++るうの独り言++
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珍しく頭の切り替えができない。
よし決めた。 これからここには仕事の話、か〜かないっと。
#ストレス解消の最強兵器である「美味しいもの」が埼玉の奥地ではすぐに手に入りにくい&こじゃれた喫茶店がないのが敗因。 お願い。駅前にミスドでいいから作って。(T0T)
---------なにがあったか説明-------------------------
体がきかなくなってくると精神状態も悪くなるというのはとてもよくわかる。 そうでなくて、精神病にかかっているうえに介護が必要な体になっているというのは介護する者にも見ててさらにつらく忍びない。
こういうお宅では、実際の仕事よりも、むしろ利用者さんへの接し方が非常に大事なのである。
いろんな勉強をしててよかったな、とは思うものの、 この言葉でよかったか、今の応対は適切だったか、 笑顔のポーカーフェイスで私はリラックスしているように見せながら 頭の中でヘルパーコンピューター(笑)がフル回転している。
心の中にためている話したいことを、誰かに話せば、 それで精神的に安心する。すっきりする。 が、聞き手によっては、話す気がうせる。
これは利用者さんだけにいえることじゃない。人間全員共通の話。
緊張した。 時間が来てお宅を失礼した時、頭ががんがんするほどで、 これはやっぱり精神波の戦いだったのだな、と。
あとで主任のヘルパーさんから 「ほんとに良くしてくれて、話もよく聞いてくれてありがたかった、ってお礼の電話がきたわよ」っていわれて、 自分がうれしいよりもむしろほっとした。 『ああよかった。なんとか受け入れてもらえたんだ。やれやれ。』
んで、お昼食べたら胃が痛くなっちゃったんさー。 意外と私も神経が細かかったりして。わっはっはっは。(^-^;
目くそ鼻くそ耳くそ
かつて、 かわいい娘の小さな口から「くそ」の言葉がでてくるのを恐れた親ばか母は 虫歯からの連想で 「目虫」「鼻虫」「耳虫」と命名。
とくに耳のは何かの拍子にかさこそと動くので 「おーかしゃーん、おみみのなかで耳虫がないてるー」となかなか都合がよかったのだ。
綿棒くりくり♪
んが。 小さな指を鼻の穴につっこんでほじり 「鼻虫」を指の先にくっつけてそれをまじまじと見つめ 「おかーしゃーん、これ鼻虫のうんこかなあ」
(-_-)
悠久の日本語の歴史におばかな母親の浅知恵が太刀打ちできるはずがなかったのだ。わははは。 鼻くそはどーやっても鼻くそじゃな。
えと。何を書こうとしたんだっけか。
そうそう、このごろこの鼻虫の色が黄色いという話をしたかったんだ。
「花粉かな?」 「花粉だよ! ついにあんたも花粉症じゃないか?」 花粉症の友はなにかってーと他の人もみんな花粉症仲間に引き込みたがる。 例えば「あなたも風邪?」とかいわれたら「うんそうかもしれないー」とあっさり仲間入りするのだが、 なぜか花粉症の場合は 「違うっ! ぜーーーーったい違うっ!」と強固に否定する。
なんでだろー、なんでだろー♪
日本人の約10%が花粉症だというが、 ここ埼玉の奥地という空気がきれいな場所でさえも職場の花粉症率は20%近いのだ。
もっとも年をとってくるとだんだん症状が軽くなってくるらしいから、みなさまもちょっとがんばってね。ヘ(__ヘ)☆\(^^;)
わったしは〜花粉症とは〜無縁〜 ほほほほほ。
はっずかしいなあ、というのが正直な感想。 「のべ一万人の人々に私という人間をさらしちゃったか、、、。」
某作家が 「娼婦は体しか売らないが、我々は精神まで売り渡している。世の中で1番恥ずかしい存在だ」 とかなんとか言っていたと記憶しているが、 それに近いものがあるな。(-_-) それなのに 感情丸出しの、旦那ちゃんにもあまりみせたくないこの文章を 他人様に過分にほめられたりすると、穴ほって自分で自分を埋めてしまいたいぐらい恥ずかしい。きゃ〜いや〜ん、である。(笑)
