加藤のメモ的日記
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政治家がマスコミに登場することは多い。国民の生活に大きな影響を与える立場にいるので、その一挙手一投足が注目されているからだ。登場するのは、テレビ、ラジオへの出演から新聞・雑誌のインタビューなどさまざまである。とはいえ、登場する回数は人によってまちまちだ、総理が多いのはいうまでもない。
総理の場合、とにかく新聞の政治記者や政治レポーターからはいつも追いかけれることになる。そしてそれ次ぐぐのが閣僚クラスだ。ただしこれも大臣の種類やその議員の人気度によって頻度が変わってくる。大臣の中でも重要とされているのが、外務、経済産業、財務などのポストだ。これらに就くとかなりマスコミへの露出度は増えるし、逆にあまり注目されないポストもある。
またその政治家の人気によっても露出度は変わってくる。特に、すでに名前が売れている人間を外部から招聘した場合は、話題性も高く注目度も上がる。閣僚以外の議員も、それなりの頻度でマスコミに登場することになる。新聞やテレビの政治欄で登場する以外には、テレビの討論番組や報道番組にゲストとして出演したり、あるいは新聞や雑誌のインタビューを受けたりするケースが多い。こういった場合、何らかの時事的な話題を持っている議員は出演頻度が高くなる。
T議員の場合、ある年に彼の親しい議員であるYが閣僚になって世間の注目を浴びることになった。しかもTは無派閥ということで、派閥の論理に関係なく意見を述べることができた。また政局に関する説明も非常にうまかった。なのでTは自動的にテレビ出演依頼などが増えることになり、その年には100回を軽く超えるテレビ出演をこなした。
実は政治家のテレビ出演料は大して高くない。タレントの場合はその道のプロであって視聴率を稼ぐために契約する。だから中堅タレントでも1回数十万円から、人気タレントだと100万円以上になることが普通だ。それに比べて政治家は1回数万円程度の出演料しかもらえない。参考までにだが、2001年にメジャーリーグでMVPを取ったときのイチローは、1時間の番組でNHKから8.000万円の出演料をもらったといわれている。
それでも政治家はテレビや他のマスコミに出ることを歓迎する場合が多い。それは自分自身の宣伝行為になるからだ、だから1回数万円程度の出演料でも喜んで出ることが多い。T議員の場合は、テレビ出演の他に講演料や出版した本の印税などでも平均的な議員よりは稼いでいた。たいていの議員は当選して政治家になれば少しは講演依頼や本の執筆依頼などが来るものだ。だが、Tはその点でかなりの仕事をもらっていた。そしてその年には、テレビ出演料、講演料、本の印税などを合わせた副収入の合計は、1.000万円以上になったとされいる。
ところで、その同じ年に当時の総理はどのくらい稼いでいたのだろうか。実は総理ともなると、ゆっくり講演したり本を書いている暇はない。テレビぐらいは出るかもしれないが、一回数万円のギャラで出る価値はあまりない。総理ならほっといてもマスコミは寄って来るので、自分の宣伝のため討論番組などに出演をする必要はないからだ。
このような事情から、この年の総理のテレビ出演料や講演料などを合わせた副収入はわずか50万円程度だったと言われている。これはT議員の10分の1にも満たない額になる。ちなみにこの総理、総理になったのはこの年なのだが、前年の総理になる前は350万円程度の副収入があったといわれている
『政治家の仕組み』
2009年11月29日(日) |
学校の成績では計れない天賦の才能 |
アメリカ合衆国総司令官ユリシーズ・グラントは、自分の母親からさえ「役立たずのグラント」と呼ばれていた。それほど間抜けで不器用な少年であったのだ。また、リー将軍が片腕として一番信頼していた副官のストンウォール・ジャクソンは、若い頃はもっぱらノロマで通っていた。ウェストポイント陸軍士官学校に入学しても頭の回転は相変わらず遅かったが、その分人並み以上に粘り強く勉学に励んだ。
宿題を出されると、中途半端で妥協せず完全にマスターするまで取り組んだ、また、知ったかぶりをするような真似もしなかった。ある友人は、当時のジャクソンについて次のように述べている。「その日の暗記問題について教官から質問されると、彼はいつも”その問題にはまだ手をつけていません。昨日と一昨日の課題をマスターするのに一生懸命だったものですから”と答えていましたよ」
こうしてジャクソンは、70名のクラスを17位で卒業した。入学時の成績はおそらく最下位のはずだから、53名の生徒を追い越したわけだ。「学校が4年生でなく8年生だったら、彼は文句なく首席で卒業しただろう」と同期の生徒は口をそろえて語っている。
