週末の疲れが、長時間の電車移動のせいかまとめて腰に来ています。そこに低血圧の立ちくらみが襲ってブッ倒れそうになった・・俺弱っ! 先月も何日か仕事を休んだので給料少なすぎて死にそうです。いや、死なないけども。 ただ、衛生マスクの下で低く歌うだけ。
出棺の儀で、坊さんの鳴らす木魚の音が・・読経に対して裏拍だったのが気になって仕方ありませんでした。たぶん途中で修正もできず最後まで押しきったんだろうな。 葬儀の後は、親族一同が弔辞で有り得ないことを言った敬老会の会長(たぶん例文集の丸パク、しかも写し間違い?)の話題で持ちきりでした。遺族が揃って「そんなの記憶にない」て。 僕はといえば伯父が無責任に開けたビールを片付けるのを手伝って必死に飲みまくり、喪主の叔父に「うちの家系じゃない」「親の顔が見たい」とか言われ。親・・母はあなたの姉ですが、何か。
抱えきれない思いと重い。僕らはただ途方に暮れて立ち尽くす。それでも手を振って言わなくちゃ。 「バイバイ、またね。ありがとう」
2006年09月15日(金) |
そして通夜。 その2 |
そこにはたらいているものは重力なのだと思う。 従姉妹3人が号泣で引っ張られそうになった。もともと母の方は女性の多い家系なうえに、故人に優劣をつける訳ではないけれど、父方の祖父よりは人当たりもよく入院するまではかくしゃくと庭仕事や趣味に精を出していた人だったから、自分にしても「いいおじいちゃん」のイメージが強い。僕は鼻水をすすりながら掴みどころのない感慨と、存在そして死の重さにぼんやりと考えをめぐらせた。 ひと月前のうちのじいさまのとっ散らかった仏事の色々は、きっとそのてんやわんやで皆が重さを分け合っていたんだろう。今度の式は葬祭センターの職員がテキパキと取り仕切ってくれたおかげで、僕らは一人一人がその重量に浸って、実感していられたんじゃないかと思う。その、号泣。 死んだ人の皮膚は「同じ」だ。黄色くて、脆そうで、硬い。そして僕は地面から3cmだけ浮いたところで、足がつかずにもがいている。
父方のじいさまが亡くなってもうすぐひと月。そう思っていたところへ今度は母方の祖父の訃報が入った。現実は、悲しみや驚きの感情より、感覚としてのヘヴィネスを僕に教えてくれる。
2006年09月13日(水) |
誰も知らない素顔の八代亜紀 |
自分は一体何者なんだろうか。
と、未だに中学生のような自問自答を続けている。心持ちのギアがローに入っている時は自分でもどうしようもないので、鬱々としてひたすら考えながら死にそうな気持ちをやり過ごす。 今回は結局一週間近くそうやってメシもろくに食わずにいたが、ようやく抜け出して少し前向き。日曜にダ●エーの鮮魚コーナーでマグロの解体を観たのが良かったようだ(微妙。 本当の自分、素の自分、自分らしさ。悩んだところできりがないし、実際そんなものあるのかどうかも怪しいものだ。(僕は自分自身を信用していない。)仕方がないのでこう考えた。 「せめてこうありたいと願う自分を演じよう」。しんどくなったらまた鬱々と沈み込むだけだ。そんなのはいつものこと。願ってもできることと出来ないことがある。できることだけで良い。少しでいいんだ。ほんの少し。新しいジーンズが格好良いから背筋伸ばして歩いてみる、そういうとこからなりたい自分の真似をする。 たぶん、無駄じゃないと思うんだ。
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