んなら、ネットにのせなきゃいいんだ。 でも そこが人間の面白いところで 「みせたくないー」でも「みてほしいー」の間でゆれることしきり。
こそっと見てね。表にださないでね。 ご自分の都合のいいところだけ切り取って読んでね。 お気に障っても許してね。 、、、などと(^^ゞ
公開しないつもりで書き出したこの独り言を 読んでくださり、そして管理人には過ぎたるお言葉をくださる皆様には、 心より感謝しております。 どうぞ、私の脳天気&アホさ加減を反面教師とし、毎日を元気にお過ごし下さいね。
どうしても腹に据えかねるという場合はメールでもいただければ、と思っております。m(__)m
・・・といっても私はどう変わりようもないですが。 だって、旦那ちゃんがこのままでいいっていうんだもーん。(殴る蹴る)
◆昔の今日の記事
空白と空爆 点一つで大違い。<何をいうやら(^^ゞ
その朝8時30分まではテレビを見て 世界情勢を気にしてたんだ。 「娘の誕生日の2日前、父ブッシュが湾岸戦争を起こし、それから12年?! やれやれ。このファザコン大統領め」とかなんとか。
で、 仕事にいく時間がきたので自転車にまたがり 1軒めのお宅の玄関をあけたとたん 世界情勢はきれいにふっ飛んだ。
利用者さんが話題にしたなら思い出したかもしれないけど いっさいなかった。 利用者さんには 1週間たまっちゃった洗濯物のことが 娘さんが贈ってくれたサイズのあわない下着のことが 手が痛くて大根が切れないことが その利用者さんにはなによりも重大問題だったのだ。
2軒めのお宅では ヘルパーを相手に1週間の孤独を一気に発散させる。 その話の内容にはこのイラク米戦争のことはちらとも出ない。 いわば自分史を私に語ってくださった。 「蓮見さんだから話せるんだわ」という最高の言葉をいただきつつ拝聴する。
昼、ヘルパーステーションに戻りそこでお弁当。 先の利用者さんの凄まじいまでの人生にふれ、自分の脳天気さ加減とか苦労知らずの人生とかそんなものがなんだか申し訳なく情けなくなり、 「この仕事は私みたいなのがやるもんじゃないですねー」 と主任のヘルパーさんに思わずこぼす。 「そんなことないそんなことない。むしろヘルパー自身が幸せでなかったらこの仕事はできないのよ。いろいろな人生経験はあってもいいけど、今自分が幸せかどうかが大事なんじゃないのかな」
そうか。よかった。それならそういうことなら私、だれにもまけずヘルパーに相応しい。旦那ちゃん、ありがとう(笑) などとほっと安心する。 午後の仕事の元気が出る。
・・・そのころ安心する世界情勢ではないはずだったのに。
午後のお宅では 私はいかにお口にあってかつ栄養価の高い料理を2日分作るかということに腐心する。もちろん料理だけすればいいわけではない。 「しなくっちゃいけないこと」は山のようにある。本当は2時間じゃ足りないのを、見事2時間で仕上げるのが私の誇り。 「いつもよくしてくれてありがとう。卵焼きとってもおいしい」 あー、よかった。ほ。
充実感と「まあまあ今日はいい仕事ができたな」という達成感を胸に、 結構いい気分で家に帰る。ほわほわと幸せな気分になる。
で、 家に帰ってシャワー浴びて、ほっと一息コーヒーを飲みつつ ラジオをつけたとき、 私は現在の世界情勢を思い出したのだった。 『せんそう??? ・・・・あーーーーーー!!』
でも 世界平和を考えなかった自分を私は恥じたりはしなかった。 イラク米戦争を話題にしなかった利用者さんを「しょうもない」と思わなかった。
だってさ、 利用者さんは日々いろんなことと戦っていて、その日々の戦いに少し安らぎを与える仕事をしてきたんだもん。 これって1番小さな世界平和への貢献じゃないか、などと(^^ゞ
