初日 最新 目次 MAIL HOME


あるこのつれづれ野球日記
あるこ
MAIL
HOME

2001年11月30日(金)
わかっちゃいるけど、やめられない。


 阪神タイガース球団とは面白いもので、「チームが弱い方が儲かる」のだという。私も頭の隅に知識としてあるし、実際、優勝を目前にして「勝つな」みたいなことを言われた選手もいたと記された記事も目にした。

 阪神タイガースは、特殊な球団だ。それ故に、弱くても客が入る。私もその一人だ。今年は10試合強といつになく頻繁に足を運んだ。阪神がいつまでたっても強くなれないのが、弱くてもファンが球場に足を運ぶから危機感を覚えないことが原因だと言われたら、間違いなく私はその戦犯の一端を担っている。まんまと阪神球団の商法にはまっているのだ。

 本当にチームのことを思うなら、弱いときは心を鬼にして球場に足を運ばずに選手や球団に危機を持たせるべき。むろん正論である。

 しかし、私は弱い今の状態が好きだ。
 対戦カードもなるだけ観客が入らないようなカードを選ぶ。外野席の最上段を陣取って、荷物をおき、食べ物を並べ、足を伸ばして観戦する。それくらいゆったりろスペースが取れると気持ちよく観戦ができる。大体、球場の観客席は狭すぎると思う。

 いつだったか、そんな阪神にも「あまりに弱いから観客が来ない」という時期があった。おりしも新庄選手が大不調で、応援団は新庄の打席のときだけトランペットを吹くのを止めていた。今思えば、それも一種の愛情表現なのだが、当時は「なんで応援しぃひんの?」と頭に来て、観客まばらな外野席で相方と二人、静かなスタンドに新庄のヒッティングマーチをアカペラで響かせた。

 すると、一人また一人とアカペラに参加してくれた。新庄選手にヒットが出た。それを見た応援団が、トランペット演奏を再開した。するとその次の打席で逆転打が出て、そのまま阪神は勝った。小雨の中、枯れた声で六甲おろしを熱唱(?)したのを昨日のことのように覚えている。

 私はこの試合で初めて、「声援を送るとはどういうことか」と知った。今でもあのとき、新庄選手はスタンドの応援に応えてくれたんだと実感している。新庄選手は私に「ファンの存在意義」を教えてくれた貴重な人物だ。

 私の感覚が多少おかしいのかもしれない。でも、弱い阪神タイガースは応援のしがいがある。そして、チームと自分との距離がちょっとだけ縮まったような心地よい錯覚を起こさせてくれる。

 来年も大幅な戦力アップは期待できない、口では、「今年は優勝するで」とか言うけれど、実際はよくて4位か5位だろう。

 でも、それでも私は、ふらふら〜と引き寄せられるように甲子園に足を運ぶだろう。たとえそれが選手やチームを甘やかすと分かっていても、どうせまた負けるやろうと思っていても、好きなものはしょうがない。

 弱い球団は他にある。阪神よりファンサービスの充実した球団やマナーのいい応援団もある。

 それなのに、ただ面白いからと言って、そんなチームを無視して、球場に足を運ぶのは、結果も残していない、努力のあともみられない球団を図に乗らせるだけだ。不平等、理不尽、だから日本野球は…。わかる、わかる、よくわかります。私も日本の野球の発展を願っています。でも、私はどうしても阪神なんです。何故かはわからないんです。

 そう強いていえば、「阪神だから」とでも言っておきましょうか。
 

 
 



2001年11月28日(水)
大阪を元気にするために 〜エキストラ体験記〜


 今日、甲子園に行って、すでにファンの間で話題になっている「MR.ROOKIE」のエキストラをしてきました。人生初のエキストラ体験です。

 映画「MR.ROOKIE」は、長嶋一茂氏主演の野球もの。長嶋一茂氏の演じる「ミスタールーキー」は、昼はビール会社の営業マン、夜はプロ野球選手という「パートタイム覆面プロ野球選手」。阪神タイガースの抑えのエースで、彼の活躍によって阪神が優勝を遂げるという文字通り「夢物語」(それは言わない約束でしょ(^^;))。

 入り口でオリジナルストラップとカイロ1枚をもらい、バックネット裏で待機。グランドをこんなに近くから見るのは初めてだった。ナイターの灯りがやけにまぶしい。

 映画のロケシーンを初めてみた。思った以上に静かな雰囲気のなか、撮影は進んでいった。長嶋一茂氏を生で(それもかなり近い距離)で見た。最初は、誰かわからなかった(近すぎて?)。最前列を陣取るエキストラのヌシと化したコテコテ大阪人のおばちゃんと世間話をしていた。

 エキストラはざっと400人程度いたように思う。子供から年輩の方まで、ほぼまんべんなく人が集まっていた。

 すぐ近くにいたおっちゃんは、野村監督とウリ二つだった。元々「NOMURA」と書いたユニフォームを着ていたし、顔や腹の出具合、声までそっくりでびっくりした。他のエキストラからは「監督、監督」と声をかけられ、握手や写真撮影をお願いされていた。当の本人さんの「最下位ばっかりで、恥ずかしいわ」と言ってなりきっていたところがなかなか笑わせてくれる。

 撮影シーンは、優勝決定戦でのひとこま。
 助監督の若い男性から撮影内容の説明と指示を受ける。

 しかし、困ったことに私は「優勝」を知らない。
 優勝が決まるというときの観客の興奮ってどんな感じなんだろう。演じようがない。ま、いいわ、とりあえずテンションを上げとこ。

 映画によりリアリティーを出すためか、プレーは成功するまでやる。たとえば、三振を取るシーンなら三振が取れるまでやる。ボール球になったら、観客から「しっかり投げろよ、一茂ぇ〜」というヤジが飛ぶ。

 また、大変だったのが、二塁打を打たれるシーンの撮影。狙っての三振やホームランより、実はこの二塁打を狙って打つ方が難しいのでは?とすら思った。ストライクが入らなかったり、外野フライになったり、シングルヒットで終わったり…。あまりにも惜しい当たりには、「CGで加工しろや〜」の声があがった。「頑張れ西田〜(二塁打を打つ選手の名前)」「頼む、打ってくれ」という異様な声援が送られた(下手するとこういうときの方が本番よりいい感じの絵が取れるように思ったのは私だけだろうか)。

 二塁打が出たときに、ほっとして喜ばないよう、気を引き締めてマウンドを見守った。撮影開始から20分が過ぎたところでようやく二塁打が出た。わたしらエキストラが集中力を保つのも大変だったけれど、それ以上にピッチャーやバッターは大変だったと思う。そして、寒い中ずっと半袖でいた主審役の方も。

 夜9時が過ぎたころ、一塁側のイエローシートに移動して優勝の瞬間の撮影が行われた。

 イエローシート。コネでもない限りまず行けないところ。でも、実際座ってみて、それほどいい席でもないことが発覚した。

 優勝が決まった瞬間。ファンが一斉に紙テープを投げ入れるシーンの撮影。残念ながら、私は紙テープを戴けなかったので、声援のみの参加となった。その上、紙テープの芯がもろお尻に当たって痛かった。とんだ災難だ。

 最初は「どうなるのかなあ」と不安になったが、いつも外野で仕切っている黄色いジャージの私設応援団のおっちゃんが来てからは、それなりにまとまり、元気も出てきた。

 鳴り物応援や応援団のあり方のついては、批判非難の意見等も少なくない。しかし、間違いなく日本のプロ野球を支えてきた功労者に数えられるし、カリスマもある。

 終盤は、助監督が「静かにしてください」と何度となく注意するまでのやかましい団体になった。

 最後は、六甲おろしの合唱で撮影が締められた。今日は特に19日にわたる甲子園撮影最終日とあって、今まで参加していたエキストラたちは名残惜しそうに球場を後にしていった。

 甲子園は寒かった。
 途中でおばあちゃんみたいに膝が痛くなった。本当なら、この気候の中、半袖(夏のシーンであるため)撮影だと聞いていたが、今日は上着を脱ぐように指示されたことはなかった。おそらく、半袖シーンは撮影済みなんだろう。
 よかった、最終日で♪

 撮影中、とにかく待ち時間が多かった。撮影って、待つことが仕事と言っても過言ではないかもしれない(カメラさんや道具をセットする人はかなりハードそうだったけど)。

 実は、このエキストラは、ボランティアだ。ケチと言えばある意味大阪らしいとも言えなくもないのだが、前述した通り、多くの人が集まった。

 すぐ後ろに、黄色いシャツに「119」(ミスタールーキーの背番号)というアップリケをつけた気合いに入ったおばちゃんがいた。

 おばちゃんが言った。
 「この映画は大阪を元気にするためにやるんや。せやから、ちょっとでも参加しないとね」。

 私も、そんな元気の素のほんのほんの一部分になれるとこを誇りに思う。

 阪神の元気は、大阪の元気だ。
 野球って、スポーツって、本当にすごい。


追伸:「MR.ROOKIE」は、来春上映予定です。ごく低い低い可能性で私が映ってるかも…??

 



2001年11月27日(火)
独断と偏見の「2001年心に残る甲子園球児ベスト10」

 というわけで、昨日の予告通り(?)心の残った選手を取り上げたいと思います。ことに今回は、「甲子園大会に出場した選手」の限定させていただきました。京都も入れてしまうとあまりにもローカルでどなたも入れない世界になってしまいますので(^^;)。ちなみに今回のも多少立ち入り出来ないワールドに仕上がっております。

 10位 岐阜第一高校・前野祐樹投手(某野球雑誌のカラー写真を見て、「ビビビッ」ときた(>_<)。とりあえず、センバツを見ようと思ったのは彼の存在故。あまり活躍出来なかったけど、もう1年あるからがんばって欲しい)

 9位 智弁学園高校・秦裕二投手(すっらとした体格にあまり焼けていない顔。これぞ「ザ・キング・オブ・ピッチャー」!不運がつきまとったのも印象度を高めた)

 8位 福井商業高校・天谷宗一郎選手(抜群の足。一目見て、素人ながら「いいセンスしてんなあ」と思った)

 7位 関西創価高校・野間口貴彦投手(やはり「生野間口」はすごかった。ピッチングばかりにスポットが当たっているけれど、打ってもすごい)

 6位 日南学園高校・寺原隼人投手(いろいろ言われるがやはりいいものを持っている選手。初戦では、序盤に挨拶程度に速球を投げ、あとは軽く流していた。大物というか風格というかいい度胸というか…。よくよく見れば「かわいい高校球児ちゃん♪」だった)

 5位 近江高校・戸田勝巳選手(守りでリズムを作る近江野球の代表格。ほんまにうまかった。地元出身だからなおのこと応援に熱が入った)

 4位 東邦高校・川畑春介投手(以前にも日記に書いたが、高校野球につきまとう「教育臭さ」とは隔離された希有の存在。見ていて本当に楽しかった)
 
 3位 四日市工業高校・安田雄一投手(日南相手に打たれても打たれても、丁寧に投げてたという印象。どんどん大きくなるスタンドの「安田コール」に彼の人柄を見た)

 2位 近江高校・小森博之捕手(「愛情キャッチング」という新しい言葉を創設した近江野球の要。はきはきした口調に的を得た答え。多少出来すぎてる感も否めないが、あの目は人を惹きつけます)