慈善事業家のハワードも劣等生の典型で、学校にいた7年の間、勉強らしい勉強は何一つしなかった。発明家スチーブンソンが若い頃優れていた点といえば、砲丸投げとレスリング、それに熱心に工作に打ち込んでいたことくらいである。著名な科学者ハンフリー・ディビーにしても、他の少年に比べてさほど賢かったわけではない。「私が担任だった当時、能力の面ではそんなに秀でているとは思えなかった」とは恩師カーデューの回想だが、ディビー自身も後年「学校で怠け放題に遊んだのがかえって自分には幸いした」とまで述べている。
発明家ワットについては、早熟だったという話がまことしやかに伝えられているが、実は彼の学業のほうはパッとしなかった。だが彼は忍耐という優れた長所を持っていた、この粘り強さと、徐々に芽生えた発明の才のおかげで、ついに彼は蒸気機関を完成させるに至ったのである。
「ある少年と他の少年との差は、才能よりもむしろ活動力の優劣によって決まる」とアーノルドは指摘したが、これは大人にも当てはまる。粘り強さや活力は最初は他人から与えられたとしても、次第に本人の習慣として身についていく。
コツコツ努力する劣等性は、必ずや飽きっぽい優等生を追い抜くだろう。遅くとも着実に進む者が、競争では最後に勝つのだ。学校での順位と実人生での順位が完全に入れかわる例は多い。学生時代には実に頭の切れた学生が、後には平凡な人生に埋もれてしまう。その一方で、何一つ期待すらされなかった劣等生が、着実に努力したおかげでやがては人の上に立つようになる。不思議な現象だが、その理由を解くカギは当人の粘り強さの差にある。
筆者の少年時代、同じクラスに劣等生の見本のような男がいた。教師は交代で彼の成績を上げようと手を尽くしたが、全く効き目がない。結局教師はみなサジを投げ、その一人は彼を「途方もない大バカ者」とまで叫んだ。ところがこの劣等生は頭の回転こそ鈍かったが、愚直といえるほど固い意思力を備えていた。そして成長するにつれ、この長所が次第に芽を伸ばし始めた。
やがて彼はビジネス界入りを果たすが、、その頃にはかっての級友の大部分よりはるかに優れた人物として世間に名をとどろかせていた。その後彼は郷里の市長として立派に活躍したという。歩みののろいカメでも正しい道さえ通れば、間違った道を行く競争相手に勝つことが出来る。だから熱心に努力さえしていれば、進歩が遅くとも気に病む必要はない。
若い頃の利発さは、むしろ欠点にさえなりかねない。なんでも手際よく覚える子供は、それだけもの忘れも早いし、忍耐や努力という資質を磨き上げようともしない。ところが実際には、忍耐と努力こそが優れた人格形成に一番大切な要素である。そしてあまり出来のよくない子供のほうが、かえってこの美徳を否が応でも身につけていく。「今日の私を築き上げたのは、ひとえに自分自身の力である」とディビーは語っているが、この言葉はまさに不変の真理をいい当てているのではなかろうか。
『自助論』スマイルズ
この本は数ヶ月前、姿を消した公園のホームレスの”居住地”に残してあったものである。
長すぎる。
ルナール
岸田国士訳
肉体の健康法に、究極の奥義のようなものがあるとしたらそれはなんだろうか。まず基本として知っておきたいのは、肉体の老化現象は足から始まるということである。だから、歩くことは健康法の基本といってよい。ならば、なぜ歩くことが健康の基本なのか、なぜ足が健康の基本なのか。ここを明らかにしなければならない。
その理由は、血液の循環にある。歩くことによって、足の先端はもちろん全身の血液循環がよくなる。これこそが肉体を健康に保つため奥義なのである。血管は心臓から出て行くのだが、出たあたりで約3センチぐらいの太さがある。これが大動脈である、この血管がだんだん細くなっていって、先端の末梢循環になると、髪の毛の10分の1ぐらいの細さになる。
ここで全身を構成する個々の細胞と接し、細胞に酸素を与え、老廃物と炭酸ガスを受け取る。そしてそれらを体外に排泄する。人間の体を構成するのは、60兆といわれる細胞群である。したがって細胞の若さがそのまま肉体の若さとなるのだが、その細胞の若さを保証するのが、血液の循環というわけだ。
生まれたばかりの赤ん坊の血管の壁はほんとうに柔らかい、だからどんなところにも血液が入っていける。赤ん坊の細胞の瑞々しさがこうして維持される。血管の柔らかさは20代までは続く。30代になるとそろそろ動脈硬化の兆候が現れる。末端の髪の毛の太さの10分の1ぐらいしかない血管ががつぶれてくる。徐々に老化の兆候が現れだす。肉体の若さに陰りが見えてくるのである。肉体の若さは健康のバロメーターである。だから、健康は究極的には血管の若さに依存する。
ある学者が体中の血管を一本につなげたら、どれくらいの長さになるんだろうと計算したところ、何と10万キロという数字が出た。10万キロといえば地球を2周半する距離である。我々の体の中には、地球2周半分もの長さの血管が張り巡らされているというのだから驚きである。体中に張り巡らされたこの血管網によって、体の隅々まで新鮮な酸素が供給されていく。
