチェコスロバキアで起こった、共産党による民主化と自由化の運動「プラハの春」を文化面から積極的に支えた一人である。この運動は、1968年の8月、ソビエト軍を中心とするワルシャワ条約機構軍によるチェコスロバキアの占領によって終わり、その後ソ連共産党のブレジネフ書記長の傀儡フサーク大統領による、いわゆる「正常化」の時代が訪れることになる。この「正常化」の時代に数々の圧迫を受けたクンデラは1975年に結局出国を余儀なくされ、1979年にチェコスロバキア国籍のはく奪、81年フランスの市民権を得て、現在はパリを中心に広くヨーロッパで活躍している。
『存在の耐えられない軽さ』
…そんな冬のある日、裕福なその男性は、ヒーターをつけっぱなしにして車庫に止めてあった車の中で彼女と睦み合った。烈しい愛の行為の末に満潮のように訪れた眠りは甘く深いものなのだろうか。死の匂いさえ感じられないほど。男は安らかに車の排気ガスを吸い続けていたのだ。
翌朝発見された時は、男性はすでにこと切れており、一方、義仁妃の強靭な生命力はまだこの世の空気を弱いながらも吸いこんでいたという。義仁妃もそのとき、男と一緒に命の綱を切り離してしまった方が幸福ではなかったろうか。いや、そうあるべきだったのだ。しかし彼女は生き残り、とどのつまり数千名の人々の前で、残酷の死を迎えることになったのだ。
義仁妃はテントの下で杭につながれ、銃を持った6人の兵士が定められた位置に一列に並んでいた。公開処刑で義仁妃を銃殺しようというのだ。一番前の列には有名な演出家である義仁妃の夫と映画大学に通う彼女の娘が座っていて。私はとても目をあけられていられれなかった。夫の今の心情は…。また私と同じぐらいの年にしか見えない娘の心情はどんなだろう…。
そして本人、義仁妃は一体どんな思いで立っているのか。目隠しをされているのがせめてもの救いだった。自分の死を見つめる数千の目、そして死のような静寂…。「背信者め!」指揮官らしき男が義仁妃に向かって、まるで烙印を押すかのように怒鳴ると、6人の兵士は一斉に銃を発射した。私はその瞬間をしっかりと見てしまった。目を閉じたかったが、まぶたが動かなかったのだ動かなかったのはまぶただけではなかった。山を揺るがすような銃声に心臓まで瞬間的に止まってしまったかのようだった。
6発の銃弾を浴びながらも義仁妃はすぐには倒れなかった。血しぶきが白いテントに跳ねて、鮮烈な絵を描いたが、まだ彼女は地に倒れなかった、すると、執行責任者が義仁妃に近寄り、頭に拳銃を押し当て、また3発発射した。ダン、ダン、ダン……。ついに義仁妃は地面に崩れ落ちた。
その後私はどのようにして劇団に戻ってきたのか分からないほどだった。戻る途中、車内には処刑の衝撃が残した静寂だけが陰鬱に流れていた。しかし私たちはすぐに公演をしなければならなかった。気が動転してどういう公演をしたのかまるで覚えていない私は公演の途中、恐怖のあまり泣き出したくなってしまった。
公演作品は社会主義革命の優越性を賛美する「ピパダ」(血の海)であった。いくら忘れようとしても義仁妃の顔が思い浮かんで仕方なかった。処刑場面を目撃したあと、私は何日も食事がのどを通らなかった。彼女の体から噴き出した鮮血が白いテントに飛び散る場面が頭に浮かんで離れなかったからだ。
『私は金正日の「踊り子」だった』
セナ 千人の人間が私を見たら、千人のセナ像ができる。これは当然のことだと思う。問題は今あなたが尋ねたように私自身が自分をどう思っているかだ。私は成功を勝ち得たと思う。それは単に金があるとか、スーパースターであるとかという言う意味ではない。真の成功とは決して偶然とか単なる運から生まれるものではないというのが私の考えだ。 もちろん一夜にして博打で億万長者になったたり、運よく一日にしてロック歌手として人気を博する者もいる。しかしそんな者は私に言わせればごく薄っぺらなものだ。本当の成功には常に心の平和、魂の安らぎがある。ベストを尽くしたという納得感、自分自身のパフォーマンスに対する誇り、そして自分の選んだ職業で頂点に立っているという自負心。これらの要素が一つでも欠けても本当の成功者とはいえない。
落合 しかし、あなたはごく恵まれた人生を送って来た。環境も抜群に良かったし、両親のバックアップもあった。