 1位 近江高校・島脇信也投手(兼外野手)(近江準Vの原動力。投打共にセンスあり。変化球もよかったし、準決勝でのホームランは彼の真骨頂?!ピンチに島脇、チャンスに島脇。あの高校生離れしたふてぶてしい顔も、私的には好印象)

 他。如水館・瀬王投手、玉野光南・藤本投手、弥富・迫主将、花咲徳栄・根元選手など涙を飲んでベスト10圏外となった選手もいます。

 傾向として、やはり投手に偏ったかなと思います。仕方ないです、私は野球ファンになった最初の4,5年はピッチャーしか見ていませんでしたから(^^;)。

 また、上位5位のうち3人が近江の選手ですね。偏ってますねえ。仕方ないです。滋賀は地元みたいなものですから(^^;)。

 さて、明日は順調にいくと、「私のエキストラ体験日記」になりそうです。ですが、気分屋なのでどうなるかわかりません。あまり期待せずにお待ち下さいませ。



2001年11月26日(月)
独断と偏見の「2001好ゲームベスト10」


 3月中旬の岐阜第一高校の練習試合から先日の福井遠征まで、私が(球場およびグランド)で観戦した試合数は延べ90に及ぶ。後半、社会生活をドロップアウトしたため数字を伸ばしたが、当初の目標100には及ばなかった。来年もまた100を目指して頑張りたいと思う。

 そこで、今日はその中でも選りすぐりの試合をベスト10として紹介しようと思う。大半が「そんなん知らんがな」という試合ではあるのだけど(^^;)。

 第10位 9/29 秋季京都大会 東宇治 0−5 平安
 (防戦の魅力を教えてもらった試合。東宇治ナインの健闘を讃えたい。また、平安の赤メガフォン応援団も素晴らしかった)

 第9位 10/20 近畿大会 報徳学園 6x−5 天理(延長11回)
 (逆転の報徳をまざまざと見せつけられた一戦。両チームとも高いレベルで、集中力があったのが好ゲームとなった最大の要因だろう)

 第8位 8/19 甲子園 平安 4−5 松山商業
 (伝統校同志の接戦をナイターが見事に演出。序盤の平安の拙攻が悔やまれる)

 第7位 7/31 プロ野球 阪神 8−0 ヤクルト
 (ファン歴10年、ここまでの快勝を見たのは生まれて初めて。夢かと思った)

 第6位 11/3 びわこ杯 全播磨硬式野球団 4−1 大阪ペーシェンスクラブ(延長10回)・11/3 びわこ杯 ウィーンBBC 5−3 全伊勢崎建クラブ(延長10回)
 (改めてクラブ野球の魅力に取り憑かれた2戦。引き締まった投手戦は、ホームランで幕を閉じた)

 第5位 7/1 プロ野球 阪神 7x−6 ヤクルト(9回逆転サヨナラ)
 (絵に描いたような大逆転劇。カツノリの一撃に泣いたっ!)

 第4位 7/17 京都大会 洛陽工業 10xー9 八幡(9回逆転サヨナラ)
 (取りつ取られつの接戦は、最後までファンを惹きつけた。9回裏に4点差をひっくり返した洛陽工の壮絶な攻撃はお見事。八幡にはあまりにもツキがなさすぎた?!)

 第3位 4/29 春季京都大会 東山 4−5 平安
 (あの平安相手にここまで健闘するとは、投攻守すべてに見応えのあった試合)

 第2位 9/15,16 秋季京都大会 東山 8−8 鳥羽(雨天ノーゲーム)→再試合 東山 5−6 鳥羽

 (総試合時間5時間の激戦。一時は8−1まで突き放しコールドも可能だった?!勝負のアヤを身をもって思い知る)

 第1位 7/19 京都大会 花園 2x−1 京都両洋(延長11回サヨナラ)
(古き良き守りの野球を彷彿させた1戦。両チームの投手や野手も見事だった。もっと見ていたい、まだまだ終わって欲しくない。心からそう思えた試合だった)

 以上、京都在住の阪神ファンにしか通じない好ゲームベスト10でした(苦笑)。

 明日は、心に残った選手2001(高校野球編)でもやろうかと思います。(え、日記じゃない?!まあまあ、オフなんで許してくださいよ(^^;))
 



2001年11月25日(日)
イヤイヤ病(テンションの低い方専用)

 気分が冴えません。
 野球がオフになり、「とりあえずの楽しみ」がなくなったから?
 いえいえ、野球のせいになんかしちゃいけませんね。

 私は、慢性イヤイヤ病という病気を持っています。きっと病院に行ったって治りません。人は「社会性がない」と言います。その通りかもしれません。でも、一度「イヤ」と思ったら、もうダメ。特に、自由という名の自己責任を課せられる社会人というものになったからは年々ひどくなっているように思います。たまに、自分の行く末を案じて鬱状態になります。この日記がスタートした当初(01,4〜)から御覧の方は、一月に1回程度妙にテンションの低い日記があったのでご存じでしょう。

 イヤイヤ病とは、ある特定の事柄を一度「イヤ」と思うと何もかもがイヤになって、その全てを放棄したくなる病気です。理屈を何だかんだつけて自分に言い訳するけれど、いきつくところは結局「イヤだから」。困った病気です。
 
 そして、それを放棄してしまってもなお、そういう行為に及んだ自分をイヤになるというW作用が顕著な特徴です。最近はそうなることを分かっているので、尚更イヤになります。


 さて、今日はせっかくの相方とのおデーを途中破棄してしまいました。
 イヤイヤ病の発作です。山登りがどうしてもイヤだったのです。朝も相方の電話で起こされ、1時間半も待たせてしまいました。その上、いざ山登りをするときに「今日、調子悪いねん…」。イヤになると、ほんまに頭が痛くなったり、気分が悪くなるから不思議です。

 わけのわからない私の行動に、相方は半ギレ。終始口もきいてくれません。山に登って一杯やるはずが、夕方4時半という明るい時間に解散と相成りました。帰りしな、相方には、「社会人して自己管理をちゃんとせなな」というありがたぁ〜いお言葉を頂戴した。

 元々、山登りは好きではありません。でも、今まで2回、それなりに楽しかったし、相方も気を遣っていつもより優しいコースを用意してくれました。何故私がそこまでイヤになったのか、今になってはわかりません。

 今日のことは100%、私が悪いのです。でも、ダメだった。それでも私は全身で山に登ることを拒否した。もうすぐ、相方の誕生日。なんとか仲直りをしたいのだけど。あーあ、やっぱり冴えないや。


 困ったことに、このイヤイヤ病、野球場で発病することがある。
 嫌いなことならいさ知らず。一応、私は野球が好きだ。

 球場で観戦していて、最初は「眠たいなあ」「だるいなあ」程度が段々、「しんどい」「帰りたい」、挙げ句の果てには、「早くここから逃げ出さないと」というところにまで発展する。たいてい、一人で見に行っているときのことなのだが。

 別にだるい試合でもなければ、ガラの悪いおっちゃんがいるわけでもない。選手は一生懸命試合をし、応援団も熱心だ。でも、その完璧なひたむきさに時々疲れることがある。背を向けたくなるのだ。別に試合で負けたわけでもないのに、制服姿の女子高生や、そろいの帽子をかぶった父兄さんを見て、悲しくなって涙が出そうになることがある。

 プロ野球の試合でも、必死に声を張り上げているときにふともの淋しい感情に駆られることがある。勝っていて、試合が大いに盛り上がっているときでさえ。
 「かっとばせー」と繰り返していると、「かっとばせー」という言語の集合体の意味を見失うときがある。ふと、私ここで何をしているのだろうと思ってしまうのだ。

 この感情は何だろう。
 戻らぬ過去への憧憬なのか、傍観者故の孤独感なのか。
 本当にわからない。わからないことを無責任に書きなぐるのはどうかと思ったが、今日は「野球は素晴らしい」「選手のひたむきさに感動!」などという明るい文章はどうしても書けない。

 何にでも明と暗がある。それは野球も例外ではないし、当然私の心の中もそうだ。今、言えることはそれくらいしかない。



2001年11月24日(土)
オフの過ごし方

 
 昨日ですべての試合観戦が終了しました。ついにオフ、です。

 さて、しばしば「オフはどう過ごしてるのですか?」という質問を受けるので、この機会にお話したいと思います。

 オフにすること。
  
1,シーズンを振り返る。
 (「私のベストゲーム」や「ベストナイン」たるものを延々書いて、ペンフレンドに送りつける(一部、嫌がらせという説も?!))

2,野球本を読む。
 (野球以外の本を読むことも大事なのだけど、飢えているので、どうしても野球本を手に取りたくなる。主に昔の野球についての本を選ぶことにしている)

3,プロ野球選手の出ているバラエティー番組をチェックする。
 (いろいろ言われるけれど、単純に面白いし、普段見れない一面を見れるのは、やはり得した気分。なにより、オフに野球と関われるチャンスが多くないので)

4,来季の阪神タイガースに期待してみる。
  (この時期にしか出来ないので(>_<))

5,週刊「ベースボール」の選手名鑑号を買う。

6,ひいきチームの春からの練習試合日程を父兄さんから聞く。

7,観戦予定を立てる。
 (あちこちの雑誌で日程を調べ、優先順位をつけてみる。わりと楽しい)

8,ファンとしてのあり方を考える。
 (今季の観戦数や観戦態度を自らで顧みて、来季からの野球の見方をおおまかに決めておく)

 今年は、これに「ホームページ制作」が加わることになります。

 とまあ、ざっとこんな感じです。
 ですが、オフに自分が何をしていたかなんて実はあまり覚えていないものです。ただ何となく時間が過ぎていきます。

 「こんなオフの過ごし方は私にしか出来ないだろう」というぶっとんだビジョンをお持ちの方、是非お話を聞かせてください。

 野球ファンという身分にオフはありませんから。



2001年11月23日(金)
速報!敦賀気比高校への道?!(旅日記)


 ついに2001年最後の野球観戦の日がやってきた。

 前日の夜という土壇場で対戦相手と試合場所が変更。ま、練習試合ならよくあることだ。気にしていたら自称「追っかけ」の名が廃る?!

 敦賀気比高校といえば、ここ数年で急速に力をつけてきた学校だ。京都出身の選手も少なくない。いい選手を取られて悔しい反面、活躍してくれるとそれなりに嬉しいチームの一つだ。そういうこともあり、機会があればグランドに行ってみたいとは思っていた。しかし、こんなにあっさり実現するとは…。

☆7:12 JR湖西線近江今津駅経由で敦賀へ向かう(なんとすべて各駅停車!)運賃1,450円

 車窓から見える光景は「霧」。いつもなら、琵琶湖がきれいに見えるのだが、今日はちょっと違った。季節は確実に冬なんだなと思った。更に北にある敦賀は大丈夫なんだろうか?

