江草 乗の言いたい放題
コラムニスト江草乗の日記風エッセイ
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2015年01月30日(金) |
タリウム少女は猟奇殺人の夢を見るのか・・・ |
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せっかく名古屋大学理学部に入学しておきながら、人生の目的が「人を殺してみたかった」とはいったいなんだ。同じ高校の同級生に薬物を使って取り返しのつかない障害を与えてしまうなんてどういうことだ。オレはこういう類いの「サイコパス」という人種が一番嫌いだ。その存在そのものが平穏な市民社会にとって脅威だからだ。
彼女は自分のプロフィールに、将来の進路として「刑務所」「拘置所」などを書いている。これは将来犯罪を起こすことや、それが死刑になるような重大事件であることをすでに予定していたということである。未来の殺人を予定していて、ところが目の前にいつでも殺せそうな獲物があって、ついつい犯行に及んでしまったという感じなのだ。なんて危険な存在なのだろうか。
ついこのあいだ、佐世保では少女が同級生の首を切るという事件が起きた。どうしてそんな残虐な行為がいとも簡単にできてしまうのか。オレは恐ろしくてならないのである。殺された人の人生はその瞬間に終わる。殺人は一個の人格の将来の可能性まですべて奪ってしまう罪である。それをまるで娯楽のように行えることがオレには恐怖なのだ。まだ強盗や保険金殺人の方が動機が明確だ。「殺人」という行為を「遊び」の延長線上でできてしまうことをオレは強く恐れるのである。
こうした「サイコパス」に対して教育は無力である。佐世保では過去に起きた事件を踏まえて「命の大切さ」を学校で教えていたらしい。そういう活動を行ったところで、一般生徒と全く違った感覚を備えた「サイコパス」たちには何の効果ももたらさない。では我々一般市民はこういう人達の攻撃に対してどのように対処すればいいのだろうか。目の前の相手が「サイコパス」であることに気づいた時、どうやって逃れればいいのか。
今回、宗教の勧誘に来た女性を殺した19歳の名古屋大女子学生は、サークル活動にも所属していてその動画もネット上に存在した。高校までは普通に生活し、受験勉強して名古屋大学に合格することもできた。その本性を隠して一般人の中で過ごしていたわけだ。そして高校時代の起こした毒殺未遂事件は容疑者が特定できないままの完全犯罪だったのである。今回の事件を起こさない限りその犯人が明らかになることはなかっただろう。警察も学校も犯人を特定することができていなかったのだから。
しかし、「サイコパス」の思考回路は違うのだ。普通の人なら犯罪がばれないように・・・と工夫する。しかし、「サイコパス」は犯罪を「悪」であると考える能力が欠落している。だから逆の行動を取る。「自分がしたことを世間にわかってもらいたい」ということだ。今回の報道を逆手にとって、「昔はこんなすごいこともしていたのよ!」と言いたいのだ。
これまで多くの「サイコパス」たちが事件を起こしてきた。池田小学校事件の宅間守などはその代表例である。今回事件を起こした名古屋大女子学生は、そうした犯罪者たちへのあこがれを自分のブログに綴っていたという。その時点で彼女の異常性に周囲は気づいていたのだろうか。その異常な心に向き合うことのできた誰かはいなかったのだろうか。
もちろん、彼女は友人でさえも変な毒を飲ませたりするわけで、異常な心に向き合う前に殺されてしまうかも知れない。彼女の親は娘の異常さに気がついていたのだろうか。異常さを知りながらも、家を離れてくれることで安堵したのではないか。
ウィキで「サイコパス」の項目を調べると、次のような特徴があると書かれている。
良心が異常に欠如している 他者に冷淡で共感しない 慢性的に平然と嘘をつく 行動に対する責任が全く取れない 罪悪感が皆無 自尊心が過大で自己中心的 口が達者で表面は魅力的
名古屋大女子大生がこの項目にどれだけ該当するのかわからない。オレが想像するのは映画にもなったあの貴志祐介の小説、『悪の経典』の主人公のような異常者である。そんな恐ろしい存在が現実世界にいるのならば、どうやって我々は自分の身を守ればいいのか。
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2015年01月26日(月) |
映画『KANO〜1931海の向こうの甲子園〜 』 |
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かつて台湾は日本の植民地ではなくて、日本の一部だった。そこに住む人々は日常的に日本語と母語を使いわけ、日本式の学校に通っていた。もちろん朝鮮半島にあった学校ではハングルが教えられたし、台湾では中国語が教えられたわけで、学校には文字の読めない人をなくすという大きな意味があった。
日本は台湾の農業生産性を向上させ、人々を豊かにするためにさまざまな投資を行った。当時世界最大規模だった烏山頭(うさんとう)ダムを建設し、大規模な灌漑工事を行うことで耕地面積を拡大した。ダムが完成したのは1930年のことである。その翌年の1931年の夏、台湾代表の台南州立嘉義農林学校が夏の全国中等学校野球選手権大会に出場した。嘉義農林は勝ち進み、決勝戦で中京商業と対戦したのである。
嘉義農林を甲子園に導いたのは、近藤兵太郎さんというすぐれた指導者だった。野球の名門である松山商業での監督経験もある近藤氏は、嘉義農林の監督に就任すると部員たちに厳しい練習を課した。島で暮らす子どもたちにとって、「甲子園」と言われてもそれがどんな場所なのかピンとこなかっただろう。船に乗って遠くに出かけるなんてこともまた夢のまた夢だったのだから。
「一球入魂」である。一つの目標に向かって必死で努力する姿はかくも美しいものかと思う。映画は一度も勝ったことのなかった弱小野球部が少しずつ力を付け、そして地元の人達に支えられて甲子園で活躍する様を活写する。3時間20分という長さを全く感じさせない、最後まで画面から目を離すことができないすばらしい作品だ。
オレはこの映画を観ていて、何度も涙がこみあげてきた。それはこの映画の持つ素朴なひたむきさにうたれたからかも知れない。野球をテーマにしてながらほとんど野球をしている場面ので出てこない映画『バンクーバーの朝日』とは対照的に、映画の中では緊迫した野球のシーンが続く。選手として登場する出演者たちは撮影開始の前に3ヶ月の間、野球合宿を行ったのだという。有名な俳優に「野球のまねごと」をさせるのではなく、映画の中でもきちんと野球をさせることにこだわったからこそ、完成度の高い作品になったのかも知れない。
