そんな風に思うから仕方ない
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2003年06月22日(日) その花を咲かせることだけに一生懸命になればいいのに…。

ヒエラルキーをどうして作りたがるんだろう。
と、いつも思う。

大手、中堅。小手。
こんなのは、資本主義の入り込んだ同人誌の世界だけかと思ったら、どうもそうではないらしい。

日記にランキングしてどうするんだ。
と、いつも思う。

新着日記で偶々見つけて。
ないしは、やはり、いいな、と、思ったサイトの文中リンクや、リンクからたどるのが、実は一番効率が良かったりする。

今のところ、Blogないしはウェブロか?(どっちでもいいけど)のように、引用、リンクのあるテキストの方が次々に飛べて楽しい。

ニュースへの言及が、自分との考えの差異を見やすいからだ。
ネタ系のテキスト、というのは、実は飽きやすい。

ある程度、自分の考えを持っている人の日々の雑記や、その人なりのアンテナにかかった事への言及の方が読んでいておもしろい。

そして、ラブラブエロ日記も、実は嫌いでは無かったり…。
あとは自虐系とか。
(結局なんでも好きなのか、私は)

探すのは楽しい、でも、不思議とランキングでたどっておもしろいのを発見した事があまりないのは何故だろう…?


2003年06月15日(日) 「変わっている」人たち

WEBで文章を書く人、というのは、ある種なんらかの主張を持っている。
ささいな事から、おおきなポリシーまで広く。
それはひとつひとつ色、形があり、ひとつとして同じものは無いように思う。
たとえば、影響力のある文章ないしは主張があって、それに引きずられたとしても、「個人」というフィルターを通す事で、何らかの変化はある。
そっくりそのまま転記する場合を除いて。

まっとうな読解力があれば、そのわずかな違いに気づくことができるだろう。

「劣化コピー」「〜の影響を受けている」という形での気づきかもしれないけれど。

時たま、そうした事を視野に入れず、ただ、ただ、自分は変わっている。
と、書いてあるのを見かけるが、それはどういった基準で敢えて書かれているんだろうか。
ざっと見渡して、ロジックがあまり見かけない、というのであれば、希少意見として、自分の考え方を自覚しているのだ、と、好意的に見る事もできるのだが。

ただただ、自分ひとりが変わっている。
というのを常に見かけると、コイツ他の人間の書くモン読んだ事ないんじゃねえの?
と、思ってしまう。

違うのがあたりまえなのだ。
異なるのが当然なのだ。
似ていても少しずつ違うものなのだ。

そうした違いを感じ取る事ができない、というのは、よほど感覚が鈍化しているのか、読んでいない、見ていないのどちらかであろう。

中途半端な客観視は、結局「自分って特別」という歪んだ自意識に見てとれる。
モニターの向こうで、そうして誰かが冷笑している事に気が付かず、自分の王国で王様ができるのは、幸せなのだろうか、それとも不幸なのだろうか。


2003年06月13日(金) こんなblogがあったらな

アインシュタインアーカイブズ、なんてのがあるそうで。

紫式部日記とか、土佐日記とか、更科日記。
(あーこれ時系列を追って書かれていたのでしょうか?)
これらを現代語訳して、今の暦に置き換えて、ライブ更新されるブログとかあったら読んでみたいなあ。

紫式部なんかはけっこう清少納言を意識した内容を日記にしたためていたらしい、なんて話しを聴くと、今のテキストサイト同士の言及ぽくなったりせんのだろうか、と、思ったわけです。

私は古典がニガテなので、こういった古典は「まんがで読む〜」でしか読んだことないんですが、「更級日記」なんて、けっこうおもしろかったと思う。

だれか、と、思うなら自分でやるが早いんですかノウ。


UMサウルス