前にもいったけど、戦争は「外交手段の一つ」 国は「国益」で動く。 “思想だけで飯がくえるかっ!”(笑)
アフガニスタンだけでなくイラクだけでなくなんと日本にも 今回の戦争よりもっと『重大・重要』な問題を抱えている人がたくさんいる。
反戦集会もいいけど、人間の盾もその人の好き好きだけど(笑) 本当の世界平和への行動って、自分の生活の足下からなんじゃないかとか。 自分の周りの人を和ませ、その人がまたその周りを・・・・ われわれ一般人はそうやってすこしづつ和みの笑顔を広げていく。
主任のヘルパーさんがいってくれたその言葉こそが「平和」の一歩なんだと思う。宮沢賢治も「世界が幸せになるには一人一人がまず幸せでないと」っていってたじゃないか。
きっとブッシュもサダムも「幸せ」じゃないんだろうな、と。
私の「世界平和貢献」は 利用者さんをできるだけ幸せにする。元気が出るようにする。 自分の子供たちと旦那ちゃんに笑顔をいっぱい贈る。 ちょっと寄付する。 なによりも私が元気で心から幸せでいる。
とりあえずこれでいこう。 とりあえずとはいうけど、これがなかなか大変なんだな。あは。
困ってるんならお金、貸してあげる。 ちょっとだけ食べさせてあげる。
あげるあげる。
お年寄りのオムツをかえてあげる 掃除をしてあげる。 買い物にいってあげる。
あげるあげるあげる。
帷子川に住むタマちゃんを捕まえて、生まれ故郷の海に帰してあげる。
「〜してあげる」 対象に対して自分が一歩高い位置にいる者の物言い。 そして 対象に対しての自分の行動が絶対正しいという思い込みの物言い。 そして 対象を「勝手に」哀れんだ言い方。もっというなら見下した言い方。結局対象物を理解しようとしない言い方。自分の都合を押し付ける言い方。 そして 偽善者たちがよく使う言葉。
◆昔の今日の記事
3月12日のニュースステーションをご覧になった方 いらっしゃると思いますが、
ヘルパーは利用者さんに対し 「医療行為」はできません。 「医療行為」つうのはつまり「医師の判断や技術によらなければ、人体に危害を及ぼすおそれのある行為」ということ。 そりゃそうでしょ、と。 たかが132時間の研修をうけただけの人間が「医療行為」なんて恐れ多い。
んがしかし、 いまここに 利用者さんが直面している医療行為をあげてみますと 外用薬の塗布、つめ切り、点眼、血圧測定、飲み薬の管理、痰の吸引、摘便・・・
なに? つめきりー? シップや軟膏もぬっちゃだめなの〜? なんだとーーー?!
便秘で苦しんでいらっしゃる利用者さんがいて、ちょっと失礼と拝見しますと、もうそこに便の顔が見えてる。 これなら子育て経験の私にならなんのこたない、指で最初の固い塊を少しかきだしてやればいい。そうすればもうたちまちすっきり。所要時間わずか1分。よかったよかった♪
・・・ですが、これ摘便といって、医療行為です。
こういうときヘルパーのできることは、 せいぜいお腹さするか、水をのんでもらうか、訪問看護の手配をするか、だけなんです。
しかし、介護のご家族はします。看護婦の資格も、医者の資格も、ヘルパーの資格さえないのに。 「私たちができる(する)のに、なんでヘルパーさんがしないの? やってもらいたいことをやってもらえないなんておかしい!」 介護に疲れているご家族の負担を軽減する、というのもヘルパーの仕事なんですが。
・・・・・ これが現場のジレンマです。 研修も何もしていない身で「医療行為」をするのはちょと怖い。 しかし、ご家族がやってるような「医療行為」はヘルパーがやったっていいじゃんかさー(-_-) といつも思うんです。
入浴介助のついでに、届かない足の爪切ってなにがわるいんだい! シップ薬を背中にはるためだけに、訪問看護を頼むのかい!