若さの医学とは煎じ詰めれば血管の若さの医学ということになる。すべての健康法とは、結局、体の隅々まで血液を流してやることといってもいい。運動は体にいいといわれる。ヨガやストレッチ、太極拳、水泳、ジョギング、そのどれもが健康にいい、といわれるのは、それらは血液の循環を促進するものだからである。
一見、運動とは別物のように見えるヨガの場合も同じことだ。それは気脈を開かせることが眼目になっている。気脈とは血管のことである。ヨガとは、体の隅々の血管を開かせる術ということになる。このような運動の基本となっているのが足である。歩くことによって体中に十分な酸素を供給する、心臓から一番遠い足先まで、酸素を送る。歩くことの効能がそこにある。
『60歳から強く生きる』
2009年11月21日(土) |
短剣と鞘・先史時代を代表する逸品 |
小型短剣は公式収容の時、ヘン教授自身が収集した。教授がこれを拾い上げると刃がはずれて水中に落ちてしまった。オーストリア放送協会がその場面を撮影していたので、これの発見場所は正確にわかっている。遺体の主はおそらくこの短剣を右腰の部分、たぶん腰のベルトに付けていたと思われる。この鞘付きの短剣は収容作業の際に、ピッケルで傷ついてしまったらしい。中央部に斜めに当たったらしく、柄の前部に傷がある。
この短剣は驚くほど小さい。全長12.8センチしかない。両刃だから短剣と呼ぶことにするが、もし片刃だったらナイフというべきところだろう。刃先はこぼれていた。8〜9ミリぐらい欠けたのだろう。彼の生前にすでに欠けたのか、それとも収容作業中に欠けたのか、それは不明だ。
刃の長さは、柄の中に入り込んでいる部分も含めて、6.4センチである。もし柄かがなかったら、この刃はきっと矢じりと判断されたかもしれない。材質は石器時代によく使われたフリント(火打石・発火石)製である。丈夫な修正用の小道具で鋭い刃に仕上げたのだが、これはわずか数分っ出来る作業である。柄の中に入り込んでいる刃の先端が元来どのような形をしていたか、それはわからない。ピッケルで粉々になったからである。
柄の材料はトリネコ材。これは古今を問わず道具の柄にうってつけの木だ。柄の長さは8.9センチ、断面は長方形から角をとった形をしていて、長い辺が2.1センチ、短い方が1.1センチから0.8センチである。刃の付け根を締めている紐は動物の腱でできており、かなりの強度を持っている。それ以外には別段柄には手を加えておらず、製作者は美しさよりも強度を重視したものと思われる。
柄の握りの部分、つまり頭の部分は左右に刻み目があって、そこに2本の草をよった紐が縛ってあり、簡単に一回結んである。紐の長さは6センチ足らずで端が切れている。この紐はおそらく、紛失を避けるためにどこかに結わえたものだろう、刃が柄の中心線から幾分ずれているのも、ピッケルのせいか?刃と木をつなぐのに接合剤を全く使っていないのは、注目に値する。
鞘のほうはおそらくシナノキ(洋種菩提樹)の樹皮を編んで作ったものだ。これは芸術的な作品と呼んでいいだろう。彼自ら武骨な手で作ったのか?いや、もっと器用な手のほうが似つかわしい。刃と同様に裂け目があるが、これもおそらくピッケルの仕業だ。全長12センチであり、短剣を入れると握りの頭の部分が出るだけだ。
作り方はまず、小さなござ状のものを作ってから、それを半分に折りたたんで袋を作り、そこに草の紐を編みこんだのだろう。口の部分は紐が二重になっており、そこから1.4センチ間隔で、7本の紐が編みこまれている。そして先端は草紐一本で縛ってある。側面の上部には、幅8ミリの革紐が結わえられている。これはおそらく革ベルトに結びつけられていたのだろう。先史時代のもので、これに比肩しうる逸品を、私を見たことがない。
『5000年前の男―解明された凍結ミイラの謎』コンラート・シュピンドラー
2009年11月17日(火) |
いのちを見つめて(2) |
聖書に「ロトの妻」の物語がある。ロト一家の住むソドムの街は、、神の思し召しに反し、労働の喜びも忘れた人々は堕落し、風紀も乱れ放題だった。ついに神の逆鱗に触れ、天誅が下されることとなる。しかし、ロトは一人深い信仰心を持ちそれに応じた生き方もしていた。神はロトだけは救いたかった、で、ロト一家を避難させようと、神は町に火を放つ前に使者を出す。「だれにも告げず、何も持たず、一家だけが別の街に逃れよ。ただし、町を出るまで決して後ろを振り返ってはならない」
これが救済のための約束事であった。とるものもとりあえず、一家が町のはずまで来た時彼の妻は街を振り返ってしまう。そして、次の瞬間、石の柱となってしまった。ロトの妻の行為をして残してきた財産への未練や、掟に反することの戒めとして語られる。ところが、向田邦子さんは、彼女の心を「家族熱」と称し、同盟のドラマにもした。