☆8:48 JR敦賀駅着

 霧の心配、どこ吹く風?
 駅に着いたら、快晴だった。駅からバスが出ているというので、バスターミナルで時刻表を確かめた。我流判断ですぐに来る9:00発のバスを捨て、9:20のバスに乗ることを決めた。約20分間でお手洗いを済ませ、昼食やお茶を買い込む。グランド周りにコンビニやレストランがある保証は何一つない。備えあれば憂いなし、だ。

 駅前商店街(らしきところ)は、朝早いためまだ静かだった。わずかに開いていたスーパーでチャーハンとお茶を購入。焼き魚が安値でおいしそうだったが、さすがにグランドで焼き魚をつまむのは勇気がいる。ああ、気の小さい私…(>_<)。

☆9:20 バスで敦賀気比高校へ…のはずが?!運賃200円+α

 しかし、これが仇になる。
 9:20発のバスに導かれた場所は、敦賀は敦賀でも、下には何もつかない「敦賀高校」!
 おかしい、時刻表をちゃんと見てきたはずなのに!

 とりあえず、歩こう。
 すると、目の前に地図が。見てみると、少し奥に入ったところに「気比高校」という文字が。「よっしゃ〜♪」足取りが軽くなる。

 しかし、行けども行けども、敦賀高校。私は大概の方向音痴だが、そんな私でもわかるほど近い場所に位置しているはずだった。

 頭がこんがらがった。
 バスの時刻表も地図もすべて私の見間違いなんだろうか。
 試合開始予定は10:00。時計代わりでもある携帯はすでに9:40を示していた。

 敦賀市郊外は、住宅は年季が入っているのだが、学校やその他道路設備は新しくきれいだった。中学校のグランドではすでに野球部が練習をしていた。

 気比の松原と呼ばれる海岸付近と通った。しかし、防風林のごとくそびえる木々に阻まれてその光景を目の当たりにすることはできなかった(あとで、「あの辺りは行方不明者が出てる」と聞かされてゾッとする)。

 気比の松原の防風林(勝手にそう呼ぶことにする)を横目に歩いていると、市営球場に出てきた。小規模で古くからありそうなその球場でも、どこかの野球部が練習をしていた。道すがら、リトルリーグの練習に行く自転車に乗った野球少年ともすれ違った。野球もまだまだ捨てたもんじゃない。道に迷って凹み気味なのに、心のどこかでほっとしていた。

 途方に暮れていたとき、先週能登でお世話になったおじさんの言葉を思い出した。
「もしわからないことがあったら、人に聞けばいいんだよ」
 そっか、そうやんな。分からない以上、わかる人に聞くしかないもんな。先週の教訓をこんなに早く痛感させられるとは…。

 大通りに出て、人が通るのを待って、敦賀気比高校への行き方を聞いた。しかし、未だに何故道に迷う羽目になったのかわからない。
 
 教訓:見知らぬ土地では、いきがって地元のバスに乗ったりしない

☆10:00 ようやく軌道修正、徒歩40分で敦賀気比高校着

 親切なおじさんが道順を丁寧に教えてくれた。遠そうだったので、「歩いて行けますかね?」と聞いた。おじさんが、「行けるやろ。学生、歩いて行ってるよ」。高校生と私の基礎体力を一緒にせんどいて…と思いながらも、お礼を言って一路敦賀気比へ。

 しっかし、これが遠かった。何度タクシーに乗ろうと思ったことか(来なかったのだけど)。2度目に道順を聞いたヤマト運輸のドライバーは、「正面に見える白い建物、あれが気比(お2人ともなぜか「きひ」高校と発音されてた。「けひ」であってますよね?!かなり不安)高校」と言って、彼方に見える建物を指さした。 ああ、地平線が見える…。疲労困憊した私にはそれくらいの距離感に思えた。

 目の前に見えているのに、タクシーを呼ぶのはごっつ癪に障る。ここまで来たら意地だけで歩く。きれいに舗装された道路で歩きやすかったが、坂道が2,3あり、最初はゆるいのだが、学校に近付くにつれきつくなった。これって、私に来るなっていうこと?(笑)

 学校の目と鼻の先にはローソンがあり脱力した。一体、私は何のためにバスを1本遅らせたのか…。より念密な事前リサーチが必要だったのか。しかし、それでは意味がない。グランド訪問では幾度となく失敗を繰り返し泣きを見ている。しかしそれだからこそ、グランド訪問の醍醐味なのではないかとも思う。というか、そう思って自分を慰める(^^;)。

 正門をくぐって右に進む。(それにしてもぴっかぴかのすごい校舎だった)小さなグランドの端をそそくさ渡ると、坂路調教のような急坂がそびえ立つ。距離的には短いのだが、今までの道のりを思うと、いじめを受けているとしか思えない。しかし、グランドは目の前、金属バットの音や歓声も聞こえてきた。

☆10:40 見晴らし抜群!敦賀気比野球グランド

 坂を登りきるとセンター後方の位置に到着する。グランド全体を見渡して、反時計回りでネット裏へ行くことを選択。途中、スコアボードの掲示をしている部員に挨拶をされた。最近、他校の部員から挨拶されることは多い。学生の頃にはあまりなかったことだ。年とったのかな?

 バックネット裏は、古き良き時代を思いおこされるスタンド。土足厳禁のため、スタンド観戦の際は靴を脱がねばならない。私もそうだったのだが、知らない人は土足であがろうとし、中にいる人に注意される。

 「これ座布団、あったかいで」
 そう言われてお借りしたのは、座布団というより、感触は室内ゴルフ用の芝を柔らかくしたもので、色は白かった。見かけは冷たそうだが、ほんまに暖かかった。
他にもベンチが数個設置されており、関係者やファンの女の子たちが座って観戦していた。

 見晴らしがいいグランドだ。特に、三塁側ダグアウトの後方、高台から見下ろすグランドは絶景。グランド撮影をするならここがいいと思う。(但し、レフトとスコアボードが多少見にくい)

 バックには、霧が手前からぼかしのように微妙にかかっている山々が連なっていってきれいだった。そんな光景が一層グランドの広さを引き立てる。
 野球の強豪校といえば、地方球場をもしのぐような豪華なグランドを持っているところもある。正直、同校に対してもそういうイメージを抱いていた。しかし、実際はそれほど華々しいものではなかった(でも、間違いなく恵まれた環境なのだろうけど)。

 お手洗いはバックネット裏の奥にある青い建物。一応男女別になっているのだが…。

 試合中、息子の活躍を写真やビデオに…というのは、どこの父兄さんも一緒のようだ。ベンチ付近まで行き、おかまいなくカメラを構えるお父さんもいた。最近試合を「撮る」ことに興味を覚えた私は、つくづく「ああ、おっちゃんになりたい」と思うのだ。

☆17:40 雷鳥で京都へ 運賃2,770円(特急利用)

 試合が終わり、一部父兄さんに挨拶をした。まだ11月なのに、「また来年」だ。3月まで試合ないのか。長いなあ…。

 車で敦賀駅まで送っていただいた。
 電車の待ち時間が1時間以上あったので、電車で帰られる父兄さんと缶ビールで1杯やりながら、世間話をして時間を潰した。出先でのビールはおいしい。


 追伸:タイトルは「敦賀気比高校への道」なのに、文の大半を占めているのは私の迷子話だなんて、お恥ずかしい限りです。 
 なお、敦賀気比高校グランドレポートは年内をメドにホームページ内の「つれづれグランド日記」にアップさせていただきます。その際は、興味のある方に御覧いただければこの上なく嬉しく思いますので、よろしくお願いいたします。



2001年11月21日(水)
如水館高校の1件に思う。

 今朝、新聞を見ていたらこんな記事を発見した。

 「広島・如水館高校活動自粛」

 思わず記事に食いついた。少し前に仙台育英高校野球部も活動自粛という報道があった。如水館は注目している学校の一つであり、好感を持ってみていた。前述した仙台育英は、来年度の新入部員は取らないとも言われている。果たして、如水館もそうなるのか?!

 すでにご存じの方も多いと思うので、簡単な説明だけ。

 9月頃、上級生3人が下級生を呼びだし、態度が悪いと暴力を振るったり、また「カンパ」として下級生に金銭を要求した。
 学校側は、金銭を要求した部員を退部させ、残りの二人に練習への参加を禁じた。また、10月から対外試合を自粛しているという。

 私が今回注目したのは、学校側の対応である。多くの学校が不祥事をもみ消そうとする中、早い時期に自主申告していることもあるのだが、「部員を退部させる」という即決的な方法にただ驚いた。

 今回の処置に異論を唱える方もいると思う。高校野球は教育の一環だ。だから、加害者である部員をも更正させるのが部もとい学校としても役割なのではないか、と。私の考えも実はそうなのだ。

 しかし、今回は新聞を前にその反論の声をぐっと飲み込んでしまった。何故なんだろう。

 2,3年前だったか、プロ野球界で脱税した選手が相次いだ年があった。中には懲役だ執行猶予だと言われるほどひどいものもあった。そんなときに「罪は野球で償って欲しい」と書いた報道も少なくなかった。私も最初はそう思った。一般人が同じことをしたら間違いなく職を失う。しかし、彼らは特殊能力のため、職を追われなくれも済んだのだ。だから、働ける喜びと感謝でもってひたむきに野球に励んで欲しい、と。

 ある雑誌のコラムを読んだとき、こんな一文があった。
 「野球で罪を償うと言うが、それとこれ(脱税)は別問題である。罪は罪として、償っていただきたい。そんなもののために野球を使わないで欲しい」

 当たり前といえば、当たり前かもしれない。しかし、私の中に衝撃が走った。危うく何かを見失うところだったと額の汗を拭きたいような心境になった。

 
 下級生に暴力を振るうことも、金銭を要求したことも立派な犯罪なのだ。いい悪いの分別がついているであろう17歳という年齢。手厳しさも必要なのかもしれないなと思った。

 夢であった甲子園を目指すことすら許されなくなったことにより、自分がどれだけのことをしたのか、その罪の重さをかみしめて、反省して欲しい。たとえ、それが学校側の都合のいいエゴ対処だとしても、それを真摯に受け止めて欲しいと思う。(渦中の部員の実力は知らないが、主力選手とそうでない選手で対応が違っていたら、それはそれで腹が立つだろうけど)

 少年の人生は始まったばかり。無責任な言い方かもしれないが、高校野球だけが野球の全てではない。


 追伸:日記内で、「たとえ、それが学校側の都合のいいエゴ対処だとしても」と書いたが、部員が自主退部という形ではなく、退部させたことを世間に公開することはそうそう出来ることでなないと思う。世間体を考え、自主退学を勧める学校なんてざらにある。また社会に出ても会社によって同様のことが為されている。
 「強制処分」はリスクを背負い、世間の矢面に立たされる可能性が大きいのだ。だから、今回の同校の対処は単なる「エゴ」ではなかったことを信じたい。



2001年11月20日(火)
2001ドラフト感想文


 昨日、ドラフト会議が行われた。眠りこけていて、その存在をすっかり忘れていた私が今日の新聞で指名選手の名前やごく基本的な情報をもとに印象に残ったことや注目選手について書いてしまうきわめて無責任なテーマが今日の日記です。(最近、自分ワールドコラム野球風味という感じ(どんな感じ?)だったので、たまには野球野球したものを書かないと…と思いまして。しかし、一番「らしくない」テーマだなあ(^^;))

 阪神→失礼ながら、指名された8人のうち知っているのは、金沢・中林投手だけ。まったくこちらの勉強不足だから、あまりコメントできません(^^;)。自由獲得枠の浅井捕手には期待をかけたいです。阪神はキャッチャーが育っていません。優勝するには、若いだけではなくそこそこ経験を積んだ捕手が必要です。浅井捕手は23歳からスタートですから、なかなかいい案配なのではと思うのですが。また、史上初のPLから直接阪神に入団した桜井選手の存在も喜ばしい限りです。PLは夏の甲子園を目指すことすら許されなかったので、今回彼の他に2人のPL出身の選手がプロで新たに野球が出来るのは朗報だと思います。

 ヤクルト→なんと言っても自由獲得枠の石川投手でしょう。170センチ以下という小柄ながら、高い評価を得ているピッチャー。小柄ピッチャー党の私の血がうずきます。ヤクルトのユニフォーム、似合いそう。(同郷の藤田太陽、負けじとがんばれ!)