セナ その通り。たしかに私は子供のころから恵まれていた。4歳の時、カートを父にプレゼントしてもらい、学業さえ怠らなければ乗って良いという許可を得た。その頃はまだレーサーになろうなどという気持ちはなかった。しばらくカートに乗っているうちに、私は肉体的にタフでなければ自分の欲しているようなドライビングはできないと悟った。そこで肉体を強健にするための努力をした。同時に肉体の強さだけではどうにもならないことも悟った。 強い肉体に不可欠なのは強靭な精神力だ。この二つのコンビネーションがうまくかみ合わさえすれば、どんなことにも打ち勝てる。これはどんな仕事についている人にも当てはまる真実だと思う。
落合 しかし、皆があなたのようにすばらしい家庭環境とチャンスに恵まれているわけではない。チャンスを全く与えられないものも多いではないか。
セナ それは違う。皆平等にチャンスは与えられている。この世に生を受けたということ、それ自体が最大のチャンスではないか。すべてこの世に生れてきた者は、神からそれなりの能力と肉体的力、そして生きる目的を与えられている。神はこの上なく公平なものだ。どのような人間にも才能を与えてくれる。それはレーサーとかビジネスマンとかいう狭い意味のものではなく、人間として真っすぐに生きていく才能、人間として恥ずかしくなく生きていくための才能だ。それに我々が気づくか否かが問題なのだが……。
アイルトン・セナ 1994年 5月1日 レース中に事故死 34才 ブラジル
『そしてわが祖国』
選挙戦も中盤にさしかかったある日、私は二度目の帰京をした。一晩だけというあわただしい帰京だったのだが、主目的は外国人記者クラブで行われる単独記者会見への出席だった。後で知ったことだが、外国人記者クラブとしては亀井氏と私を直接対決させたかったようだ。結局は、それぞれ単独での会見となったのだが……。
会見は、彼らの質問に答える形で進んだ。私のリップサービスも手伝って、「日本には大統領制が必要だと思う」という趣旨の発言をしたのを覚えている。ま、別に首相公選制でもよいと思うのだが、4年なり、2期8年なりの任期の間は解任される心配がなく、自分のマニュフェストを実行できる強大な権限を持つリーダーがいたほうが日本のためには良いのではないか、ということを言いたかったのだ。
天皇が日本の歴史の上で重要な役割を果たしてきたこと、その伝統を否定するつもりはない。ただ、未だに皇族に敬語を使うことが原則化しているマスコミの報道姿勢にはちょっと違和感を覚えるし、憲法の第一章が天皇から始まることに違和感があるのも事実だ。だけど、別に今のままの憲法でもかまわない、自衛隊があるのに憲法9条があるのと同じことだ。違和感があろうが、それで世の中が落ち着くのであれば、とくに騒ぎいてることはない思う。ただし、それと政治体制の話は別だ。天皇が憲法の第一章にあろうが、大統領制的な仕組みは必要だと思う。
共和制や立憲君主制よりも王制時代のほうがよい政治がなされた、という意見を最近耳にする。選挙で議員を選び、その議員が立法に関わる政治体制は時に衆愚政治に陥りやすい。もちろん王政であっても、とんでもない人物が王になって悪政が行なわれることもあるだろう。ただ、それはかなり可能性が低いのだという。なぜなら、大抵、王様候補は帝王学を幼少時代からきっちりと学ばされ、優れた側近に守られて育つから、良い政治を行なうものであると考えられているのだ。
私は、共和制における大統領制は衆愚政治を防止するばかりか、世襲による弊害も防止できうる優れた仕組みだと思っている。大統領がダメな人なら4年で代えられる。逆に言えば、4年は代えられないわけだから、優秀な人が就任すれば、世間におもねる必要もなく自分の政策実行に集中できる。最長で2期8年しかその座にはいられないことはわかっているから、就任期間中に最大の効果を上げようと努力もするだろう。まあ、ロシアのプーチンのよなうな首相を退任したあと院政を敷くという例外あはるけど…。
とにもかくにも天皇が首長になるなんてことはありえないわけだから、首相公選制のような仕組みを導入すべきではないだろうか。各都道府県知事はそのような仕組みになっているのに、国の仕組みだけがそうなっていないのは整合性がとれていないのではないか。そのような仕組みだからこそ、首相は圧力団体やそれらにぶら下がる族議員の動向、そして世論を気にすることになり、重要な政策を実行していけなくなっているのではないか。
『ホリエモン徹底抗戦』
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