誰しもわが身はかわいい。かわいいわが身を省みず、献身する行為を犠牲というのかもしれないが、強い絆で結ばれた夫婦であり、親子、兄弟、友人であれば相手を思う心に犠牲という言葉は似合わない。もっと素直に強烈に、喜びも苦悩もわがものとする行動に走ることもあるのではないか。、身を焼かれようと石になろうと、親類縁者の安否を気遣ったロトの妻の行為を「家族熱」と呼ぶのは美しい解釈だと思う。
……… 夫婦は二世、子供は一世というけど、本当は夫婦こそ一世なんですね。父は後に残す母のことだけが心配だといってなくなりました。子供は気にならないかと聞くと、母とは二人でひとつ、一緒に生きてきたから、一人残すの忍びない。子供は次の世代を生きる人間で、存分に可愛がりもした。生きる力だけはつけてやったというんです。はじめは捨て後にされた気分でしたが、素直な親でうらやましい夫婦だと思っています。
……… 亡くなった患者さんが病院を出る時、担当婦長以下病棟ナースとともに僕らは裏玄関に立つ。霊柩車は死者の満足も不満も、あるいは煩悩も達観も乗せて、ゆっくり走る。あなたの歴史に思いを馳せ、交わした言葉の数々を思い浮かべつつ、家族への慰めも込めて去りゆく霊柩車に礼をささげる。それで癒せる何物もないけれど。せめてもの主を込めた、これが僕らの精一杯。「お疲れ朝までした。いずれかの地でお目にかかるまで、安らかにお休みください」ある出会いに感謝を込め、万感の思いで頭を垂れる。
……… 若者に向って、出できだけ穏やかに英語で話しかける。「君どうしても手術は嫌なの」彼はまっすぐに僕の目を見て、大きくうなずいた。「でも君の治療にどうしても手術が必要なんだよ」彼は今度ははっきりと声に出して「ノー」の拒否姿勢を示す。こんな押し問答に腹が立って来た僕は、語気も荒くいった。
「いま手術をしないで放っておけば、君は2、3日で死んでしまうんだよ。とても危険な状態なんだ。それをわかっているの」それでも彼は首を横に振るだけだ。そして現地語で何かいった。ンジョクが僕の手を引張って耳元でささやく。「彼は死ぬと決めたんです。ドクター、もうよしましょう」ンジョクのいう意味が理解できなかったし、わかったように通訳する彼の胸の内も量りかねた。
ンジョクと若者の顔を見比べたが、混乱する思考をまとめることはできなかった。その夜は何とも腹立たしく、よく眠れなかった。「僕は死にます」といったあの男の目が、頭から離れない
……… 手術を拒否して死んだイボの若者について、岡村さんの解釈はこうだ。「イボの人たちは、厳しい自然環境にの下で生き抜くために大家族制をとっています。彼は片手となって家族に迷惑をかけるより、集団のために自らの意思で死を選んだんですよ。日本にも昔は枕落としや姥捨てがあったでしょう。あれに似た感覚でしょうね。この土地の生活は、次の代のために生命を譲るというか、人間も一生物であって、その自然な流れに従うのが宿命と思いたくなるんだなあ。厳しさゆえでしょうかね」
医者になって三十余年、診る側で人の生き死にかかわってきたが、このたびは僕自身が癌にかかった、一応無事生還の身となって、手術以来まる四年半の時間が経過している。いったんは死の恐怖にわしづかみにされ、少しづつその恐怖が遠のいたおと思ったら、次は再発の不安におびえることになる。
腹をくくったつもりでも、やはり爆弾を抱えた身の上はせつなく揺れる。さらに僕自身の闘病に前後して、愛する仲間たちが立て続けにガンで逝った。そうした中で、まさに半生を振り返って過去の様々な死に思いを馳せた。そこで、忽然と浮かび上がってきたのが、イボの若者の決断であり、祖父の最期であった。僕の動揺や煩悩にひきかえ、あの若者の死に際の簡潔なこと、自然なこと!また、人々の祈りの中で逝った祖父の死のなんと素朴なことであったことか。
自然の懐に抱かれて、どこか大いなるところへ帰ってゆく。それはきっと、誰に対しても限りない安らぎであるような気がする。僕がとらえる死のイメージだ。
『医者が癌にかかったとき』 竹中文良
●古代エジプトの遺跡に見え隠れするエイリアンの影。その関わりを決定づける壁画がサッカラの遺族の墓に刻まれていた―。
エジプト、カイロの南に位置するサッカラという村に、プタ・ホテプという古代の賢人の墓がある。プタ・ホテプは古王国時代、再5王朝の王イセジ(在位紀元前2388〜前2356年)の治世に、賢人として勤めた人物である。彼の言行録はフランスのルーブル美術館所蔵、プピツセパピルスに見ることが出来る。
古代の賢人として王から信任されていたプタ・ポテプ。彼の墓所を飾る壁画にエイリアンとしか説明のしようのない異形のものが描かれているのだ。壁画にエイリアンの姿を発見したのは、アメリカで古代文明とエイリアン関わりなど、不思議現象を研究しているコズミック・コンスピラシーズという研究団体だった。いくつもの文献を当たる中で、彼らはこのレリーフの写真を発見したのである。