 巨人→姫路工・真田投手を外れ1位にもってくるとは…やられたっ!阪神も欲しかったんだよぉ。それにしても、スポーツ新聞のあの写真(姫路城に前でジャンプ)は、かわいそうだった。ドラフト時に見かけるやらせ丸出しのパフォーマンス写真は見るに耐えない。私が選手なら、恥ずかしいから絶対イヤだ。

 横浜→クジに外れて正解だと思う。智弁の秦投手はいい!顔もいいし、女性ファンから人気がでるのも間違いない、はず。また、日大三・千葉投手、私個人は主戦投手より彼の方に惹かれるのだが…。

 広島→広島らしい補強だなあと思った。投手が多いのだが、そんなに投手陣が不安なんだろうか?それとも野手にすることも視野に入れての補強なのだろうか?それにしても、福井商・天谷選手をこんな下位で獲れるとはびっくりした。ものすごくいいセンスの持ち主だと思う。東出選手とともに、福井出身コンビとして、早い時期から活躍するのでは?と読んでいる。

 中日→知っているのは、日大三・都築選手だけです。本当にごめんなさいm(_ _)m。175センチ、思ってたより高いなあ。

 大阪近鉄→結果論で恐縮なのだが、夏あたりから、「朝井選手は近鉄が獲るのでは?」と何となく思っていました。どこかで情報を得ているのかもしれませんが、記憶が曖昧で。みなさんの中にも、読めてた方は少なくないと思いますが、いかがでしょうか?

 ダイエー→杉内投手を3巡目で獲れるなんて、地元球団強し!個人的には、京都出身の延岡学園・神内投手の活躍も願いたい。今年のドラフトでは京都の高校生は1人も指名されなかったが、京都出身で他府県の高校でがんばって選手が2人指名されていた。ちょっと複雑な心境(^^;)。寺原投手が、指名に渋い反応をしているのはどうしてだろう。「契約金の上げるため?」などというよこしまな考えがよぎった私はきっとイヤなヤツなんでしょうね…。

 西武→失礼かもしれないが、今回のドラフトびっくり箱ナンバーワンが5巡目で指名された近江・竹内投手だ。チームメイト・島脇投手の指名はおおかた予想されていたが、彼の名前はほとんど上がっていなかったので。

 オリックス→大量指名に、旧監督時代のカラーを洗い流そうとしているようにしか思えないのは、私がひねくれているからでしょうか?人数が多いからというわけではなく、注目しかつ好みの選手が多い。守備に定評のある平野選手を関西で見れるのは嬉しい。また、島脇投手は、投打ともにセンスがあるため、どちらで起用されるか楽しみだ。また、15巡目の橋本投手は、クラブチームに所属する中学校講師。「アメリカンドリーム」という言葉をふと思い出した。これから、クラブチームからの入団選手は増えると思う。

 ロッテ→喜多選手を獲得したのは、お見事だと思う。きっとロッテの看板選手になると思う。

 日本ハム→8巡目の村西選手は近江高校出身。母校で選手を教えながら、自主獲れに励んでいたという説もあるのだが。

 以上、「好き勝手ドラフト寸評で」でした。抗議・苦情は受け付けませんので、あしからず(苦笑)。



2001年11月19日(月)
能登の表情


 旅疲れで、ひたすら爆睡の一日。…というわけで、石川遠征追記を今日の日記とさせていただきます。

 昨日は、朝からひたすら日本海を眺めて過ごしていた。元々海は好きだ。泳いだりするより、じっと眺めていることが好きで、ドライブなどでも好んで海を選ぶ。

 昨日の日記に「海にもいろいろな表情がある」と書いたが、まさにその通りだった。

 穏やかにそよいでいる海、細かい波が次から次へと押し寄せる海、岩をくだく勢いの海…。

 川の水が海に注がれているところを見るのも、海辺に波の泡がたまっているのを見るのも初めての経験だった。

 能登の海はいろいろなものを私に見せてくれた。だから私は海を飽かず眺めていることが出来た。その表情一つ一つに様々なことを思い考えさせられた。

 どうやら私は、「いろいろ」が好きなようだ。

 野球でも、うまい子が多く集まる甲子園大会より、上手い子、そうでない子、部員のたくさんいる学校、少ない学校…。レベルの巾が広く、いろいろな事情を抱えたチームが登場する地方予選大会の方が好きだ。更に言うと、特定メンバーしか試合に出れない公式戦よりも、いろんな選手が見れる練習試合の方が好きだったりする。

 試合展開もしかり、だ。送りバントばかりの試合もつまらないが、ホームランばかりの試合もやはり見ていて飽きてしまうのだ。

 バントや足を使うチーム、ホームラン構成のチーム、単打でつなげるチーム、威勢のいいチーム、おとなしいけどひたむきに野球に取り組むチーム…。

 いろいろあって野球だと思う。みんな同じじゃつまらない。
 



2001年11月17日(土)
ファンと家族、恋と友情?!

 
 今日は、忙しかった。昼から練習試合を観戦後、夕方に帰宅し、30分でお泊まり準備をし、晩には金沢のホテルにいた。

 狭いホテルの一室でシャワーを浴びた後、駅前コンビニで買った缶ビールを一気に飲み干した。やっと落ち着いた感じがした。私は一人でホテルに泊まるのが好きだ。誰にも邪魔されず好きなことが出来るし、ずっと家族と暮らしている私にとっては、一人でいることがとても新鮮なのだ。

 さて、ベットに寝転がってテレビを見ていた。
 今季で監督を勇退された巨人の長嶋茂雄氏が、トーク番組のゲストとして出演していた。これといった番組がなかったので、なんとなく見ていた。

 そこで、長嶋氏はこのように言っていた。
 「こんなこと言ったら怒られるのかもしれないんですが、ファンか家族かどっちが大切かといえば、やはり僕はファンなんですよ」

 日本的な考え方だな、と思った。アメリカの野球選手なら、ほぼ100%「家族」だと答えるはずだ。一般の日本人の大半が「家族より仕事」の生活を強いられている。欧米諸国や国内でも、そんな風潮に批判の声も出ている。実際、私も「もっと家族を大切にして欲しい」派だ。

 しかし、長嶋氏の言葉にはむしろ好感を持った。彼はおそらく家族を粗末に扱っているのではなく、家族を大切にし、かつ信頼しているからこそ、そのようなセリフを口にしたのだと思う。


 若い女性の悩みの一つに、「恋と友情の板挟み」というのがある。友達と同じ人を好きになってしまった。友達の好きな人に告白されてしまった。友達の彼氏を好きになってしまったetc…。

 幸い、私はそのようなこととは無縁ですごしてきたが、10代の頃はそんなテーマを扱った少女マンガや小説を好んで読んでいた。恋か友情かと言えば、当然友情を取るべきだと思っていたが、年とともに考え方が変わってきた。

 私はごく身近な友人に、ことあるごとにこう言っている。
 「もし彼氏が出来たら、そっちを優先しぃや。友達がかわいそうとかアホなこと考えんと、彼氏最優先にしていいし。何かあったら、電話してきたらええから」

 こんなこと言わなくてもそういうときが来たら、必然的に彼氏最優先になるのだけど。私の友人は気ぃ遣いが多いから、心配なのだ。

 2,3年前、中学時代の友人に会ったとき、こんな話をしてくれた。
「友達って、何年会ってなくても、違和感なく話すことが出来て、音信不通になったり、つきあいが悪くなっても、腹を立てたり、悲しくならない関係のこと言うんちゃうかなあ?「友達やから、1年に1回は会わなあかん」とか「友達やから、秘密を打ち明けなあかん」とかそんな束縛が必要なものは友達とは言わへんと思う。良く言うと「信頼している」、悪くいうと「都合のいい」関係なんだと思うよ」

 人の考えはそれぞれだが、私は彼女の考えにものすごく納得した。だから、私は友達に心おきなく「彼氏最優先」を勧めることが出来る。ときには、自分が辛いときに誰も側にいなくなることもある。それでもかまわないと思う。

 恋と友情ではつくりが違うのだ。
 だから、「恋と友情、どっちを取る?」という選択は野暮だと思う。
 恋愛は、始めるのも終わるのも(特に終わる方)ものすごいパワーがいる。だから、他のことをしている余裕がないのだ。


 長嶋氏における「家族」と、この「友情」の存在はものすごく似ていると思った。家族も友情もかけがえのないものだからこそ、ファンを楽しませることや恋愛にうつつをぬかすことが出来る。私はそう考えている。
 
 



2001年11月16日(金)
裸の王様


 今日テレビで「プロ野球・珍プレー好プレー」が放送された。以前ほど熱心には見なくなったが、オフのこの時期には貴重な野球ものであるため、わりと重宝している方だ。

 スタジオにはいろんなゲストが呼ばれる。中には明らかに野球を知らなさそうなアイドル系の女性タレントもいる。今回は某グラビア系アイドルがゲストだったのだが、彼女がふとこう言った。

 「野球って、コンクリートの上でやっているんだと思っていました…」

 彼女の発言はスタジオでは失笑を買っていたが、私は純粋に「そうやん、コンクリートやんか」と思って、妙に納得してしまった。

 野球を知らない人をバカにしてはいけない。野球を知らないからこそ見えてくるものがあるからだ。

 2年前に私は球場内に入る機会があった。場所は、川崎球場。あの10・19の舞台として有名な場所。別名「川崎劇場」。

 この球場が取り壊されるにおいて、球場を愛した人がボランティアとして集いさよならイベントが行われた。そのときのイベントの一貫として、私たち一般人も球場内に入ることが出来たのだ。

 とりあえず塁間を走ってみた。普通の道路の上を走るのとそれほど感覚は変わらなかった。冗談でヘッドスライディングでもしようかなと思っていたが、とてもそんな気にはなれなかった。

 東京ドームや神宮球場、福岡ドームなどが川崎球場と同じとは思っていない。しかし、間近で人工芝を見る機会なんて普通に人にはそうそうない。だから、テレビや遠くから見たイメージが人工芝のすべてだ。外野観戦派の私は、人工芝を見て、芝であるという実感はない。どうしてもコンクリートを緑に塗ってあるように見えて仕方ないのだ。

 内野手が人工芝の上で足をとられて不自然にこけ、ボールを取り逃がす…。
 なんとも思わず放送している珍プレーなんだろうけど、その多く、全部に近いほどのものが人工芝の球場(ドーム)で起こっている。川崎球場で踏みしめた感覚を思い出すと、笑うに笑えないのだ。