オレはこの映画が製作されたことを知った時、ものすごく興味を持った。アジア映画祭で上映されたときは日程が合わなくて観に行けなかった。台湾で公開され、興行成績がよかったという話を聞いてますます観に行きたくなった。日本統治時代の台湾を映画がどのように描いてるのか、そして台湾の人がどうしてこの作品を強く支持したのか、その理由が知りたかったのだ。実際に観てみるとその謎はたちまち解けた。単純に映画のテーマとなった題材がすばらしいだけではない。そこに出ている台湾人の俳優たちの必死の演技が観る者の心をうつからである。
台湾の人達にとって、日本統治時代はどのような時代だったのだろうか。現代の台湾の若者たちはその時代の歴史をどのように学んでいるのだろうか。東日本大震災の時に台湾が届けてくれた巨額の義援金は、彼らが日本を友邦として認めてくれていることの証である。我々はそのよき隣人として、両国の人々が交流できるように心をくだく必要があるだろう。
勝手な願いだが、この映画『KANO〜1931海の向こうの甲子園〜 』はできることなら中国や韓国の人達にも観てもらいたい。彼らが声高に主張する「反日」というイデオロギーの空しさを理解し、我々がアジアの隣人として共生していく可能性を理解してもらうためにも、ぜひとも知ってもらいたい実話なのだ。
日本はかつて大東亜共栄圏というものを夢想していた。満州国は「五族共和」の精神が具現化した理想郷になるはずだった。西欧列強と対等に戦えるアジアの盟主として日の丸は植民地支配打破の希望の旗印だったのだ。ところがこの映画の中ではそうした政治的なものとは無関係に若者の無垢な心が白球を追う。ただ純粋に野球に打ち込むその美しさが観る者の胸を打つ。『KANO〜1931海の向こうの甲子園〜』は最高の野球映画である。オレは久々に魂が揺さぶられるような感動を味わった。
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2015年01月22日(木) |
人質にゼニを払うということ |
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イスラム国が日本人二人を拘束し、身代金2億ドルを要求している。安倍晋三首相は「全力で人質を救出するために交渉する」と宣言しているが、そもそも人質を安全に取り戻すためにはゼニが必要であり、そのゼニを支払うということはどういうことになるのか。目の前の出来事だけではなくて今後起きることを考えるべきではないのか。オレはそういうことを思うのである。
ここで日本政府のとれる選択肢は3つだ。
A:ゼニを払う(相手が人質を本当に返してくれるかどうはわからない) B:ゼニを払わずに人質奪還をあきらめる C:ゼニを払わないけど人質をなんとか取り戻そうとする
また、イスラム国のとれる選択肢はこの4つだ。
D:ゼニを受け取って人質を解放する E:ゼニを受け取ったけど人質は殺す F:ゼニをもらえなかったので人質は殺す G:ゼニはもらえなかったけど人質は解放する
組み合わせとして考えられるのは
AD(ゼニを払い人質を解放してもらう) AE(ゼニを払ったけど人質は殺される) BF(ゼニを払わずに人質が殺される) BG(ゼニを払わなかったがなぜか人質は解放される) CF(ゼニを払わないままに人質奪還を強行して失敗し、人質は殺される) CG(ゼニを払わないままに人質奪還に成功する。)
の6つである。この6パターンの中でどうすることがベストなのか、そしてそれが実現不可能なときの次善のパターンはどれか。というふうに考えていく必要があるのだ。
日本政府にとっての理想的な解決はCGである。ゼニを払わずに人質が解放されるというパターンである。これはよっぽど強力なパイプがイスラム国幹部と交渉人の間にないと無理だ。現実問題として日本はイスラム国と交渉するルートもないし、そういうしかるべき人物もいない。獄中の重信房子でもかつぎだせば交渉役となれるかも知れないが、そもそも服役中の人を使者にするなど非現実的な発想である。そのまま逃亡して亡命する可能性も高い。
イスラム国にとって、ここで人質を殺してしまえばもはや交渉の手段がなくなるわけで、重要な金づるだが、絶対に殺さないとなれば身代金ももらえない。そういうわけで時々流す人質殺害動画は「本当に殺します」という脅しなのである。
今ここでゼニを払って人質を解放してもらえたとして、オレが想像するのは今後のことである。少なくともイスラム国側としては「日本人を誘拐したらゼニになる」ということが明らかになるわけだ。「誘拐」→「身代金ゲット」という流れになればそれが彼らにとっての新たなシノギになる。その結果、次の獲物を求めてシリアに限らず中東諸国で日本人が拉致監禁される事件が起きるだろう。ここで下手に身代金を払ってしまえば、それが悪しき前例となってしまうのである。残酷な言い方だが、今人質になってる2人を守ることによって、将来に起きてしまう無数の誘拐事件のことを考えた時、身代金を払うことはかえって問題を大きくするということがわかる。そうなると上記のADという選択肢は、将来に禍根を残すという意味でもっとも取ってはいけない方法ということになるのである。
そうしてゼニを払うのを除外すると、残された選択肢は次の4つだ。 BF(ゼニを払わずに人質が殺される) BG(ゼニを払わなかったがなぜか人質は解放される) CF(ゼニを払わないままに人質奪還を強行して失敗し、人質は殺される) CG(ゼニを払わないままに人質奪還に成功する。)
「ゼニは払わない」とはっきり日本政府が表明した場合、この4つのいずれかの結末になるということだ。そして日本にはイスラム国を急襲して人質奪還作戦を行う組織も人材もない。「ゴルゴ13」は劇画の中にしかいない。そうなると残された選択肢はBF・BGの二つということになる。すべてを相手方に委ねて「今回ゼニは払わないし、今後も払わないけどどうしますか?」という意志を表明することになる。ゼニが取れない以上、イスラム国にとっては殺したからとメリットが発生するわけでもない。しかし、簡単に解放すれば「ゼニを払わなくてもいいんだ」ということになり、他国との人質交渉に影響する。そうなるとやはり、イスラム国側としては人質殺害という手段を選ぶことになってしまう。
このようなことを書くと、オレが不人情だとか、日本人なのに人質の無事をなぜ祈らないのかなどと言われることになるわけだが、オレは今そうした個人的感情を一切廃して、ただ起きている出来事だけを客観的に分析して語っているのである。
日本政府、そして安倍晋三首相はどんな答えを出すのか。オレは状況を見守るしかないし、こうして事件について書くことで、イスラム過激派のどんな攻撃があるだろうかとおびえている。彼らのテロには明確な理由や方針などないからだ。
先進国から流れた大量の武器が、テロリストたちの手に渡ってこういう恐ろしいことがおきた。もしも核兵器を入手したテロリストがいれば、きっと実際に使われることになるのだろう。長距離ミサイルも発射装置もいらない。おそらくその核兵器は自爆テロの形で用いられるだろうから。