レリーフの写真が掲載されていたのは「ピラミッドの陰で〜来王国時代のエジプト」と題される古い本だった。エイリアンの部分を拡大した写真をご覧いただきたい。巨大な頭部と大きくつり上った目、その姿は私たちが「グレイ」と呼ぶエイリアンの姿そのものである。古代エジプト人がどのようにしてピラミッドのような巨大建造物をつくったのかは、今もって古代史の謎の一つだが、エイリアンたち技術協力があったとすれば、さまざまな謎を説明できることになる。この賢人の墓は王のものに匹敵する大きさで、エイリアンからの知恵の偉大さが象徴されているようである。
事実、古代エジプトの遺跡には、このほかにも数多くの不可思議なレリーフを見ることができる。その一つが、大ピラミッドの建つギザの大地から南へ数100マイル行ったアビドスのセティー一世の葬祭殿にある。この神殿が立てられたのは、プタ・ホテプの時代より1.000年ほど経った新王国時代である。
上の写真をご覧いただきたい。見れば見るほど説明も不要なほどはっきりと、現代人にもなじみの深い乗り物ががそこには刻まれている。ヘリコプター、潜水艦、飛行機、ホバークラフト。古代人はなぜこれほど明確のそれらの姿を知っていたのだろうか。
上の写真は、南エジプトのクシュに金鉱近くに立てられた寺院の壁に刻まれていたレリーフである。紀元前8世紀に立てられたこの寺院の壁には、二人の人間の横に立つ巨大なロケットの姿が、はっきりと描かれている。このロケットに乗って宇宙へ飛び立ったのか、それとも宇宙からこのようなロケットに乗ってエイリアンたちがやって来たのか。このレリーフでは詳しいことはわからない。
だが高度な文明を誇った古代エジプト文明に、かなり長い期間にわたり、エイリアンたちが何らかの形で関わっていたことだけは疑いない事実のように思える。
『異星文明の巨大証拠群』
吉村作治はかなり頭が固いようである。現場の人間は現実に引きずられて、発想の柔軟性が失われるようである。50トン、60ンもある石を人間がどうやって精巧に積み立てられるのか。人間が何百人で巨石を引っ張ったとしても、その力に耐えられるロープがあったのだろうか。壁画にはロープは2〜3本で引かれているが、実際引けるわけがない。ピラミッドの映像を見ると途方もない高さである。内部の複雑さを考えるとても人間技とは思えない。
アメリカの軍事技術が抜きんでているのはアメリカは現在もエイリアンとの接触があり、彼らのテクノロジーが提供されているという。超政府とは彼らの組織であるということもいわれている。ステルス戦闘機などレーダーにも映らない、以前の技術を数段跳び超えた高いレベルの兵器が突然出てくるのは、彼らの技術供与によるらしい。
2009年11月14日(土) |
いのちを見つめて(1) |
…ある日、医局で雑談をしていると、長生きできるかどうかは少なくとも両親の一方が長く生きていたかどうかによってわかる、といった話題になった。
…しかし患者は治療のプロではない、命が患者本人のものであり、命に関わる治療の選択権、決定権は本人側にあると考えること、そのこと自体は正論で、異論の余地はない。ただし、知識や情報を得ることと、使いこなすことは別次元のことではないだろうか。
…恩師の趣味はテレビのチャンバラ劇であり、パチンコだった。日常からの脱皮、頭の切り替えだったのだろう。そしてもう一つの趣味というか「修行」が登山だった。寂しさを体得するのが登山の目的と聞いた。土曜ごとに、彼は一人で丹沢に出かけた、
「寂しくないですか」「寂しいさ。僕は寂しさを知るために山に上っているのだから。一歩一歩踏みしめて頂上まで登る。登り切ったら、あとは下るだけだ。人生に似ているだろう。だから、山を下りながら、寂しい、寂しい、人生はなんて寂しいんだ、と口に出しながら下りてくるんだ」
寂しさを知らずに医者は一人前ではないという信念、哲学のもとに早くも30代から訓練を重ねていたと言うから驚きもし、尊敬に値するのだと思う。若かった僕にはその意味がよくわからなかったが、そうやって寂しさを知ることで、患者心理を斟酌するにますます深みを増したのではないだろうか。
その恩師も齢80をこえられた。しかし、いまだに過去を振り返っちゃいかん、のだそうだ。つねに前進あるのみで、その建前は崩さない。僕らはいまだにあおられている。
現在でもそうだが医学教育は、治すための技術や知識、つまり治療が優先されている。死にゆく人や、いわば死なせ方については触れられていない。触れている余裕がないのが現実である。教育は「治療」精一杯の状況下で、予防医学ですらその重要性が問われだしてからそう時間がたってないのだ。「生命・生老病死」に関するもろもろの問題は、医学教育においても今後の大きな課題になっていくと思われる。