 人工芝には人工芝のメリットがある。安易に天然芝への転換がはかれない事情もあるだろう。でも、あれを「芝」と呼ぶのに抵抗があるのは私だけではないはずだ。でも、何故か人工芝と呼んでいる。それは多少なりとも野球に対する知識があるからかもしれない。だから、それを基準に物を考えるようになる。ようするに固定概念。

 知識のない人はそれをすっ飛ばして直接的な言葉を口にする。前述したグラビアアイドルの言葉はある意味真実だ。

 ふと、童話「裸の王様」を思い出した。



2001年11月15日(木)
ヤイコ


 ヤイコ、本名・矢井田瞳。言わずと知れた関西出身(今も在住)のアーチスト。名前も知っているし、シングルが出たらレンタルはしているけれど、実は顔を見たのは今日が初めてだ。某テレビ局のゲストに招かれ、50分間たっぷり歌とトーク。

 10日に1回は地元大阪に帰るという地元主義のアーチスト。曲の中にわりと頻繁に英語が出てきてそれが不自然でないことに、彼女の学歴の高さ(関西大学出身)を感じる。曲のイメージは都会チックでスマート。だから、ご本人ももっとすましているような人かと思った。

 ところが、ところが、ブラウン管の向こうの彼女は、ベタベタの関西弁を話し、大きな声で爽快に笑う関西の姉ちゃんだった。いっぺんに好感を持った。顔も美人というより、おちゃめな感じで、笑顔が似合う。少し童顔かなと思った。

 そんな彼女が、「好きなアーチストの歌」だと言って、BLUE HEARTSの「ラブレター」を歌った。伸びやかな声で、気持ち良さそうに歌っているのが、こちらからでも見てとれた。もうすでに彼女の曲になっている。そんな印象すら受けた。彼女は、デビューして1年半しかたっていないが、多くの人に支持されている理由がわかったように思えた。

 彼女はすでにイギリスでもデビューを果てしており、その上、その国のアーチストが彼女の曲をカバーしている。ちょっと前までは、カバーは洋楽を日本人アーチストがするものと相場が決まっていたように思う。それだけ、洋楽は日本人にとっては質の高いものだからだ。ということは、現地のアーチストにカバーされている彼女の曲は現地で質の高い物として認められている証拠である。すばらしいことだ。

 野球界では、ベースボールの本場メジャーリーグで、日本人選手が活躍している。イチローや佐々木の記事が新聞の紙面に登場するたびに、「ああ、グローバルな世の中になったなあ」としみじみ思う。

 今は、日本球界である程度実績をあげた選手でないと活躍するのは厳しいが、そのうち彗星のごとく活躍する日本人選手、「メジャーリーグのヤイコ」が現れるかもしれないなとふと思った。

 印象に残った言葉がある。
「歌を作るときに、自分に嘘はつかないようにと心がけています。どうしても、相手や周りに合わせてしまいそうになるときもあるのですが、それなら自分にとっては意味がないと思って。その歌を一生面倒見れるようにしたいのです」
 確かこんな感じの内容だった。

 歌と文章では違うけど、「自分に嘘はつかないように」というのは、大事にすべき共通項だと思った。

 実際、自分に嘘をつかないのは難しい。批判や中傷は怖いし、読んでもらいたいが故に時には読者に媚びたくなることもあるし、実際そんな文章を書くときもある。

 けれど、私が書く文章は誰でもない私にしか書けない。そして、その選手のプレーはその選手ではないと出来ないのだと思う。上手いとか下手とかは関係ない。とても難しいかもしれないけれど、私はそこを見極める目を養って、それを書きたいと思う。

 ある人から聞いた。
「野球を書きたいのなら、野球以外の本を読め」

 もうすぐオフだ。少し野球を離れて思考の裾を広げよう。
 大切なことに気付かせてくれたヤイコ、ありがとう!




2001年11月14日(水)
己を知れ2


 このところ出不精で、雑誌や本を買う機会もめっきり減った。今日、久しぶりに本屋に寄り、スポーツコーナーで立ち読みをした。

 様々な野球関連の記事で、「ワールドシリーズは素晴らしい。それにくらべて日本野球は…」みたいなことが書かれている。人が持つ感情や思いについてどうこう言う気がないが、こうも同じようなことばかり見続けていると、「だから何?」と言いたくなる。

 ここからは私個人に意見なので、異論反論は受け付けません。

 そもそも、「野球」と「ベースボール」は違うと思う。だから、比べること自体野暮っていうもんだ。日本野球によくないところがあるのなら、アメリカベースボールにも良くないところはある。ただ、メジャーが一般市民に浸透して間がないので、それはこれから見えてくることかもしれないと思う。

 少なくとも、私は、「ワールドシリーズは素晴らしい。それにくらべて日本野球は…」という立場には回りたくない。それに日本の野球ってまだまだ面白いと思う。そこに魅力を見出したい。自己満足でもいい。でも、その方がただ「面白くない」といい続けているよりはるかにマシだと思う。

 一生懸命がんばる現役野球選手を目の前に、「今の日本野球は退屈だ。面白くない」と言い切れる人は一体どれくらいいるだろう。少なくとも、私にはその自信はない。

 
 自慢できることではないが、私は学校を出てから3年半で6回も職を変わっている。その大半はアルバイトやパートという形で働いていたが、たった一回だけ正社員にだったことがある。最初の就職先で、教育関係の会社で2ヶ月間「社員」だった。

 元々は「塾講師」という雇用形態だったが、「研修」という名のもと一般家庭をアポなしで訪問するいわゆるセールスが実際の仕事だった。

 どうも体質に合わない。この不況の中、多少の強引や騙しは必要であることくらい頭ではわかってる。でも、ダメだった。どうしても人様の家のインターフォンを押せなかった。

 連休が明けたころから、同期の子と飲みに行くことが多くなった。三条の安い飲み屋で一杯やりながら、上司や先輩の噂話やセールスの道中であった出来事などたわいのないことを話した。最終電車がなくなって、真夜中の河原町通を歩いて、二条にある一人暮らしの友人の家に転がり込んで、また飲んだ。給料前になったら、コンビニで缶ビールとおつまみを買って、カップルのたむろする夜の駅前大階段に腰掛けて飲んだ。「うちらこれからどうなるんやろ」「小さい頃はコックさんなりたかってんけどなあ」。もしも話に華を咲かせた。

 昔、会社帰りに赤ちょうちんの飲み屋で酒を飲み、酔っぱらって家に帰るサラリーマンの気持ちが全然わからなかった。

 家が何より落ち着く場所なんじゃないの?だったら、家でゆっくり飲んだ方がいいんとちゃうの?経済的だし、酔っぱらってもすぐベットに直行出来るやんか。お金もったいないやん。
 こんな感じだった。

 でも、2ヶ月の社員生活で、彼らの気持ちが痛いほどわかった。飲まずにいられない。家に帰りたくない。外でしか言えないこともある。愚痴やもしも話なんて無意味かもしれない。それでも、話していたいときだってある。

 何も得られなかったように思った最初の会社で過ごしたただ1度きりの社員生活。私はここで、少なくとも自分は人を批判する立場の人間にはなれないということに気付いた。それを決して美化する気なんて更々ない。今でも町中で酔っぱらった背広姿のおっちゃんを見て、決していい気持ちはしないし、世の中には批判すべき人も必要だからだ。

 
 バッシングを受けてまで大型補強をし、1番から下位までがホームランバッターという最強の布陣をしいた巨人がペナントレースを制する事が出来なかった。
 前年度最下位の大阪近鉄が、リーグ優勝を果たした。

 やっぱり、日本野球がつまらないだなんて思えない。
 
 



2001年11月13日(火)
己を知れ

 10年以上高校野球を見ている。たくさんのチームがさまざまな試合を繰り広げた。そんななか、私の印象に残っているチームの一つが、93年のセンバツに出場した東海地方代表の静岡・浜松商業高校だ。

 浜松商業は、史上初の町立高校代表校の北海道の知内高校を開幕戦で6−3で下し、2回戦の山口・岩国高校戦は15−12という大乱打戦を制した。両チーム合計安打数・37は当時の大会新記録だった。
 
 面白いのは、これだけ打たれながら両チームのエースが完投していること。浜松商業・上村監督(現浜松南監督)は、「次のピッチャーが良ければもっと早く出してる」とコメントしているが、それだけエース・橋爪投手に信頼を寄せていたということにはならないか。また相手の岩国高校にも同様のことが言える。だからか、試合は点数のわりに引き締まっていた。
 
 また、打ったヒット数は負けた岩国の方が21安打と浜松商業のそれを5つ上回っていた。この岩国、大会前は出場校打率最下位校であったことがまた皮肉というか面白いというか…。
 
 で、その21安打を打たれたエース・橋爪投手は、翌日の3回戦・大宮東戦に登板。強豪相手に延長10回を力投する。被安打は10。橋爪投手本人は「今までで一番良かった」と振り返った。

 21安打もされた翌日、飄々と好投してしまうエース。
 私の中では強烈な印象を残した。当時は分からなかったが、このとき私は「高校球児の繊細さとタフさ」というアンバランスな魅力を知ったのだろう。

 後に、上村監督が某雑誌で当時のことを話していた。
 このチームは決して強いチームではなかったという。実際、県大会の比較的早い段階で負け、敗者復活戦を勝ち上がってきたチームだった。

 上村監督がそんなチームに言い続けて来た言葉が、「己れを知れ」だ。

 技術的、素材的に劣るチームが、強豪がひしめく大会を勝ち抜くにおいて、不可欠なのは、その「己を知れ」なのかもしれない。

 人はどうがんばっても、「出来ることしか出来ない」。
 だから、決して豊かでない戦力でも、一人一人が自分に出来ることを自覚し、それをより100%近くにすることが、「力を発揮すること」につながる。

 99年、私の応援しているチームは、京都大会決勝まで進出している。しかし、そのチームは大会前、優勝候補には名前が挙がらないどころか、「1回戦突破が目標」とまで言われていたチームだったのだ。

 大会前、壮行会(激励会)のとき、当時のキャプテンは挨拶のときにこう言った。

 「一人一人が自分達の役割を果たし、甲子園を目指します」

 もしかして、これは前述の「己を知れ」に通じる言葉なのではないかと思う。

 このチームは、ベンチ入りメンバー18人中17人がグランドに立った。たった1死を取るためにマウンドに上がったピッチャー、スクイズするためにバッターボックスに立った代打もいた。それでも、立派な準V戦士だ。


 失業保険が切れた。
 この寒いなか、私は職探しをすることになる。
 年齢制限、ワード・エクセル、経験者歓迎、車を運転出来る方…。
 己を知るたびに、愕然として放棄しそうになる私の就職活動。
 「力が発揮」出来る日は本当にくるのだろうか…。
 



2001年11月12日(月)
愛ある一言

 昨日、練習試合を見ていて、印象に残ったシーンがある。

 グランドでの試合となると、選手との距離が近く、ブルペンへ行ったり、何かの用事でベンチを離れる選手がしばしば目の前を通り過ぎる。父兄さんたちは、そんな選手たちにいとも気軽に話かけられる。全くうらやましい限りだ。

 あるレギュラー級の選手が通りかかった。選手のお父さんと思われる方が声を掛けた。
 「なんや、試合に出てへんけど、故障してんのか?」
 すると選手は、「腰がちょっと…」と気まずそうに答えた。
 そして、返ってきた一言は。