そうそう、こういう可能性を忘れていた。もしも日本の首相が織田信長だったらこう言っただろう。「殺してみろ、報復におまえの国を皆殺しにするぜ!」
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2015年01月20日(火) |
50年後の未来を予想する・・・ |
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50年先にはオレはもうとっくに死んでるだろう。だからそんなことはオレにはどうでもいいことなんだが、これから世界がどうなっていくのか、オレなりに予想してみたい。
まずヨーロッパやアメリカだが、これからも移民は増えるし、イスラム系の住民も増える。フランスやドイツは50年後には人口の過半が非白人になってるだろう。今はまだイスラム系住民は少数派なんだが、いずれその人口は過半数を占めるとオレは予想している。人口で過半数を割ってしまった白人はいつのまにか差別や迫害を受ける少数派となってしまうのだ。50年後には確実にそうなってるとオレは予想する。もちろんこれから先、激しい移民排斥運動などが起きるだろう。しかし、すでに居住している人達の子孫がどんどん増えるわけで、そうなると増加は止められないのである。
アメリカも移民の流入が止まらない。キューバとの国交を回復したら当然大量の人々がアメリカにやってくるだろうし、中国からもどんどん自国を逃げ出した金持ちが流れ込む。ただ、イスラム系の人々の流入は地理的な理由からヨーロッパほど多くはない。
イスラム国やボコハラムのような勢力はさらに増加して、アフリカは事実上群雄割拠の状態になるだろう。欧米の諸国にはもはやそこに治安部隊派遣や人道支援をする余力はなく、資源獲得目的の外交で軍事政権と野合するしかない。
アジアはどうか。中国人は大量に日本に流入し、規制しない限り50年後には日本の人口の過半数は中国系住民になってるかも知れない。少なくとも1000万人以上の中国系住民が居住する状況になってることは間違いない。日本は遠からず中国に完全に支配されるようになるだろう。
中国は沖縄の人達の基地反対運動を背後で操り、もしかしたら独立運動を起こそうと企んでるのかも知れない。仮に沖縄が独立すればたちまち中国の支配下におかれることとなるだろう。米軍基地の代わりに中国軍の基地が置かれ、やがてそこは日本本土完全支配の向けての根拠地となってしまうのである。アメリカにはそれを阻止する力はない。アジアは完全に見捨てられ、ハワイを境に太平洋はアメリカの勢力圏と中国の勢力圏に分けられるだろう。
50年後の世界は、イスラム勢力圏と中国、この二つの勢力の覇権争いになるだろうとオレは予測する。ヨーロッパはすべてイスラム国家になり、アメリカはイスラムと戦う気はないのでアジアやヨーロッパからは手を引く。中国はどんどんアジア支配を強めてオーストラリアやインドネシアも勢力圏に入れるだろう。かつての二大超大国だったアメリカとロシアは、その覇権争いの蚊帳の外に置かれることになる。フランスがイスラム国家になることによってイスラム勢力も複数の国が核兵器を持つことになり、世界の軍事力バランスは今とは全く違った状況になるだろう。
中国は日本と領土を争ってる場合じゃないんだ。イスラム圏との対決のためには日本と手を取り合うパートナーとなること目指さないといけない。イスラム国家vs中国・アメリカ・日本・ロシアというふうに、非イスラム国がすべて連合しないといけないのだとオレは思うのである。もちろんそんな連合は作れないだろうし、おそらくイスラム諸国は中国やアメリカよりもはるかに親日的だ。トルコやインドネシアは日本びいきの人が多い。日本にとって現実的な路線は「イスラム化」することかも知れないのである。
また中国側からみれば、日本との対等の関係なんてまともに考えてないわけで、隷属させるか植民地支配するかの二択だろう。50年後には日本や韓国は中国の一つの省になってるのかも知れない。ただ、中国が日本を完全に支配下にしてしまったときには、もはや日本民族の持つ長所もすべて失われてしまってるだろう。そのときはたぶんノーベル賞を取るような学者もすぐれた文学作品ももう出てこないことになると思う。なんの個性もないただの一地域になってしまうのである。
日本が中国の属国化を防ぐ方法はただ一つ。中国以外の移民も大勢受け入れてしまうのである。イスラム教信仰者が3割を占めるとかいうふうにしてしまうのだ。そうして日本列島を多民族国家にしてしまって、人々を結びつける共通のアイデンテティが「日本文化」であるという状況を作り出せればいい。
そんなふうにオレは未来のこの国の姿をあれこれと想像してしまうのだが、実際にどんな状況になっていくのかを確かめるすべはない。足腰が立たなくなっても生きてさえいれば世の中の推移を眺められるのだが、あと20年も経てばきっと頭もぼんやりとして何も考えられなくなってるだろう。 ←1位を目指しています! m(_ _)m 投票博物館
2015年01月17日(土) |
あれから20年〜 震災によって何が変わったのか |
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阪神大震災から20年経った。東京ではそうではないのかも知れないが、関西のテレビやラジオはこの時期になると必ず震災に関する特集が組まれる。あの震災で友人・知人を亡くした人は回りにいくらでもいる。多くの人命が失われたことは事実だ。
震災による犠牲者は年齢性別関係なく、あらゆる階層の人々の生命を等しく奪っていった。生まれてまもない幼な子も、一家の大黒柱の父親も、入学試験を控えた受験生も容赦なかった。
古い耐震基準で建てられた多くの木造住宅が全壊し、その下敷きになって圧死した多くの犠牲者があった。新築二ヶ月で全壊した家もあった。地震によって命を奪われたのではなく、安全ではなかった建物によって命を奪われたのだ。オレが経験した震度5〜6程度の揺れでさえあの時のオレは生きた心地がしなかったのだ。激しい揺れの直撃を受けた多くの人々が、気がついた時には崩れた家の下敷きになっていたのである。脆弱な構造の木造住宅の多くが凶器となったのである。
もちろんマンションのような集合住宅にも全壊、半壊のものが多かった。あのとき某ディベロッパーのマンションはほぼ壊滅状態だったため、今でもその業者は関西では全く人気がない。週刊誌の記事にはならなかったが、口コミで多くの人がそのウワサを共有したからである。