ヘルパーにもっと研修を加えて 家族の同意や、医師との連携とともに もっともっと介護が現場に即した形になって欲しい。 ・・・そうなるように現場の声をもっと上げていかないとな。
ヘルパーを準家族扱いしてもらっちゃだめなのかな。 私はそのつもりなんだけどな〜。
◆昔の今日の記事
ほほほほ。
仕事で わたしの掃除の仕方がじょーずだからといって わたしが優しくゆっくりしゃべるからといって まめにこまこま動くからっていって
プライベートでもまったく同じなんだっていう決め付けは、 迷惑です〜。ほっほっほ。
私は掃除や整理整頓が世界一苦手です。 私は東京っ子なのでぽんぽんぽんっと早口で普段はしゃべりますし短気です。 私が冬中、ぐーたらなコタツ亀になってるのは有名です。
仕事は「利用者さんの時間」 人の時間ですから、自分の好みで動くわけがありません。 そのために習得した技術であり資格であるわけで。
プライベートは「私の時間」 だから、私の好きなように動きます。 私の気持ちの赴くままに〜、のたりくたりー ヾ(・・;)
両者に違いがあっても、それは当然のことでしょ?
ふっふっふ。
◆昔の今日の記事
私と話した人が 話をしたことによって 元気になったり、すこし気分がすっきりする。 話した時間を有意義だったと思えて また私と話たいな、と思ったり いろいろあるが、また明日も生きていくか、
とでも思ってもらえたらそれが最高の仕事結果。 毎日毎回そうあるのが理想。
んがー・・・うまくいかないんだなー、これが。 ちくしょー、である。
理論は分かってる。技術もある程度は見につけてる。 多少の実践もあるにはある。 大昔のことなれど、 学生時代に勉強したものはそれでもやはり役に立ってる。 十数年の経験は尊い。(笑) 生まれてこのかたダテに24年過ぎたわけじゃない。ヾ(・・;)
んが。 10人いれば10通り。 同じ人でもそのその日によって。
探りをいれたり試行錯誤してるうちに 時間は終わってしまう。 この言葉でよかったのか、ほかに言葉はなかったのか、もっと別の言葉が欲しかったのではないか?
ちくしょー・・・
もっといろいろ本を読んで勉強しろって? ま〜ね〜、それは無駄とはいわないが、今の方法としては違う気がする。
それは例えるなら、 料理の本をじっくり眺めて品名覚えてレシピを暗記したって、 実際おいしい料理が作れるというわけじゃないってことさ。
酢豚の作り方はわかってんだ! だけど、人に喜んでもらえる酢豚が作れないんだっ! *なんで酢豚?*
あー、もっ! *ばんばんばんっ!*
◆昔の今日の記事
何故だか急に 気分が意地悪になった。 機嫌が悪くなった。
原因不明。
私が「ちょっと今○○な感じなんだよねー」とかいうと それの原因を勝手に 「ああなんじゃない? こうだからじゃない? だからこうすれば? 私はこうだよ」と決め付ける人がいて、(同化、同化) それを聞くと 『自分でもはかりかねてる気持ちを他人のお前が本当にわかるのかよ』 とムッとする。
・・・これは参考になるな(^^ゞ
こういうときわたしならどうして欲しいか。 んーとね。
・・・「静かに」「ただ側にいて」ほっといて欲しい。
わっはっは。
◆昔の今日の記事
なんだか気分が乗らないまま、 体調も完全でなく、 自分にかける「がんばれ!」の声がいつもより多くなって、 でも「こんなんじゃこの仕事続けられないなあ。辞めちゃおうかな」とか気弱にもなってしまって。
そんな時に 利用者さんから、ヘルパー冥利に尽きるうれしい最高のお言葉をいただくと(社交辞令でも可)
気弱さも 不調なのも なにもかもみーんな吹っ飛んでしまう。 元気もりもり、ヘルパーって私の天職よっ、などと調子づく(^^ゞ
・・・(-_-) るう。あんたいったい、介護してんの? されてんの?