若い医師たちに尋ねてみると、一番の悩みは生命観の確立だという。脳死をどうするのか、末期医療、とくに悪名高き儀式医療といわれる治療をいったいどこまでやればよいのか。その判断が医師だけに委ねられてよいと考える医者もいない。やはり、だれもが納得し、信頼される医療でありたい。そのことが何にもまして大切だと思っているのだ。
30年、50年先のことはわからない。しかし、ぼくは医者を続ける限り、移植医療に参加しようとは思わない。現時点では、医療の使命は自然な死に方の延長線上にあると考える。
生体肝移植は二つの大きな問題を持っているともう。第一に、まだ実験医学であるということ、第二が報道のされ方だ。まず生体肝移植は、いまだ実験医学のレベルであって、医療とはいえない。働き盛りの親の肝臓を切り取っているわけだが、そのことによる現実のそして将来的な危険については現段階ではよくわかっていない。また、移植を受けた子供たちは一生免疫抑制剤を使い続けなければならず、その結果、感染に対する抵抗力は非常に弱くなる。もっとも、免疫抑制剤は脳死者からの臓器移植についても必要であり、薬そのものは次々によくなっていて、移植が広く実用化した背景には、その進歩があったことは事実である。
タバコと癌の因果関係はたしかにある。とくに食道、膀胱、肺についてはその率もぐっと高くなる。しかし、では同じ人間が吸わなかったために発病に短縮される時間といったら、実のところあまり関係ないという説だってあるのだ。
死はあくまでも生の延長線上の一時期ではないか。今元気溌剌の二十歳の若者もゆっくりと死につつある。結論からいうと、僕は一般病院での最期を望む者である。畳の上ではとはいわない。核家族が多い現実、ある程度の医療が生活の中にとけ込んでいる以上、それは現実離れした考え方ではないだろうか。
…それに内緒話をすれば、この種の出戻り患者さんの到来はナースたちのアレルギー反応を呼ぶ。なぜか。ナースとて人の子。治療の延長線上の死は自然に受け入れられるが、純然たる最後、死だけを看取ることは抵抗があり、葬儀屋じゃないという過激な言葉も出るのだ。
…「母は楽しむことの名人ですから、病院のベッドにも幸せがあるそうです」
『医者が癌にかかったとき』 竹中文良
エジプトに文明らしきものが現れ始めたのは、キリストの生まれる7〜8000年も前のことである。その頃エジプトに住んでいた人々は、獲物を追って移動する狩猟生活から、一か所に定着して家畜を飼育したり、穀物を栽培する農耕生活を営み始めたばかりだった。そして紀元前3200年から3000年の間にナイル川に沿って点々と居住していたこれらの人々の集団は、一人の頭首のもとに統合され統治国家が成立したのである。
上エジプトから始まったこの部族統一の指導者は、伝説によるとメネスとなっているが、これはおそらくエジプトの初代の王ナメルと同一人物であろうと考えられている。彼は勢力を北に伸ばし、国土を統合して、30に及ぶエジプト王朝の最初の王朝を樹立したのである。メネスはデルタの要の部分から南を約32キロ、上下エジプトの接点近くに王国の首都メンフィスの町を建設する。
以来、メンフィスはめざましい発展をとげ、メネス王の後も約400年間、二つの王朝の約18人の王たちがこの地で統治を行なった、王たちはメンフィス近郊に死後のための墓を作り、上下二つに別れていたエジプトを統括した。上エジプトで発見され、現在カイロ・エジプト博物館に収められている、ナルメル王の化粧版にはナルメル王が上下エジプトを統一していった時の戦いの場面が描かれている。
ピラミッドの底辺の四辺をその高さの二倍で割るとπの値になる。またピラミッドの底面積はその高さの二乗にπを掛けた値である。円周率が正式に認められたのはピラミッド建造後2500年以上もたってからのことであるから、この数値は驚異である。またピラミッドの三角面の高さを半径とする円を描くと、その円周とピラミッドの四底辺の長さが同じであるという関係ができる。
このπの謎について次のような新しい見方もできる。古代エジプト人はπを知っていたわけではなく、このπは実用的な面から必然的にでてきたものである。まず、ピラミッドの高さに対し、比例で底辺の長さを決めるわけであるが、当時の直角の作り方は3対4対5という比例で直角を作っていた。ところが底辺の一辺が230メートルもある場合実際に測ることは非常に困難である。
現在のようにスチール製の巻尺があっても、その時の気温、風力などに左右されるわけだから、ましてや古代においてパピルスの繊維で編んだ網を使って測量することは難しい。そこで古代エジプト人は、半径1キュービットの輪を作り、それで底辺の長さを決めていったのだろう。高さ1キュービットに対し、底辺の一辺の長さは2πキュービットとなるというのである。