日本という地震国に住む以上、地震や津波という災害から逃れることはできない。だから常に起きた時のことを考える必要がある。地震が起きればたちまち崩壊して凶器と化すような脆弱な構造のマンションや住宅を販売する業者は未必の故意による殺人者であると言える。住宅の耐震性というものはあれから飛躍的に向上した。今、阪神間を同程度の地震が襲ったとしてもおそらく被害はかなり少なくなるだろう。あの震災で払った犠牲は大きかったが、そこから我々が多くのことを学んだのは事実なのだ。高速道路橋脚の耐震補強も進んだ。被害がゼロになることはないと思うが、少なくともリスクは大きく減少した。少なくともきちんと耐震構造になった住宅に居住する限り、家が崩壊して命を奪われるというリスクはほぼなくなったはずである。
しかし、あの震災で失われたものは人の命だけじゃない。震災による破壊はそれまで長い歴史の中で連綿と続いてきたその地域のコミュニティを破壊した。それまでの地縁から切り離されて仮設住宅に入居した人々の多くはもとどおりの地域や隣人に囲まれることなく、抽選の結果として遠くの市営住宅に入居したりしてちりぢりばらばらになった。
被害の大きかったJR長田駅周辺にあった小さな工場や商店の多くは、神戸市の手による再開発によってその地を追い出された。住民の中には住み慣れた土地を売却して他へ移り住む者も多く、新たに建てられたマンションには古い住民とは何の接点もない人達がやってきた。地震による破壊の後に発生したのは、神戸市という行政の手による「再開発」という名のコミュニティの破壊だった。なぜ「開発」する必要があったのか。どうして「復旧」ではダメだったのか。もとのままの街を取り戻すということをなぜ第一に考えてくれなかったのか。第二次大戦で破壊されたポーランドの首都、ワルシャワの旧市街が壁のひび割れに至るまで再建されたことと比較すると両者の意識の隔たりはあまりにも大きい。埋め立てた土地を売却して市の収入にしてきた神戸市にとっては、震災復興もまた一つの「地上げ」のチャンスだったのだ。
オレが生きてる間にもう一度大きな地震や災害に遭遇するのかどうかはわからない。ただ、もしもそうした災害に巻き込まれたらどうしたらいいのか。その時に何をするのが最善のことなのか。阪神大震災の時に起きたさまざまな出来事を知ることは、もしも自分が同じような事態に遭遇した時にどうすればいいのかということを示唆してくれる。あの時直ちに作業服に着替えて救援隊を組織し、周辺住民の救助に回った神戸商船大の学生たちの活躍があった。直ちに徒歩で2キロ離れた県庁に向かうこともせず、迎えの車が来るのをのんびりと自宅で待っていた貝原俊民という脳天気なオッサンが知事だった。一歩家から外に出れば自分の目で被害の大きさを知ることもできただろうし、災害要請を直ちに行うこともできただろう。目の前の出来事を理解していなかった知事の判断の遅さのために失われた多くの人命があったとオレは思っている。
あの時義侠心から原付バイクで救援物資を配った一人の作家は後に政治家となった。田中康夫さんである。彼の評価はさまざまだが、少なくともオレは貝原俊民よりもはるかに「人間として信頼に値する存在」だと思っている。
我々が今の平穏な生活を営むことができるのは、これまで多くの犠牲によってさまざまなことを学んできたからである。そのことを忘れてはならない。あの震災の時、家の下敷きになった人達を救ったのは、近所の住民や自衛隊やボランティアの学生たちだった。そして、救助が間に合わずに失われた命の前で多くの人々が涙を流した。その涙の意味を我々は理解しないといけない。
神戸震災日記 (新潮文庫)
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2015年01月16日(金) |
愉快犯には重い罰を与えるべきである |
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オレがこの世でもっとも嫌いなのは、悪いことをして自慢するクソ野郎だ。万引きの戦果を自慢したり、だました女の数を自慢したり、カンニングして高得点とったことを自慢したりする馬鹿どもである。
そういう馬鹿にとって、ツイッターやフェイスブックは格好の「自慢できる場所」ということになるらしい。そういうわけで動画サイトに自分の万引き行為を投稿するクソガキがいたのである。こういう「悪いこと」とわかった上で平気でその悪いことをしまくる人間にはどういう罰を与えればいいのだろうか。
その万引き自慢の馬鹿は、もっと世間の目をひこうと思ったのか、「じゃがりこ」につまようじを突き刺すという愚行に及んだのである。防犯カメラなどでこの少年は特定され、警視庁は三鷹市内に住むこの少年の逮捕状を取った。この馬鹿は、以前にもネットに「殺害予告」などを書き込んだ犯罪で逮捕され、現在保護観察中の身分だったらしい。さっさと死刑にしてもらいたいところだが、日本の法律では軽い罰しか与えられないのである。オレが裁判官なら懲役20年くらいは与えたいところだ。いちおう警視庁は「窃盗」容疑でこの少年を追ってるわけだが、つまようじ混入事件に関しては「威力業務妨害」などの罪状も適用されることになるだろう。
この少年に代表される自分のお馬鹿な行為をわざわざツイッターなどに投稿する「バカッター」はなくならない。それが世間で話題になって、普通の人間なら「あんなことするとまずいよな」という常識的な判断をするわけだが、バカッターたちは逆のことを考えるようである。「あの程度で話題になるのなら、オレはもっとすごいことしてやるぜ!」という具合である。もうどうしようもないのである。
オレはこのような馬鹿が怖い。馬鹿にとっては「馬鹿である自己」こそが自慢であり、普遍的日本人の持つ「恥の文化」はそこには存在しないのである。馬鹿にとっては自らが馬鹿であることを世間に知ってもらうことが自己の存在証明みたいなものなのだ。それだけにまことに困った存在なのである。
貴重な文化財に落書きしたり放火したりというテロ行為も、オレのようなまっとうな市民の感覚では「言語道断」なんだが、馬鹿にとってはそれらの文化財を破壊することで自己顕示欲が満たされるのだ。だから馬鹿は世界中で文化遺産などに落書きするのである。全くもって許しがたいことである。
人に迷惑を掛けることを快感に感じるようなクズはしっかりと世の中から駆除すべきである。今回逮捕状を取られた少年も顔写真を出して全国指名手配にして、早急に身柄を確保した上で厳重に処罰してもらいたい。19歳という未成年であっても大人同様に刑務所にぶちこんでもらいたい。こんなクズ野郎は少年法の精神で守られるには値しない存在である。全くもって許せないのである。
最後に付け加えるなら、オレは「じゃがりこ」が大好きだ。そのオレが大好きなお菓子に対するこのようなテロ行為はそれだけで断じて許すべきではないのである。もしも他のお菓子ならオレの怒りはさほどでもなかったかも知れない。よりによって「じゃがりこ」に対してテロを行ってしまったこのクソ野郎には天誅が下されるべきだ。