人生のある時期にきて ふと振り返る。 これから自分はどこへ行くのか
・・・修道士カドフェルの言葉(^^ゞ
そのときに したいことが見つからず 過ぎし自分の人生を悔やんでばかり、ということはしたくない。 悔やんでもいいけど「まーいいか、やることはやったし」ぐらい言いたい。
というので 人生の折り返し地点でじたばたじたばたしてるのが今の私。
趣味とかやりたいこととか そういうのとはちょっと違ってて、 「自分が確かにこの世に存在したという確証」をほしがってるのかもしれない。 加齢による焦りか。
・・・・ 確証だあ? なにをたわけたことを。 天才児二人で十分過ぎるほど十分じゃないか。 それもそうだ。わっはっは。
あせっちゃダメ。不必要に落ち込んじゃダメ。
う〜ん、こりゃ温泉や映画や読書より どこかのお寺にいって座禅すべきだな。
ひろくーん、日本に帰ってきたら京都にいこー! #旅行計画をたててどーする(^^ゞ
◆昔の今日の記事
悪友その1が「復活にだいぶ時間かかってるじゃん。インフルエンザだったのかい?」と。
私がそうだというと
「高熱でたの? ノドは? お腹くだる? 薬は医者にあったの?」 と矢継ぎ早の質問。 私はここぞとばかり胸にたまってたことを切々と話した。
「大変だったねー。私はまだ今年は風邪にもかかってないが。ひどいんだねえ。こうやってしゃべってるのつらくない? 大丈夫?」
たしかにまだしゃべるのはちょっとつらかったんだが、しゃべりたいことをたくさん話してなんかすっきりした。 お見舞いありがとう! と心から感謝。
んで、 ご近所のA夫人+数人。 「蓮見さん、インフルエンザにかかっちゃったんだってー?」 どこぞから情報を得たらしい(^^ゞ
私がそうだというと
「私もさー、年末に罹っちゃって大変だったんだよー。熱出るしさー、薬は無いしさー」 その後A夫人は、自分の経験をとうとうと述べはじめた。 でその話のはしはしで 「お腹くだるんだよねー」とか「食欲なくなるでしょ?」などと私にふる。
私、言葉は相づちぐらいしか発しなかったが、なんか胸がもやもやして急にしゃべるのがつらくなった。 「まだ本調子じゃなくて。失礼しますー」とその場を去った。
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よく、「同じ経験した者にしかその気持ちはわからない」とか「いろいろな経験をすると気持ちが優しくなれる」とかいうが、 それはそれで確かに真実の部分もあるのだが、 そこに実は大きな落とし穴があるのに気がついた。
『同化』という落とし穴である。
自分も同じ経験をしたので、 やはりそうであるあの人も私と同じ思いになるだろう、同じようなことをしただろう、同じような状況になったに違いない。 と 自分のことをそのまま相手に当てはめてしまうこと。
そして「相手に対して優しくなる」どころか、 「私もそれとっくに経験してるんだからあんたよりわかってるのよ」 というような優位を見せ付けてみたり、自分のそのときの判断や考えを押し付けてきたりするようになる。
まったく同じ場にいて同じ体験をしても、 それぞれの考え方感じ方、そして目にしたものさえ違う。 私は私。あなたはあなた。 これを絶対忘れちゃいけない。
が、人はしばしば忘れてしまい、話相手の心にしこりを残す。 それだったら、同じ経験のないほうが却ってよかったりするのだ。
インフルエンザに罹ったことのない悪友は、 インフルエンザに罹ったA夫人よりもずーーーーと多くの元気を私に与えたし、 私は私で「インフルエンザに罹ってないから私の本当の苦しさは分からないのよ!」 などとは全然思わなかった。
・・・これはなかなか示唆に富んでる話だな。
と、まてよ。 私はヘルパーの仕事をしてて、 自分の人生経験の乏しさをいつも嘆いているが、 それが却っていいほうに作用することもあるのかもしれない。 また、経験がないから心を寄せられないとか元気付けられないとかいうのは、違うような気がしてきた。
・・・ふ〜む。なーるほどね。
◆昔の今日の記事
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