道院長の書きたい放題

2003年08月27日(水) ■技法と指導法を考える(3)/開祖の天賦の才

■少林寺拳法を考える上で、どうしても押さえて置きたいことがある。それは開祖の“異世代間交流”と“異国人間交流”という天賦の才=人間性についてである。

カッパ・ブックスに、伝法の儀式をするため少林寺を目指して旅する件がある。当時、陳老師は六十代、文老師は七十代である。老人二人に供する旅。それを苦にすることもない開祖の、世代を超えられる人間性が興味深い。もちろん仕事上のこともあろう。しかし、よほどに老師方とのコミニュケーションが上手くいっていたのだ。

■両師についてこう書いてある。「…(三たび渡満するため)父親代わりの陳老師をたずねた」。「…私を天才だとほめてくれた(←ここのところイイですね!弟子を誉めて伸ばそうとしています)。文老師は、子どものないせいもあって私を実子のようにかわいがってくれた」…。

父親を早くに亡くされた開祖の生い立ちを考えるとある程度は理解できるが、それにしても、四十才以上も歳が離れている人たちとここまでの人間関係を築けるとは大したものだ。まさに「師父」と「法子」である。

老師方も凄い懐の深さである。先輩を敬い後輩を可愛がる異世代間交流は、中国拳法の特徴のように思える。このような人間関係を築くことが可能なのは、やはり“技”を主にする技法体系や指導体系だからである。それが開祖の人間性とピッタリ合ったのだ。

■異国人間交流については…、なんか開祖は、テレビ番組“ウルルン滞在記”に登場する人達と同様な波長の持ち主だったのでは…?という気がする。言葉が全然分からない未開部落に行って、瞬時に家族同様に溶け込む俳優達がいる…。

中国人社会に大きな影響力を持つ、パン(←漢字が無い)。当時の特務機関はこの秘密結社に目を付けたという。しかし「…なかなかその中にはいることはむずかしく、やっと私たちが“在家裡”にはいったのを手がかりにして、工作をはじめたというわけなのである」。

開祖の人懐っこい笑顔を思い出す時、いかにもと納得する。晩年、本山にやって来た中国の人達は先生に会うと心から嬉しそうな顔をされていた…。

■少林寺拳法は“平和の香り”を持った武道である。

それは、開祖の“異世代間交流”と“異国人間交流”のDNAを引き継いでいるからで、ここを押さえた技法であり、指導法でありたい。

「技は人なり」と言うではないか…。

(続く)


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あつみ [MAIL]