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2015年01月12日(月) |
発電所は思い切って分散させるべきである |
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火力発電所のエネルギー効率はせいぜい30〜40%らしい。発電に燃やした燃料の出した熱量のうちのかなりの部分が無駄に捨てられているのである。原発も消費地からかなり遠隔地に立地している関係で送電ロスが大きい。そうなると電気はもっと都市で生産できないか、いっそ使用する家庭で作り出せないか・・・そんなことを思っていると、今、都市ガスを燃料にして発電する「エネファーム」という家庭用燃料電池が徐々に普及しつつあるらしい。エネルギー効率は実に80%だ。これで家で使う電気の70%をまかなえるのだという。だったらそのエネファームに太陽光発電を組み合わせれば、家庭で消費する電気を100%まかなえるのではないだろうか。
「エネファーム」の初期導入コストは今180万円ほどかかる。これで年間8万8000円の電気代が節約できるという。導入コストのもとを取るのに20年もかかるわけで、まだまだこれでは高すぎるのだが、もしも今の半値くらいになれば10年で減価償却可能となる。それくらいに値下がりすれば一気に導入する家庭は増えるだろう。
この家庭用燃料電池を多数設置して、発電したものをどんどん電力会社に売るということはできないのだろうか。仮にその「エネファーム」の発電にかかるコストが、電力会社の買い取り価格を下回るようになればその差額が設置者の利益になるのである。
もちろん「エネファーム」は燃料電池として電気を生み出すと同時に熱湯も作り出す。その熱湯をなんらかの形で役立てないと意味がない。エネルギー効率80%ということはその温排水を利用することで達成されるのである。
だったらたとえば銭湯を設置するとかいう風に活用できないか。あるいは賃貸マンションに巨大な燃料電池を設置して、「電気代がいらない上にいつでも入れる大浴場があるマンション」として入居者を募集できないか。そんなことを思うのである。
できるかどうかわからない原発の再稼働に望みを託すのではなくて、電気をそれぞれ一軒一軒で作って使うという方向性は目指せないだろうか。もちろんガスの供給が停止すればたちまち電気が作れなくなるので停電するわけだし、耐震性に関しても送電線よりもガス管の方が不安がある。しかし、小規模発電を増やして電力需要の一部をまかなうという方向はそれなりに効果があることではないだろうか。
そしてオレが考えるのは、太陽光発電している家が売電収入を得られるのならば、「エネファーム」でも同様に売電できないかということなのだ。銀行から融資を受けてコストを掛けて複数台設置しても、売電収入がその設置費のローンを払う以上にあるなら採算性はあるということになる。「エネファーム」を冷暖房に活用可能ならば、病院や学校のような施設に設置することで売電収入も見込めるということにはならないか。
これだけ空き家が増えてしまうと、賃貸アパートやマンションを持ってることはもはや副収入としては期待できない。むしろ今後はそういうものは不良資産化する可能性が高いのである。実際に家賃の相場はどんどん下がっているじゃないか。投資用のマンションを販売するというどこかの詐欺会社のビジネスモデルはとっくに崩壊してるのである。
だったら小金持ちにはどんな資産運用の手段があるのか。もちろん配当利回りのいい株式を保有するというのもいいだろう。また金利の高い外貨預金をするという手もある。それ以外の資産運用の手段として、都市部の分散型発電システムであるこの「エネファーム」をもっと活用すべきなのだ。一つ一つの発電能力は低くても、台数が増えれば大きな力となる。
自然エネルギーの普及には実際にはさまざまな障害がある。風力発電は低周波騒音による健康被害を引き起こしてるし、太陽光発電パネルは経年劣化で発電能力が落ちる。そして当然のことだが天候に左右される。その点「エネファーム」はいつでも24時間発電できるのである。
設置コストが今の半分くらいになるためには何が必要なのか。日本の工業技術はそれを可能にすることができるとオレは信じている。そして将来、原発に代わりうるものはこの家庭用小規模発電システムかも知れないのである。
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2015年01月09日(金) |
テロリストと戦うとはどういうことか? |
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パリにある風刺週刊紙シャルリー・エブドの本社が武装したテロリストに襲撃され12人が死亡するという痛ましい事件が起きた。オレは暴力を肯定することはないし、この事件で悪いのは100%テロリストであるということは誰にでもわかる。
しかし、この風刺週刊紙はイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を繰り返し掲載し、イスラム過激主義者による脅迫の対象となっていたという。つまり先にケンカを売ったのは他でもない新聞社の方だったということになる。相手が狂気の集団であることをわかっっていてケンカを売った以上、それなりの覚悟もまた必要だったのではないか。相手が自分たちにテロを仕掛けてくることは十分に予想できたはずだ。警官一人を常駐させたところで防げる相手ではないのである。どうしてもっと対策をたてなかったのか。
テロリストがなんらかの攻撃を仕掛けてくることは相手からの脅迫で明らかであった。だから警官も常駐していたのである。しかし、武器を持って奇襲攻撃を仕掛けられた時に十分な戦闘訓練を積んでない警察官がその攻撃を阻止できるとは思えない。だったら本社の建物を要塞化して攻撃に備えるべきだったのである。
監視カメラを多数設置し、赤外線センサーで侵入者を警戒すること。廊下や階段に自動シャッターを設置して、侵入者があればその動きを阻止するために遠隔操作でそのシャッターが閉じられるようにすること。落とし穴や釣り天井、侵入者捕獲用の投網などの罠を仕掛けて、テロリストを迎え撃つための万全の備えをなぜ準備しなかったのか。風刺画を掲載し続けてケンカを売ったということは、相手に攻撃させることが目的だったのではないのか。テロリストを検挙捕捉するためにわざと相手を怒らせたのが風刺画作戦じゃなかったのか。そうやって挑発してながら、攻められた時の対策も立ててないなんてあまりにも無策無謀である。