 「気ぃつけなあかんで」
 
 呆れたような怒っているような、そんな口調だった。選手が「はあ」とこれまた気まずそうに頭を掻いて、足早にその場を去った。

 言葉が違うなあ、と思った。
 私なら、まず間違いなく、「大丈夫」とか「早く良くなってな」と返すはずだし、きっと多く方がそうだろう。

 小耳に挟んだところ、その方は、もう20年近くも少年野球にたずさわっているようだ。それだけに野球の厳しさも知っているのだろう。

 口調は前述した通り厳しかったが、そこに愛情を感じた。
 故障したら元も子もない。
11月で全ての練習試合が終わる。
 いよいよ体作りの冬がやってくる。

 最後の夏、故障で…涙を飲む球児は少なくない。日頃どんなに気をつけていても、故障するときは故障する。そんなものかもしれない。でも、何もしないより何かしていた方がはるかにいいことに間違いはない。

 今よりも丈夫な体と丈夫な心になって春を迎えて欲しい。



2001年11月11日(日)
(野球日記なのに何故か)競馬場の話


 秋の京都の名物に一つは、競馬である。
 この時期は連続して大きなレースが京都競馬場で行われ、毎回多くのファンが淀にある京都競馬場につめかける。
 
 今日はエリザベス女王杯という牝馬のレースだったが、少し前には秋華賞という三歳牝馬限定のレースが開催された。競馬をご存じない方に説明するときに使われるたとえが、「女子高生の運動会」。人間の年齢でいうと、そのあたりだそうだ。
 ところが、ここで本当に人間の運動会が行われたことがあるというから驚いた。

 今日は、練習試合観戦のため、大阪方面に出向いた。結構充実した一日だったように思う。

 お昼を挟んでもダブルヘッダー。父兄さんと一緒にコンビニおにぎりをほおばっていた。そのとき、父兄さんがこんな話をしてくださった。

 その方は京都競馬場の近くにお住まいで、お子さんが小学生のときの運動会は京都競馬場の敷地内(もしくはその付近)で行われていたそうだ。

 ところが、ある年、例年運動会が開催されていた場所が工事中(あるいは改装か)で使えなくなったしまったのだが、代わりに行われた場所が京都競馬場内だったのだ。子供達は、普段馬が走る芝生の上や障害レースのコールを走ったとのこと。

 子供曰く、「芝生が深くて走りにくかった」。

 それでも貴重な経験だと思う。
 あの馬もこの馬も走ったコースを幼い日に自分の足で踏みしめたのだから。一般人ではまず不可能な経験だ。その方のお子さんは今高校生だが、いずれ競馬を知るようになったときに、感慨深いものがあると思う。その方は、「子供より親の方が楽しかったかもしれない」と笑っていらっしゃった。私もゲートインした小学生の表情を想像して、思わず笑ってしまった。

 京都競馬場、粋な計らいをしたと思う。ギャンブル性があり、付近の住民には敬遠されがちだでと思うのだが、こういう形で地元に貢献しているとが意外と言っては失礼だが意外だった。

 そういえば、甲子園球場も西宮市の公立学校の生徒の体育イベントのために、球場を貸すのだという。西宮在住に友人に聞くと、やはり「甲子園の土」をお持ち帰りしている子はいたようで、同市出身である私の相方も時々自慢をしてくれる(汗)。

 スポーツと地域の結びつきは大事だと思う。チャリティーイベントや野球教室(前述の父兄さんのお話では、乗馬クラブもあったとか!)も大事だが、こういう地道な取り組みも評価したいし、今後も続けて欲しいと思った。

 追伸:競馬から離れて数年、スポーツ新聞の出走表を見ても、名前の知らない馬ばかりだった。馬にサイクルは早い(驚)。ボーとしていると、野球でも同じような目に遭いかねないなあ(苦笑)。



2001年11月10日(土)
(野球日記なのに何故か)登山トーク2


 今日、また懲りもせずに相方と山に登ってきた。 
 実は、今回の山は地元の山で小学校のときに適応遠足(あ、地元がどこかばれるっ!)という名の全校登山で年に2回程度登ったことがある。元々運動音痴で山登りが苦労のカテゴリーに入るとは以前に日記に書いた。その上、小学校時代いい思い出はなく、出来れば黒い油性のペンで塗りつぶしてしまいたいと思っている私にとっては鬼門だった。
 
 なんで、OKしたんやろ…いきしなの電車の中ですでに激しい後悔に見舞われていた。

 最後に登ったのは、小学校6年生の秋。今から14年も前のことだ。

 ルートは小学校時代の逆を行った。だからか知らないが、びっくりするくらい記憶がなく、それは生まれて初めて登る山と同じだった。
 「そういえば、ここ…」とかすかに記憶が戻り始めたのは、山頂に着いてかただある。10人いれば窮屈になってしまうような小さな小さな山頂。眼下に広がる家はおもちゃの積み木のように建ち並んでいる。

 側にあった木の幹の上に腰掛けて風に吹かれていた。
 まさかもう一度来るとは思わなかった。大嫌いな小学校時代の思い出の場所へ、大好きな人と一緒に来ている事自体が奇妙ではあったが、これでイヤな思い出が一つ精算されたように思えた。

 山頂にはすでに人がいた。無線で誰かと会話をしていた。アマチュア無線愛好家だと思うのだが、山頂に来たことを誰かに伝えたかったのだろう。山のことにも詳しいようで、この山について話をしているようだった。興味そそられたので、聞き耳を立ててみた。

「いやあ、ここは山の甲子園ですわあ」

 声の主は確かにそう言った。

 ― 山の甲子園??

 まさかこんなところで「甲子園」という言葉を耳にするとは思わなかったので、会話の続きに興味津々だった。
 「甲子園」と言えば、たいていは「そのジャンルでの全国規模のイベント(大会)、もしくはその物自体が全国級であること」を示す(広辞苑もそろそろ「甲子園」の別釈つけてもいいと思う←あ、もうつけてるかも)。
 この山がまさか全国レベルとは思わない。標高は600メートル弱。ごくありふれた山岳の一つだ。それが、なんで「甲子園」なんだろう…。

「いや、水はけがものすごくいいんですわ。ずっと登って来て、湿ったところやぬかみなんたほとんどなかったんですわ」

 地元は昨日の晩雨が降っていた。にもかかわらず、その方がおっしゃる通り、湿ったところもぬかみの皆無だったのだ。そのおかげで、しんどかったが、足元を取られることなく登ってくることができた。

 そういえば、甲子園球場は水はけの良さでは他球場の群れを抜いている。こういう例えを聞いたのは初めてなので驚きはしたが。「甲子園」は私が思う以上に人々の生活に根付いているんだなと、一種の感動を覚えた。

 帰りは小学校時代の登りに相当する。記憶が段々鮮明になってきた。下りですらきつくこたえたのだが、これを小学校時代は登ってたんだと思うと、「ようがんばったなあ」と昔の私に声をかけたくなった。

 年月はいろんなものを変える。
 終盤の道は、アスファルトで舗装されていた。ときおり車も通る。足が断然楽になったのか、精神的余裕が生まれた。
 
 「ここで、怖い話されて泣きながら帰ってきた」とか、「あそこで薪を取ってきて、飯盒炊さんしてん」。 
 忘れていたはずの昔の思い出が、次から次へと口についた。

 誰に決められたでもなく、時間に縛られるでもなく、心のままにアスファルトを踏みしめる。そうすると昔は見えなかったものが見えてきた。

 川の瀧は、白い筋を立てて鮮やかに流れ、透明の水に手をつけてみると、とても冷たい。道の脇では雪のように白いキノコが生えていて、石の階段を登ると、石像に込められた人々の慈しみを感じた。
 
 自然は変わらずそこにある。
 でも、昔の私には全て見えなかった。ただ一歩一歩を踏みしめて、頂上を目指すことが全てだった。足が遅い私はいつも最後尾にいた。先生が監視している。道ばたでささやかに存在している光景に目をくれることは許されなかった。

 ふと野球のことを思った。
 タイムマシーンがあって、昔見た野球を今見たらどう思うのだろう。きっとその時見えなかったものが見えてくるような気がする。そして、違った楽しみ方が出来るはずだ。

 14年前、野球界では何があったのだろう…。
 ふとそう思った。

 
追伸:一山越えたあとの一杯はおいしい。大人になってよかったと思う。昔、登山がただ苦痛だったのは、「一杯」を知らなかったからかもしれない、とか思ったりして(苦笑)。

 

 
 
 


 

 



 
 



2001年11月09日(金)
巨人ファンの友人


 2,3年前、急に「野球を語りたい」という思いに目覚め、文通を始めた。しかし、一時は10数人いたペンフレンドも今や5本の指で足りるほどの人数に減ってしまった(それも返事が遅れ気味、みなさんごめんなさい!)。

 私はこの文通生活を通して、「同じ野球が好きと言っても好きにも種類があるんだな」ということに気付いた。野球という共通のものを好きなんだから、好きな球団とか一緒だった尚更話は盛り上がれる、そう思い込んでいた。

 しかし、今も文通が続いている人の好きな球団を見て見ると、私と同じ「阪神」という人がほとんどいない。ま、私が自虐的阪神ファンということもあり、純粋無垢に応援されている方には敬遠されるのは病む終えないかなと今になっては思うのだが。

 阪神ファン=アンチ巨人。
 そんな私の一番気の合う文通相手が、実は巨人ファン。2,3回お会いしたこともあり、私の中では文通相手というより、友人だ。
 生粋の西宮っ子である虎キチの相方は、「そんなヤツ、やめとけ」と言う。しかし、彼はただの巨人ファンではない。

 高校野球も大学野球も社会人野球も熱心に見る。(私が社会人野球を見始めたのもこの方の影響が大きいです)年に2,3回地元で開催されるパ・リーグの試合にもきちんと足を運ぶ。巨人の現体制をしっかり批判する。「野球は勝てばいいってもんじゃないんですよ」と話してくれる。

 それでいて、「長嶋さんは特別ですよ」と言ってこちらを拍子抜けにさせる。でも、何かにつけて出版された長嶋監督関連の本をむやみに買うことはしない。ちゃんと内容を見極めてから買う。「僕の中にある長嶋さん像を大事にしたいんですと」という彼のポリシーは、私も持っておきたいと思わせるものだった。

 彼と出会うまで、巨人という球団と同時に巨人ファンも嫌いだった。どんなに好きな芸能人や友人でも、その人が巨人ファンだといえば、すっと冷めてしまっていたのだ。

 マスコミに毒されてたのかもしれない。
 巨人ファンは、「野球が好きなのではなく、勝つことが好きなんだ」という評判がざまざまなメディアで下されている。実際そういう人が周りにもいる。だから、私はそう思っていた。いや、思いこんでいたかったのかもしれない。嫌いな球団に良心的なファンがいるとは思いたくなかった。まったく独裁的な傲慢な考え方である。彼からそれを教わった。

 しかし、先日の手紙で「僕、巨人ファンを辞めたんですよ」とあった。
 阪神ファンである私としては、喜ぶべきことだったのかもしれない。しかし、何故か心配の方が先に立った。