ピラミッドの外面は基底の各辺の長さは230メートル、高さ147メートル、傾斜角度51度52分である。基底部の長さの差は20センチ以下、底部の北西角の一点と南東角の一点でのレベル差は2センチ以下、完璧に近い施工精度を持っている。はじめて大ピラミッドが第4王朝のクフ王の墓だと断定したのはヘロドトス(紀元前5世紀詩人でもあり今でいう新聞記者のような存在)である。
ヘロドトスはエジプトで聞いた伝承や、ガイドの話を興味深く書きとめた。その中で彼は、大ピラミッドがクフ王の権力誇示と、来世のために作られた墓であると述べている。さらに大ピラミッド建設のために、絶えず10万人の国民が三カ月交代で強制労働に服した。大ピラミッド建設用の道路を作るのに10年。ピラミッド自体には20年もの年月が必要であり、クフ王は国民を奴隷のようにこき使ったと述べている。
●運搬方法 古代エジプト人が機械を使用せず単純な道具だけでどうやってピラミッド建造を成し遂げたのかを考える場合、どんな道具が当時存在しなかったのかを知ることが必要である。この時代には滑車、シャジ、そしてそれから派生した力学的に便利な道具はなかったといわれている。その例として第12王朝の王が60トンもある自分の巨像を石切り場からナイル川まで運ばせている絵を見ると、巨像は櫓に乗せられ、明らかにころなしで枕木の上を運ばれている。
4本の引き綱を引いているのは172人もの労働者たちで、像の足に乗った一人の労働者は櫓と地面との摩擦を少なくするために枕木に水か油のようなものをかけている。一方、他に3人の労働者が天秤棒によって2個の予備水瓶を持っており、別の3人のグループは不ぞろいの大きな木材を肩に担いでいる。この木材は何のためのものなのかはっきりしてはいないが、櫓の前方に置くために後方から移された枕木だという説がある。この木材が不ぞろいだということは、肩に担いでいる面だけが平らになった粗い木材にすぎないということを示していよう。
また別の所で発見された石碑には、ナイルまで約18トンの石棺のふたを運ぶのに。全部で3000人が必要であったことと、わずかな傾斜角の斜面を運ぶのに100人の労働者で1カ月かかったことが記されている。大きな石の運搬には、木製の櫓が使用されていて、櫓はかしいだり丸く曲がったり、てこやころで補助ができるように下に湾曲していた。現在カイロ・エジプト博物館には5メートルもある大きな木の櫓が保存されている。
『ピラミッドの謎』 吉村作治
ある水族館の水槽で、ひさしい間、飢えた蛸が飼われていた。地下の薄暗い岩の陰で青ざめたはり天井の光線が、いつも悲しげに漂っていた。だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れていた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思われていた。そして腐った海水だけが、埃っぽい日差しの中で、いつもガラス窓の槽にたまっていた。
けれども動物は死ななかった。蛸は岩陰にかくれて居たのだ。そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、恐ろしい飢餓を忍ばねばならなかった。どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすっかりおしまいになった時、今度は胴を裏返して、内臓の一部を食い始めた。少しづつ他の一部から一部へと。順々に。
かくして蛸は、彼の体全体を食いつくしてしまった、外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも。すべて残る隈なく。完全に。
ある朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空っぽになっていた。曇った埃っぽい硝子の中で、藍色の透き通った湖水と、なよなよした海藻とが動いていた。そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかった。蛸は実際に、すっかり消滅してしまったのである。
けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまった後ですらも尚且つ永遠にそこに生きていた。古ぼけた、空っぽの、忘れられた水槽の中で。永遠に─おそらくは幾世紀の間を通じて─ある物すごい欠乏と不満を持った、人の目に見えない動物が生きていた。
『死なない蛸』 荻原朔太郎
蛙の雨だって降ると言う人がある。でも空から蛙が降ってくるのを見たことのある人など一人もいないだろう。話は全く簡単で、こんな次第なのだ。夏にカンカン照りの日が続くと、陸蛙の一種が暑さにたまりかねて、ひんやりと湿った居住地を求め、近くの森や繁みに引っ込む。その行動はまったく人目につかずにひそかに行なわれるため、それに気づく者はいない。