「ホーム・アローン」という有名な映画がある。あの映画でもわかるようにアメリカでは幼な子でさえもちゃんと侵入盗と戦うだけの知恵を持っている。材料はすべて家にあるものだけを使って、うまく工夫した仕掛けで悪党どもを見事に撃退して懲らしめているじゃないか。大人の智恵があればもっとちゃんとしたトラップを仕掛けることができたはずだ。うまく侵入者を捕獲できれば、そこから関係者をたどることでフランス国内のテロリストの組織を壊滅に追い込むことだってできたはずである。なぜそうした工夫がなかったのか。相手の攻撃が予測できていたのに無為無策でいた結果、なんと12名もの犠牲者を出してしまったのである。警官を配置してお茶を濁すのではなく、周到に準備して備えるべきだったのだ。
今回のテロ事件を受けて、フランス国内ではイスラム教の礼拝所への爆弾攻撃なども起きているという。そうした憎悪の連鎖が続けば、全く無関係な人の血が流されてしまうのだ。一般のイスラム教徒と過激派とは無関係である。イスラムの教えでは無差別殺人を肯定などしていない。このテロリストたちの集団は宗教とは無関係にただの犯罪者として検挙し、組織を壊滅させないといけないのである。そのもっとも効果的な方法が、周到に陥穽を用意して生け捕りにし、逮捕したメンバーを大衆の目にさらすことではなかったか。そのせっかくの機会を不手際から台無しにしたパリ警察の手抜かりや見通しの甘さをオレは思うのである。
オレはケンカをするときに相手を選ぶ。狂信的な連中とは戦うことを避ける。なぜかというと彼らは命を失うことを恐れず、論理や常識が通用しないからである。○○や××だけは絶対に敵に回したくないし、刺激したくない。
最後に繰り返すが、オレはテロリストの行為を正当化するつもりは全くない。彼らはただの凶悪な殺人者たちだ。即刻射殺されればいいと思っている。ただ、市民がそういう相手と戦うことはきわめて困難だ。無差別テロは絶対に防げない。
しかし、今回の攻撃は決して「無差別テロ」ではない。標的がはっきりしているし、なぜ狙われたのかという理由も明らかである。だったら攻撃されたときにどうやって撃退するかということまできちんと考えておくべきだったのだ。テロリストたちに痛恨の打撃を与えるにはどんな方法があったのか。それを意識して準備するべきだったのである。それがオレは残念でならないのである。
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2015年01月07日(水) |
動物愛護団体の馬鹿 |
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長野県の諏訪大社では、生きたカエルを串刺しにして神前にささげる「蛙狩神事(かわずがりしんじ)」。という行事が行われている。元日の朝、諏訪大社の上社本宮近くを流れる御手洗川に生息する蛙を捕まえ、矢で射ぬき、いけにえとして神前にささげる。その際、国家平安や五穀豊穣を祈願するのである。
この伝統ある神事に対して、なんと動物愛護団体が抗議活動を行ったというニュースを聞いてオレはあきれてしまった。なんという馬鹿だ。無差別に川の多数のカエルを皆殺しにしてるわけではないのである。神事として一匹捕まえて生け贄にしてるのである。なぜそれが非難されることになるのだろうか。 オレはこのクソみたいなことを訴えてる動物愛護団体の連中に向かって言いたい。
「おまえら全員、生き物の命を奪わずに生きてるのか?」
と聞いてみたいのである。我々人間が生きている以上、さまざまな動植物を食料として摂取して生きている。もしもこの動物愛護団体の方々が特殊な身体構造をお持ちで、全く食物を摂取しなくても光合成などの方法で自らエネルギーを作り出すことができ、一切の殺生を行わないで生きている人なら「生き物の命を奪うな」という訴えは正当かも知れない。しかし、たぶんこの似非動物愛護団体の連中は、焼き肉パーティをしていたり、寿司が大好きだったりするのだろう。牛を殺さないと焼き肉は食えないし、魚を殺さないと寿司にはならない。つまり、人は他の生命を犠牲にして生きているのである。「殺すな!」と言うのは無差別に意味もなく殺しまくる不毛の行為に対してだけ言えばいいのだ。
北アメリカに多数棲息していたバッファローを面白半分に撃ち殺したアメリカ人の行為とか、タスマニア島に住んでいた原住民を趣味のハンティングの対象としたイギリス人の行為とかが「野蛮人の行う残酷な行為」なのである。神事としてカエル一匹の命を奪う行為はただの伝統儀式であり何も文句を言われる筋合いはない。
オレは「動物愛護」と声高に叫ぶ連中がたいていイカサマであることを知っている。たとえば戦後間もない頃、日本では鯨肉が国民の貴重な食料として機能していたが、「日本人にもっと牛肉や豚肉を食わせたい」(そうするとアメリカからの飼料や肉の輸出が増える)という意図を背後に隠した「反捕鯨活動」が盛んとなった。建前は「反捕鯨」「かわいいクジラを殺すな」だが、その本音は「日本人よもっと牛肉を食え」なのであった。
南氷洋で調査捕鯨をしている日本の漁船に対して妨害活動をしているシーシェパードの連中は、その反捕鯨活動によって寄付金などを集めることを目的にした金儲けのためのテロ集団である。彼らの行動はすべて馬鹿で金持ちの奴らからの寄付金集めが目的であり、真の動物愛護の精神などカケラもない。また、シーシェパードに寄付してる大金持ちの中には「趣味はハンティング」で、アフリカで大型動物を撃つのが大好きな奴もいるのである。何が動物愛護だ馬鹿。
命を愛するということは、自分の命をかけて守るということだ。映画「風の谷のナウシカ」で、ナウシカが「蟲(むし)を殺さないで」と身を挺して叫んだように、たとえ自分が犠牲になってでも殺すなと訴えることだ。諏訪大社で「カエルを殺すな」とほざいてる連中の中に、「カエルの代わりに私を生け贄にしてください」と本気で命を捨てられる人間がいるか。もしもそこまでやれる人がいるなら、生け贄のカエルの代わりに死ねる人間がいるならオレはその訴えが本気であると認定してやろう。そんな強い意志を持った者など誰もいないはずだ。
ただの政治的主張のために、あるいは金儲けのために「動物愛護」を利用してるイカサマどもにだまされず、人々はその背後にあるものの正体を見抜く目を養う必要がある。何が残酷なのか、何が真の動物愛護なのか。
人々が何気なく食べてるチキンナゲットの鶏はどんなふうに生産されてどんなふうに殺されているのか知ってる人はどれくらいいるのだろうか。きっとこの諏訪大社の神事に抗議してる奴らも、チキンナゲット大好きだったりするのだろう。実にばかげた話である。
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2015年01月04日(日) |
NHKはバラエティ番組を作るな! |
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NHKは日本でただ一つの公共放送である。視聴者からゼニをもらっているのである。最近は「携帯のワンセグからも課金させたい」などと放言してるようだが、ふざけるにもほどがある。先に「もらったゼニをまともに使え!」とオレは言いたいのである。