 何か重大のことがあったのか?
 それとも、球団の方針のしびれを切らせたのか?
 長嶋監督が辞めたから?
 いろんな憶測が脳裏を飛び交った。

 続きの文章を読んだ。
「理由は…ただ何となくです」

 ああ、これが一番救われない。
 ふとそう思った。
 巨人は惜しいファンを失くしたなと思う。
 
 いや、ただ何となく。

 

 



2001年11月07日(水)
野球日記のススメ


 「プチひきこもり」の気がある私は、結局今日も1日外出しませんでした。(だって寒いねんもん(>_<))
 
 というわけで、これといった日記が書けません。ですので、前々からしてみたかった「野球日記のススメ」を今日の日記とさせていただきます。野球は、球場だけでも、テレビだけでなく、ネットでも楽しめるんですね、ハイ。

 当野球日記は、野球専門誌「野球小僧」さんのオフィシャルホームページにリンクされている。私の他に15人の方々の日記も同様にリンクされており、訪問された方は自由に御覧いただくことができる。(実のところ、2001年11月7日本日現在、日記参加者で女性は私だけです。2,3人参加されてると思ってはいたのですが)

 十人十色とはよく言ったもので、16人16色の野球日記がある。今回、私が読ませていただきている中でも特にお勧めの野球日記を紹介させていただきます。まだご存じない方は、一度御覧になってください。きっと損はさせませんよ(笑)。

(以下日記タイトルのため、敬称略)

「みのるの野球きちがい日記」

 筆者は、「第一回野球小僧大賞」文章部門で入賞を果たした実力派。にもかかわらず堅苦しい表現は一切なく、非常に読みやすいです。同じ日記を書いている人間として、「読みやすい」文章は見習いたいです。
 グランド確保の困難な都内の某学校を取り上げた「練習グランド」、高校野球の伝令を取り上げた「伝令シリーズ」(?)、早慶戦を観戦した際に書かれた「与えてくれる熱」、東大の注目選手を紹介した「東大の歴史を変える男」が特に印象に残っています。今は大学野球が中心のようです。
 
 「1字違い大学生の無謀な野望の野球日記」

 筆者は、「野球小僧NO.8」でもバント原稿を書かれた金子真仁さん。私個人はこのときの作品「300円でバント練習」がなかなか好きです。ご自身が横浜ベイスターズの球団モニターをされてるとのことで、横浜の話は詳しくファンの方なら特に必見。
 たまに意表を突いた作風の日記が登場します。「野球日記だワン」「コウヤレン」あたりは、野球に詳しくない方でも楽しめます。
 ちなみに本日の日記「未来予想図」もなかなかおもしろかったですよ。

「ライター(??)シローの物憂げ野球日記」

 このほど「野球小僧NO.9」でデビューを果たされて正真正銘のライターさん。オリックス・川口投手を取り上げた「ビッグマウスは再び」シリーズは、京都の野球ファンとして、欠かさずチェックし、毎回楽しみにしています。

「YASUの野球を考える留学日記」

 日本のプロ野球団(2軍)で働くことを希望されているYASUさんは、ただいまアメリカに留学をされています。野球以外の出来事も書かれており、私たちが普段触れることのできないアメリカ野球の素顔を教えてくださっているように思います。こういう方が、日本の球界にいてくださったら、野球の将来も明るいんだろうなと思います。


 番外編・「あるこのつれづれ野球日記」
 
 筆者は、只今失業中の26歳の野球好き姉ちゃん。難しいことからひたすら逃げ、その場のお茶を濁す(?)日記を書き続けて早半年。京都の高校野球を中心に徹底したローカル主義が日記のカラー。そのため、分かってもらえる方がそれほど多くないのは本人も覚悟の上。今、あなたが御覧いただいてる日記がこれです。

 とまあ、少し自分のも宣伝してしまいましたが(苦笑)、野球日記は人の数だけあります。少年野球や社会人野球を中心としたもの、また私と同じ女性の方が書かれたものなどまだまだ見たい野球日記がたくさんあります。

 「我こそは」と思われる方は是非挑戦してみてください。連絡くだされば読者となってお邪魔します。


 



2001年11月05日(月)
滋賀県高校野球物語第3章


 昨日は生憎の雨。待ちに待った練習試合も雨天中止だった。自分勝手な私は、「週末に雨降んなよ〜」とごねていた。特に昨日の練習試合の対戦相手・八幡商業高校は是非見ておきたいチームだった。

 八幡商業は、長らく同校を指導されていた林監督が勇退され、今秋から池田新監督が采配を振るっている。年齢は30歳前後。
 高校球児との年齢差がどんどん離れていく私にとっては、目下このあたりの年齢の監督には非常に興味がそそされる(変な意味じゃなくて!)。自分より年上ながら、指導者としては若い。このアンバランスがたまらないのだ。
 今回も、ひいきチームの試合と同時に、新生・八幡商業と池田監督ウォッチングが出来ると前々から楽しみにしていた。

 林監督は、赴任した高校を全て甲子園出場に導いている、いわば「湖国の甲子園請負人」だ。長らく滋賀の高校野球に貢献した功労者の一人。
 「滋賀県の高校では近江が好き」という私だから、特別なことは話せない。でもたった一つ、林監督の人柄を伺えた印象的な言葉があるので紹介したい。

 93年春、京都からは東山と北嵯峨、滋賀からは八幡商業と、京滋勢としては類希にみる3校出場の快挙を果たした。
 地元新聞は、様々な特集を組んだ。当時は、「脱丸坊主」が叫ばれ始めたころで、そのことについて指導者がどう考えているのか、代表して、センバツに出場する3校の監督にインタビューするという企画があった。
 他の2校の監督は、「脱丸坊主」に関してかなり柔和なコメントをしていた。実際、東山高校は長髪に近い髪型で練習している選手もいた。
 しかし、林監督はこう答えた。
「確かに、今どき坊主頭は時代遅れです。ですが、私は、野球のために頭を剃る、そんな選手たちと野球がしたいです」
 黙ってても選手が集まる名門校故のコメントかもしれない。それでも、私はこの監督の下で野球が出来る選手は幸せ者だなあと思った。「教える」とか「育てる」という言葉ではなく、「一緒に野球がしたい」という表現方法。私は深い感銘を覚えた。

 指導者として大半の時間を費やした八幡商業時代を含め、甲子園であげた最高の成績はベスト8だったと記憶している。甲西のベスト4や近江の準優勝には及ばない。しかも、しばしば、無敵の優勝候補と呼ばれながら、もろくも初戦敗退してしまう危うさを兼ね備えるチームカラー。だからこそ、「甲子園で好成績が上げられない」、「プロ野球選手を輩出出来ない」という捕らえ方もあるだろう。でも、間違いなく、林監督は滋賀県高校野球をひっぱってきた素晴らしい指導者の一人だ。

 滋賀県高校野球を物語でたとえたら、今、第三章を始まったんだと思う。
 第1章は、京滋1代表校時代。何度となく京都代表の前に涙を飲み、甲子園が今以上に遠かった不遇の時代。
 第2章は、49代表校制になってから奮闘ぶり。屈辱の完全試合に、2度のベスト4。林監督が赴任先をすべて甲子園に導いたのもこの辺りでの話だ。
 そして、第2章は今夏近江高校が県勢初の決勝進出を決めて、幕が閉じた。
 今、新たな1ページが開かれる第3章は、近江高校の活躍に、「俺たちもやれる!」と、滋賀52校が本気で「全国制覇」を視界に入れ、がむしゃらになるところから始まる。
 
 滋賀県の高校野球の歴史を振り返ると、華々しい場面にも、苦しく辛い場面にも、林監督が導いたチームはほとんど登場しない。
 それでも、間違いなく、第二章は林監督と共にあったのではないかと私は思う。

 林監督が、今後高校野球と関わっていかれるのかどうかは分かりかねないのだが、どういう形であれ、第3章の行く末を温かく見守っていただければと思う。





2001年11月04日(日)
影ながら、ご健闘お祈り申し上げします。

 
 今日11/4(日)も、野球が目白押し。地元関西では、奈良の橿原球場で高校野球近畿大会、京都の西京極球場では、大学野球の神宮行きを賭けた大会が始める。

 私が注目するのは、前々から見たいと思っていたけど行けなくなった(泣)、ネット上で観戦を公言していた大学野球の「龍谷大学ー近畿大学」の1戦と、高校野球近畿大会の「平安ー彦根東」戦。

 「龍谷大ー近畿大」には、母校の神宮行きがかかっている。実は長らく大学野球はもとより母校の試合ですら見ないでいた。けれど、今秋リーグ優勝を決めて試合を途中まで見ていて、何か思うところがあったのだ。それが何かはよく分からない。でも、今回は応援したいと思う。高校野球ではないが、負けたらそれで「終わり」だ。贅沢やきれい事は言わない。是非勝ってください。

 「平安ー彦根東」、申し訳ないが、勝負はかなり見えている。しかし、私はここに「彦根東の善戦」を望んでいる。私の地元は京都。でもそれに負けず劣らず地元感覚の愛着に溢れるにが、お隣・滋賀県だ。だから、センバツには京都だけではなく、滋賀のチームにも出場して欲しいと思っている。
 
 すでに他の京滋勢が敗戦したとあっては、センバツ出場は「平安」と「彦根東」であることでしか、京滋勢アベック出場の夢は叶わない。
 ところが運が悪いことに、両校、早くもベスト8で対戦することになってしまった。
 平安は黙ってでもセンバツに行けるだろう。京都1位、近畿大会1勝。それだけでももう充分。
 しかし、滋賀3位校の彦根東はちょっと状況が違う。近畿大会1勝程度では、センバツを確実に呼び込めないのだ。しかし、2勝するのも厳しい。それが3位校が抱えるストイックさ。
 
 だから、前述した「善戦」が必要なのだ。
 聞くことろによると、彦根東は1年生エースがいいらしい。タイプ的には、平安が、京都大会2次戦で対戦した東宇治に似ているように思う。東宇治にもいい投手がいた。防戦一方ではなったが、あの平安をどうにか6点で抑えることができた。コールドではなったのだ。
 彦根東の桜が咲くには、コールドを免れることが必死。いつも以上に守りに重点を置いて、試合に臨んで欲しい。



2001年11月03日(土)
懐の深さ


 学生時代、「小説家になりたい!」と一発発起して、地元の文章教室とやらに通っていた時期がある。

 私は全然知らなかったのだが、講師の方は年輩の作家だった。自分の書いたものを講師に見せて、アドバイスをもらうというのが主な講義スタイルだった。
 
 私は野球について書いた原稿用紙3,4枚程度のエッセーを提出した。今になってはどんな内容のものを書いたかは全く覚えていない。しかし、アドバイスされた内容は明確に覚えている。

 「君はなんでもかんでも書きすぎなんやな。もっと読者に余裕を与えないと、読み辛くてしゃーない。読者はな、文章を読んで、その状況を想像し、自分なりの思いを巡らせて、楽しんでいるんや。だから、詳しく書き過ぎることは、その想像をさせないことになってしまう。読者を縛り付けるんやな。わかるか?」