さてそこへ柔らかな雨が振ると、おびただしい数の蛙どもがまたぞろぞろ出てきて、濡れてひんやりした草地で元気を取り戻す。そんなときこうした場所に来あわせた人が、ついさいぜんまで姿一つ見えなかった蛙が、いっぺんにこんなにたくさんいるのを目にしたりすると、この蛙どもがいったいどこからやって来たのか、その人には皆目想像もつかない。
そこで単純な人々は、蛙の雨が降ったのだ、と思うのである。というのもこの人たちは、あのいつものものぐさから、自分に理解できぬことの原因を問うたり、その原因を合理的に考えてみたりするのを面倒がって、むしろいっそ、どんな荒唐無稽なことでも信じてしまう人たちなのだから。
『蛙の雨』 へーベル
2009年11月06日(金) |
人の心の不思議パワー |
テレビや雑誌などに、超能力者と呼ばれる人たちが登場して、次々に凄いワザを繰り広げている。例えばスプーン曲げのような素朴な”念力現象”に始まり、封じられた箱の中身を言い当てる”透視”遠く離れた場所で起きた大事故を感知する”テレパシー”」地球の終末・人類の運命を言い当てる未来予言など、通常では考えられない能力を彼らは発揮する。
また身の回りでもちょっとした不思議なことはよく聞かれる。親しい人の死を虫の知らせが告げる、死んだはずの肉親が夢枕に立つなど……。こんなことがトリックや、単なる偶然でなく本当にあるのだろうか。現代は科学の時代。何でも科学で解き明かそうというのが世の流れである。その中で、今だにに解明されない最大のミステリーとして、人々の関心を集めているのが人のココロ。そしてどうやら数々の不思議な現象は、そんな人のココロが持つ未知なる力なせるワザらしいのである。
そこに鋭く迫ったのがこの超心理学という学問である。怪しげな研究と思われがちだが、超心理学とは、原因不明の現象や人の未知能力に実験・統計などから迫った、れっきとした科学なのだ。たとえば念力現象のの謎に挑んだサイコロ実験というものその一つである。
もし、狙った数字の目を思うままに出せるとしたら……。そんな都合いい能力を実はだれもが潜在的に持っているということが、この実験で証明されている。つまり超能力というのは大なり小なりどんなん人にも備わっている、ということ。その力にあなたが気づいていないだけなのだ。
また、テレパシーの実験は、人間だけでなく、植物や動物などをも対象に行なわれ、信じられないような結果の数々が報告されている。そして明らかになったのは、そのような能力が生き物すべてに共通するということ、そしてどうやら遺伝子と深くかかわりあっているらしいということだ。
そんなココロのパワーの謎に迫り、一つ一つ解き明かそうと試みたのが本書である。科学の目から見ても、この世の不思議な現象は決していかさまではなく、疑いようのない真実としてどうやら存在しているのである。
●タイタニック号の遭難 1912年、、当時の世界最大の客船タイタニック号が、大西洋で氷山に激突して沈没した。1500人以上が死亡したこの惨事は映画にもなり世界的に知られている、ところが、タイタニック号の遭難とほとんど同じ内容の小説が、遭難事故の14年前にすでに書かれていたのだ。小説家はなぜ未来の現実を先取りした小説が書けたのだろうか。
タイタニック号は1912年の4月10日、イギリスのサザンプトン港を出航した。イギリスが誇る世界一の豪華客船の処女航海であった。予定通りの航路を進んだ同船は、4月15日北大西洋を全速力で航行中、氷山に激突して沈没。乗船者2207名中1512名が死亡したのである。
あまりの大惨事に世界中が騒然となる中で、不思議な一致に気づいた人がいた。ヴァージニア大学の心理学者スティーブンスンである。彼は14年前に書かれた小説「タイタン号の遭難」が、タイタニック号の事故と内容が酷似していることに驚いたのだ。「タイタン号の遭難は1898年にモーガン・ロバートソンという作家が書いた小説であった。
船名がよく似ている。事故が大西洋でおこる、季節が4月であること、そして氷山と激突することまでが同じであった。タイタニック号とタイタン号は排水トン数、乗船者数、救命ボートの数などよく似ている。船のサイズは同じぐらいであった。ロバートソンは小説を書いただけであった。書くことに没頭していた作家が自分でも無意識のうちに予知能力を発揮していたと考えることは十分に可能である。
小説を書くなど、一つのことに意識が集中していくと「我を忘れた心理状態」になる。これは「フロー状態」といわれる心的状態と同じで、意識と無意識のギリギリの境界線上にいるようなものである。つまり、普段気付かないよう思わぬ能力を発揮しやすい状況が生まれる。その結果、14年後の出来事を予知したのかもしれない。ということは運命からだれもが逃れられないということなのかもしれない。
『超心理の謎』
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