たとえば大河ドラマだ。オレはNHKがこの種のドラマを作る意図がわからない。これまでずっとやってきたから仕方なく・・・ということなんだろうか。朝の連ドラもそうだ。このような番組はNHKでなくても作れるのである。だったら他局に任せればいいのである。NHKのやるべきことは、他局の作らない報道番組や教育番組を作ることであり、だからこそ広告料に依存しなくてもいいように視聴料をむりやりに取り立ててるのではないか。
NHKはバラエティ番組も作っている。頭の悪そうなタレントが意味不明なギャグをとばしくだらないおしゃべりをする、そんな番組をオレは一瞬たりとも観たくない。しかしそのくだらない番組にもオレの払ったゼニは使われてるのである。実に馬鹿馬鹿しいのである。どうしてこんなことになるのか。多くの不払い者たちの怒りはそこにあるのだ。なんでこんなくだらないもののためにゼニを払うのか!と
また、NHKはアメリカ大リーグの野球中継もしたことがある。そのためには巨額のゼニを支払ったはずである。しかし、NHKのゼニを払ってるのはオレのような野球好きばかりではない。野球に全く興味がない人にまでゼニを負担させるのは根本的に間違ってる。少なくともそういう放送は民放がすべきなのである。オリンピックや高校野球も同様だ。
民放は広告料で運営されている。だからスポンサー様の意向にさからえない。企業の悪やお馬鹿ぶりを追及するような番組は作れないのである。たとえばもはや負け組確定だったプラズマテレビの技術に数千億をついやして新工場をたてたパナソニック幹部がどれだけアホかという検証番組は作らないし、「原発は安全です」というクソCMを垂れ流し続けたことの反省もない。CANONが長期にわたって偽装請負を続け、経団連会長まで上り詰めた御手洗が「偽装請負を禁じているルールの方が間違ってる」と放言したことももちろん叩かない。それはつまり民法がCM乞食になってるからである。かつては消費者金融のCMがバンバン流れていたが、今はそれもなくなって民放各社はスポンサー確保に必死なのである。そんな時に企業批判の番組なんか作れるわけがないのだ。
だからこそNHKは民放がやらないような企画を打ち出すべきなのだ。政治家がウラでどんなことをしてきたかを暴露する番組をじゃんじゃん作るべきなのだ。自動車メーカーがこっそりと欠陥を隠したことを暴露すべきなのだ。外資系の証券会社が銀行と組んでインサイダー取引で巨額の利益を得ていたことを暴露すべきなのだ。国民からゼニを集めているということはそういう意味なのである。
NHKは規模を縮小して、教育番組と報道番組に特化すべきである。なんだか意味のわからない歌謡バラエティ番組になった紅白は即刻廃止すべきだ。あんなくだらないもののためにオレはゼニを払いたくはないのである。そういう番組は民放でも作れるし、むしろ民放の方がまともなものを作れるだろう。まだそこそこの視聴率が稼げるうちに番組そのものを民放に売却すればいいのである。
新聞も週刊誌も、すべてのマスコミは広告料に依存して運営されている。日本で唯一スポンサーのご意向なんてものを考えなくてもいい恵まれた組織がNHKなのである。そのことを意味をNHKの幹部は考えたことはあるのか。自分たちの使命についてわかってるのか。
もしもNHKがこの改革案に着手し、真に報道の自由と正義の実現を目指す組織に生まれ変わるならば、視聴料などとケチなことは言わずに税金で運営すればいいのである。もっともそんなものは権力側にとって困った存在になることは確実だからそのような可能性は基本的にゼロなのだが。
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2015年01月02日(金) |
メガ人力発電所を街のど真ん中へ! |
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ソフトバンクは田舎の遊休地にメガソーラーを建設する計画を進めているようだが、そんなものよりももっとインパクトのある施設をオレは提案したい。それは「メガヒューマンパワー(仮称)」である。巨大な人力発電所を街のど真ん中に設置して、それを人々が交流する拠点にするという提案だ。
そこにはエアロバイクが多数設置され、それぞれのエアロバイクにはICカードが差し込めるようになっていて利用時間が記録される。カードにはその個人がこれまでにどれだけ発電したかという記録が残るようにする。つまり、個人が一ヶ月、一年といった単位でどれだけ発電できたかということを意識できるわけである。一ヶ月がんばって、自分の家で使う電気の何日か分を自力で発電したということになれば省エネ意識も上がるだろうし、何より「自分で電気を作った」という達成感がある。
エアロバイクをこぎながら、目の前のタッチパネルでタブレットを操作していろいろとひまつぶしもできるとか、テレビや映画を鑑賞できるとかいうようにすれば退屈しないだろう。静音型のエアロバイクができれば、映画鑑賞室ルームなんかが可能になる。巨大な「メガヒューマンパワー」は同時に巨大な社交場の可能性を秘めているのである。
ダイエットのためにウォーキングするのもいい。しかし冬は寒いし夏は暑い。しかも夜は場所によっては危険だ。そんなこともエアロバイクならすべて解消できる。
施設の正面玄関には常にリアルタイムでその瞬間の発電量が表示されるようにすればいい。都心部に設置して多くの人が目にするようになれば、立ち寄ってみようという人も増えるだろう。また、身体が疲れればのどが渇く。そこに飲食店を併設すれば必ずどこも繁盛するはずだ。「メガヒューマンパワー」は、それ自体は商業的にペイしなくても、そこが多くの人を集めるという形で街に活気が生まれればいいのである。
たとえば大阪駅前の再開発事業である。まだ北ヤードの貨物駅の跡地が残ってるわけだが、そこにメガヒューマンパワーを建設すればこれまでとは違った人達を呼び込むことが可能になるだろう。
多くの人が使用することに対する耐久性、そして発電に特化することによる性能の向上、そうしたさまざまなクリアすべき困難はあるだろう。しかし実現すればとにかく話題になることは確実だ。そして大都市にはどんどんこの「メガヒューマンパワー」を増やしていけばいいのである。
サラリーマンやOLが気軽に運動する施設を作ることは国民の健康向上にもつながる。有料のフィットネスやジムに通うには、会員にならないといけないし、またそれなりの心構えも必要だ。しかし、気軽に立ち寄れるメガヒューマンパワーならそれこそ着替えずにそのまま軽く10分や20分、エアロバイクをこいでから帰るということもできる。そう、電車の待ち時間程度のわずかな時間でも立ち寄れるようにすればいいのである。