 その教室に通ったのは、ほんの数回だったが、このアドバイスをもらったのは大きいと今でも思っている。

 文章の捕らえ方は人それぞれだ。だから、どこを見てもらってもいいように文章力を磨いて、読者に提供することが大事なのかもしれない。

 
 日本球界が生み出したすごい選手の一人に、メジャーで活躍する「イチロー選手が」いる。今日、友人と会っていて、ふとイチローの話になった。
 
 高校野球を野球の入り口としている私にとっては、イチロー選手は、オリックスのイチローでもマリナーズのイチローでもなく、「愛工大名電の鈴木くん」という印象がある。
 
 当時から他の高校球児とは一線を画す雰囲気はあったが、今や「世界のイチロー」となっていることに、「あの鈴木くんとほんまに同一人物?!」と軽い動揺におそれれるときが何度となくある。

 確かにすごい選手だ。記録、考え方、醸し出すオーラ…凄すぎて、正直、どれだけ凄いのかわからない。また、クールそうに見えるので、「別に私が応援しなくてもいいわ」と、特別な関心はなかった。

 「イチロー選手をどう思う?」と人から訊かれたら、私は「懐の深い選手」と応答える。そう思ったのは、あるときイチロー選手が話していたことがひどく印象的だったからだ。

 レポーターや記者に「ファンに見てもらいたいところはそういうところですか?」と訊かれると彼はこう答えるという。

 「それは見ているファンに決めてもらいます。足がいいのなら足を、肩がいいのなら肩を、バッティングがいいのならバッティングを、というように、その人がいいと思うところを見てもらえばいいです。僕はただプレーするだけです」

 この話を聞いたとき、私は心から「イチロー選手ってすごいんだ」と思えた。そして、多くの野球ファンを虜にしているのもわかるなあと思った。

 そう。イチローは、ファンにみどころを探す自由を与えてくれているのだ。だから、私のように彼の発言に魅力を見出すことも許されるのではないかと思っている。プレーなんてほとんど見てないのに、「すごい」という発言をするのはひどく無責任かもしれないが、イチロー選手にはそれを許してくれる懐の深さがある。

  
 そんなことを考えていたら、冒頭に出ている文章教室での出来事を思い出した。
あれから数年経った今、私は読者に想像してもらう自由を与える懐の深さを持った文章を書けるようになったのだろうか?…答えは「否」。いや、それすら自分が判断すべきことではないのかもしれない。

 文章界のイチローへの道は遠くて険しい。

 


 



2001年11月02日(金)
想い出皇子山球場


 ここ2,3日、掲示板を見ていたら、「皇子山球場が今季終了後閉鎖し、来年には改修工事に入る」とあった。
 
 私は何とも複雑な気分だった。失礼を承知で言えば、並々ならぬボロい球場。一歩足を踏み入れたら昼でも足場が暗く、いつ怪我人が出てもおかしくない。そんな感じの球場だ。

 「いつか改修されるだろう」ともう何年思ったかしれない。それでも、一向に改修されることなく、今日まできた。

 「いよいよか」
 私は、パソコンの前で小さなため息をついた。私の野球経歴は、「皇子山球場」とともにあったと言っても過言ではない。

 皇子山球場。滋賀県大津市にある「皇子山公園」の施設の中に組まれている野球場だ。主に滋賀県の高校野球の公式戦で使われている。数年前までは、県のメイン球場だったが、最近彦根球場ができ、メインの座をあっさり明け渡してしまった。それからはどんどん寂れて見えたのが、なんとも言えなく切なかった。

 両翼90数メートルの小さな地方球場。内野スタンドは石段になっている。スコアボードが電光であることが唯一の救い。場内の照明設備が不十分で、夜、ともきちと二人で電気の点いていないトイレに行ったときは、マジで泣きそうだった。
  
 ナイターは6基あったと記憶している。外野周辺は異様に暗く、それ故にピッチャーに異様に明るいスポットライトが当たったようになり、その場を浮遊した幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 
 最寄駅は、JR湖西線「西大津駅」。京都駅からだと10分程度で来れる。駅からも徒歩10分程度。どんよりとした外壁は、そんな人を寄せ付けない雰囲気が漂っている。

 本当にここが長年滋賀県の夏を彩ってきたところなのだろうか。また私が見たあの試合もこの試合も、本当にここでの出来事だったのだろうか。
 そんな疑問が湧くほど、人を遠い昔においやってしまう。「なつかしい」と言えば聞こえはいいが、そういうぬくもりとはまた違う。

 実は、ここ皇子山球場は私の自宅からもっとも近い球場であり、また生まれて始めて野球を見たところなのだ。
 
 見た、というのは正確な表現ではないかもしれない。まだ小学校に上がるか上がらないかの頃、父と皇子山に遊びに来ていたとき、ふらっと立ち寄ったのだ。父はそれほど野球に興味のない人間だったが、たまたま母校が出ていたから、幼い私の手を引いて、球場に足を踏み入れた。
 
 私の記憶は、石段を走り回っていた、程度しかない。父から、この話を聞いたのは、ずいぶん後になってからのことだ。私が生まれて初めて見た試合は、大学野球のリーグ戦だった。

 次に皇子山球場に足を運んだのは、高校1年の秋だった。この年、皇子山球場では、センバツ大会出場校を決める近畿大会が行われていた。
 
 高校のクラスメートだったともきちにつきあって、地元東山高校の試合を見た。延長13回、負けた。「負けたら、カバン、投げつけんねん」と言っていたともきちは、石畳の上に10円玉で厚さを縮めた学生カバンをたたきつけた。
 
 負けたのは悔しかった。でも、それ以上に感動した。
あの日があったから、今の私がいる。
 あれから、10年が経つが、あのカクテル光線とナインの姿は強く印象に残っている。

 球場内に入ったのは、大学生のときだ。野球サークルの女子マネジャーというものをやらせてもらっていたときに、チームはリーグで優勝して、大きな大会に出ることになった。
 
 その時の大会会場が、ここ皇子山球場だった。先輩マネジャーが講義のため来れないとのことで、私がベンチに入ってスコアをつけた。ベンチから見るファウルグランドはとても広いと思った。
(余談だが、昨日の日記「ファウルボールと私」で、私がボールに当たったのは、この皇子山球場の真横にあるグランドだった)

 ここ数年は、東山高校の練習試合でお世話になっている。毎年、6月中旬から下旬にかけて、滋賀県の学校と平日ナイターでやる。試合前、滋賀県のチームがグランド内で写真撮る。電光掲示板に全員の名前を載せて、パチリ。どうやら卒業アルバムの部活動写真の一枚を飾るもののようだ。
(そのくせ、試合では電光掲示板を使ってくれないのが心憎い)

 いつだったか、試合途中に大雨が降った。私とともきちはふと空を見上げた。すると、ナイターの光に照らされた細雨が私たちにむかったふり注いでいた。壮絶な光景だった。私もともきちもその細雨に心奪われていた。雨が見える。とてもきれいだった。ガラス細工のような、キャリアウーマン系の女性がつけている小さなピアスのような…。とにかく澄んでいた。
 今でも、私とともきちの間で、皇子山の話題になると真っ先に出てくる。

 そんな細雨に心奪われながらも、印象的だった光景がある。
 内野スタンドでファールボールを拾う係だった1年生部員が、細雨をものともせずに、じっと立っていたのだ。試合は中断している。ファウルが飛んでくることはない。にもかかわらず、である。
 

 真っ白な練習用ユニフォームを着たその選手は、まだあどかなかったが、雨に打たれても微動だにしなかった姿は凛々しかった。
 
 2年後の今夏、一ケタ背番号を背負っていたが、代打で2試合出たに過ぎなかった選手がいた。夏直前で勢いをつけてきた下級生に、ポジションを譲った形となった。セカンドライナーと四球。
 あの日、雨に打たれていた1年生部員の最後の夏の全てだ。

 長くなってしまった。
 とにかく、私と皇子山球場は切って切れない縁でつながっているような気がしてならない。

 とりあえず、取り壊しの前に写真でも撮りに行こう。
 
 何故か、新生・皇子山球場でこけらおとしの試合を観戦している自分の姿が浮かんでる。

 



2001年11月01日(木)
ファウルボールと私


 今日、11/1は、この日記をリンクして頂いている「野球小僧」さんの最新刊「野球小僧NO.9」の発売日。最近すっかり出不精になってしまった私はまだ手にしていないのだが、今回の特集は「ドラフト」と「ゲッツー」だという。日に日に野球の試合が減っていく今日このごろ、内容豊富な記事を読むのが今から楽しみだ。

 「野球小僧」さんは、前回の送りバントを始め、野球の重箱の隅をつつくような箇所注目をして、特集を組まれている。そこで、私が思うのは、是非「ファウル」特集を組んでいただきたいなということだ(すでにされてたらすみません。私は「NO.4」からの読者なので)。
 
 ファウルにはドラマがあると思う。
 私がそれを顕著に感じたのは、今でも名ゲームとして語られている「星稜ー箕島」の延長18回の試合の内容をある本で読んだときだ。星稜の一塁手がファウルフライを捕っていれば、ここまで語られるものではなかったのだろうと思う。
 この他にも、私がリアルタイムで見た中にも、ファウルフライの取り損ないから、展開が変った試合がいくつかある。チームの勢いやスタンドの熱狂的な声援が、野手のグラブからボールを落とすことすらあるように思った。

 また、野球の歴史を大きく変えたことに、ファウルが絡んでいると聞いた。2ストライクを取られるまでは、ファウルでもストライクとしたルールで野球は変わったのだと言う。
 
 プロ野球の話に移すと、ファウルボールのファンサービスという話になるだろう。よく言われていることだが、改めてどの球団がどういうサービスをしていて、また、今後どうなっていくものなのかにも興味がある。

 今日は、「ファウルボールと私」というテーマで話をしたいと思う。

 学生時代、何を思ってか、野球サークルのマネージャーをしていた。入って間もないころ、ベンチで試合を見ていたら、ファウルライナーが私に向かって襲ってきた。打球は一直線にこちらに向かってくる。息を飲んだ。私は金縛りがあってみたいに動けなかった。
 
 昔、有名なプロ野球選手が「打球が止まって見えた」と言ったそうだが、それがわかったように思った。このまま動かなかったら間違いなく当たると分かっていながら、じっとボールを凝視していた。ボールのくぼみや柄が見えた。
 
 ほどなく、ファウルボールは、私のこめかみを襲った。
 一瞬、何が起こったか分からなかった。頭がガンガンして「痛い」と感じたのはずいぶんあとのことだった。みんなが「大丈夫?」と言って駆け寄ってくれた。意識はあった。自分で公衆電話に(※そのころは携帯なんて一般人は持ってなかった時代です)行き、親に「むかえにきて欲しい」と電話した。途中で意識がなくなりかけて焦った。でも、ここで意識をなくしては大変と必死で気を持たせていた。何とかなるものなんだなと、冷静に思えたのもまたずいぶんあとのことだった。

 病院で耳の近くを9針ほど縫った。こめかみというのは、厳密には正確な表現ではなかったのかもしれない。けど、感触は間違いなくこめかみだった。
 二週間近く頭が洗えなかったのが辛かったが、自分の運動神経のなさを改めて思い知った。

 野球場内で、ウグイス嬢が頻繁に「ファウルボールには充分ご注意ください…」とアナウンスするが、一「ファウルボールに襲われた」経験者として申し上げますと、「どないして注意したらええねん!」…となる。
 前述したが、本当にボールが襲ってきたときは、動けなくなるんだから。

 もしあれが硬式ボールだったら、きっと死んでるな、私。