しかもそこでエアロバイクをこぐ行為は、地球環境保護のための小さな努力につながるのである。自分の小さな一こぎが、わずかでも電気を生み出し、人々の役に立つということは日本人のハートに訴求する効果は大きい。
このような荒唐無稽なアイデアに大企業はぜひとも協力して欲しい。シャープや三菱電機、ソニーといった日本を代表する電機メーカーならば、高性能なエアロバイク型発電機の開発も可能だろう。そういう企業の支援があってはじめてこの事業は成功するのである。シャープなどは企業の命運をかけてこのメガヒューマンパワーに乗り出してもいいんじゃないだろうか。あるいは尼崎にゼニを捨てるために巨大な無駄工場を建てたパナソニックにも。起死回生の一手としてお勧めしたいのである。
一人の人間が作り出せる電気はわずかである。しかし、24時間稼働型のメガヒューマンパワーは少しの力を積み重ねることができる。また、エアロバイク型以外の人力発電機も今後開発されるようになっていくだろう。パンチングボール型のもの、ルームランナーのように走って発電するものなどいろいろと工夫の余地はあるはずだ。そうしてさまざまな運動に対応できるならさらに可能性は広がるのである。
ICカードには発電記録だけではなくて血圧やさまざまな健康上の指標を記録できるようになっていればいいだろう。企業などで行われる健康診断の際にわかる膨大なデータをそこに記録しておけば、病院などを受診するときにそのICカードを使うことによってデータ共有がはかれる。とにかく、今後の可能性がどんどん広がっていくのである。
一年間に最も多くの発電をした人が表彰されるということになればきっと足自慢たちが競い合うだろう。そういうつまらないこだわりこそが大事なのである。この「メガヒューマンパワー」という施設は、日本人の国民性に強く訴えかけるすばらしい企画であることをオレは信じて疑わない。
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2015年01月01日(木) |
日本はこれからどこへ行くのか・・・ |
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えんえんとお笑い番組を見ている子どもたちにテレビを支配され、大晦日は紅白歌合戦を見ることができなかった。それで元旦の朝に録画していたのを早送りしながら見たわけだが、どうしてこの番組はこんなにつまらないものになってしまったんだろうか、どうして歌はつまらなくなったのだろうかとオレは考えた。いつから日本の歌はハートを失ってしまったんだろうか。日本語か外国語かわからない意味不明の単語の羅列を、頭の悪そうなヤンキー風の連中が下手くそにつぶやいたり、空虚な愛や恋のフレーズを並べて若い女の子が踊るだけのパフォーマンスになっていて、全然心に残らないのである。
歌はいつから心をなくしてしまったのだろうか。
いや、歌が心をなくしたのではない。日本人そのものががいつのまにか、歌うべき心をなくしてしまったような気がしてならないのだ。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
かつて日本は貧しかった。戦争に敗れ、大都市はみんな焼け跡になってしまい、多くの国民はすべてを失ったところからスタートした。資源もなく土地も狭い日本にとって、富とはすべて「働いて作り出すモノ」だったのである。それから数十年の間に国民が働いて築き上げた資産は日本を豊かにした。いつのまにか国民の多くは「豊かであること」をまるで昔から日本がそうであったかのように受け止め、全く働かない者、努力しない者たちまですべてが「贅沢に暮らす権利」を要求するようになった。
かつての家制度は完全に崩壊した。人々は帰るべき故郷を失い、死んだら入るべき墓もなく、祀ってくれる子孫もないという状況になった。過去から連綿と受け継がれてきた「家」というものがどんどん崩壊しているのだ。子や孫に囲まれて幸せな老後を送れるはずだったのに、いつのまにか家族がバラバラになって孤独な日々を過ごす中で人は生きる望みを失ってしまった。昔よりも豊かになったはずなのに、どうして昔よりも幸せでなくなったのか。どうして貧しかった昔の方がずっと人々は幸せだったのか。
離婚率は上昇して今や50%を超えた。結婚して複数の子どもを作り、子や孫に囲まれて穏やかな老後を過ごすというのは少数派となってしまったのである。かつてはごく普通の家庭の姿だったことが、今は少数派となってしまい、離婚して母子家庭や父子家庭になったり、あるいは子どものないままの独身で年を取っていくことがむしろ多数派を占めるようになったのだ。少子高齢化が進行する背景には、かつての家族モデルそのものが崩壊しているという状況があるのだ。このまま進んだらいったいどうなるのか。
オレは50年後、100年後の日本を想像することができない。もちろんそんなに長生きできない以上、死んだ後の世界がどうなるかはわからないのだが、日本が滅びに向かって進んでいるということだけははっきりとわかる。政治家が真っ先に手を付けないといけないことは、増税でもなければ外交でもない。この少子高齢化という流れ、家族の崩壊という日本社会の状況に関して何らかの対策を講じることではなかったのか。日本が将来も日本として存在するためにはそれがもっとも大切なことだったのだ。
中国は日本や韓国を属国化するために着々と動いている。中国からの移民を制限する仕組みを持たない状況下でどんどん日本に住む中国人は増え続けるだろう。50年後には日本の人口の2割は中国系住民になってるだろうし、100年後には過半数を超える。日本人が減少していくのに、中国人はどんどん流入するからである。そうしていつのまにか政治や経済の中枢を支配していく。それは日本だけの現象ではなく世界中で起きる。沖縄の独立や属国化というちゃちなレベルじゃなく、日本そのものが中国に支配されるのはさほど遠い未来ではない。ウイグルやチベットで起きたことが今度は日本で起きるだけである。移民がコミュニティを作ることに成功して地方自治体を乗っ取ったら、今度は「中国系住民の保護」という名目で人民解放軍が出てくるだけである。そんな事態を予測する政治家は日本には誰もいない。
もしもオレが18歳に戻れるなら、オレは文学部なんてヤクザな世界に進まずに日本をなんとかしたいと思っただろう。このまま滅びに向かう日本をなんとかして救いたいと思っただろう。しかし、オレにはもう時間も体力も気力もない。あとはただ余生を過ごすだけである。日々自分が衰えていくことを自覚している。オレにできることはこうして書くことで訴え、一人でもいいから今の状況に対して若者が危機感を覚えて行動してくれることを願うだけである。
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