インコの巣の観察日記
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2004年02月25日(水) |
私とエスパニョール、そしてPochettino... その2 |
ピレネー山脈の向こう側へ行ってしまったMauricio Pochettino 彼がいるところは、フランスの首都Paris...私が苦手とする街。
なぜか、フランスと言う国とも、フランス語という言語とも、 そして“フランス的なるもの”全てと相性が悪かった私。 いや、私のほうが一方的に嫌っていただけなのかもしれないが...
きっと、それはコンプレックスからくる嫌悪感だったのでしょう。 私は...フランス語が話せない。あの上顎にぶつかる破裂音が出せない。 だから、キライだった。あのスノッブな発音がそれこそ鼻についた。
私が理解できない言葉を話す国へと行ってしまった彼のことを、 追いかけることが出来なかった。私はピレネーの山を越えられなかった。 L'EQUIPEも、PSGのオフィシャルサイトも、私には理解できなかった。
毎試合Live中継されるスカパーでの中継を見ても、そこに#5の姿はなかった。 もう、MARCAにもasにもSPORTにもEl Mund Deportivoにも Pochettinoの話題が載ることはなかった。
ただ...翌シーズンの中継で「悪魔に魅入られたように、いない選手の名前を言うことが...」 と振り返っていた、倉敷保雄さんの口からだけ、時々その名を聞くことがあった。 中継の中で“彼はもういませんでしたよね”と訂正されるたびに、私は泣いた。
86年のW杯...PK戦にまでもつれ込んだブラジルとの死闘を制し、 涙で顔をクシャクシャにしながらも、満面の笑顔でPlatiniに抱きついたのは、 最後のキッカーとなったLuis Fernandez。 その姿に涙した時から、私は彼のファンだった。
その大好きな彼のことを、この時ほど恨んだことはなかった。 Pochettinoを連れ去った、PSGがLuis Fernandezが憎かった。
「返して、返してよ!!私のPochettinoを返してよ!!」 何度、こう叫んだか判らない。
あきらめれば良かった。 PSGのPochettinoを応援すれば良かった。 でも、私は意地になっていった。
私が好きなのはEspanyolの青と白のCamisetaを着たPochettino。 赤と青のCamisetaと着た彼じゃない。
今思えば、私は一体何をそんなに意固地になっていたんだろう?? でも、あの時...私の心はParisのPochettinoに対して閉ざされたままだった。
もちろん判っていました、私にも。Espanyolが置かれている状況は。 そして、Pochettinoもいつかは出て行かなくてはならないことも。
あの人は...優しい人だから。 あの人は...Espanyolを愛している人だから。
だから...何も言わずにオファーを受けてParisへ行った。
ファンならば、誰よりも彼のことを理解し応援しなくてはならないはず。 なのに、私には出来なかった。前を向いて一緒に歩いていくことが出来なかった。 判っていたけれど、私には出来なかった。 信じることや、待つことに疲れ果ててしまった私には...出来なかった。
あの年の夏、BaljicがIstanbulへと去り、Redondoがイタリアへ去った。 私はRedondoを見送ったとき、赤と黒のCamisetaを着た彼を 精一杯応援しようと、そう心に誓った。 どんなことがあっても、彼を応援し続けると。
しかし、彼は私の前に姿を現してくれませんでした。
「大したことないよ、近いうちに復帰できるよ」 そう聞かされていた彼の怪我は...その後2年もの長きに渡り、 彼と、彼の周囲の人々と、そして私を苦しめました。 何度も、何度も挫けそうになりながらも、彼を信じようと思った。 何度も、何度も涙を流しながらも、彼を待ち続けようと思った。 本当に辛かった。どれだけ待てば良いのだろう。どれだけ信じれば良いのだろう。 出口の見つからない暗闇の中を彷徨い歩いているようだった。
Istanbulへ行ったあの人は...必ず、帰ってくると思っていた。 Cedido...レンタル移籍で古巣へ戻った彼は、 再びイベリアの地へ帰ってくることになっていたから。 だから私は...信じていられたから、FenerbahceとBaljicを応援することが出来た。 必ず帰ってくると信じていられたから、だから応援できた。
それに...不本意な“帰国”をを果たした彼のことを暖かく迎え入れてくれた、 会長以下Fenerbahceの選手たち仲間や、サポーターの態度が嬉しくて、 彼らと一緒にFenerbahceと言うチームを、そしてFenerのBaljicを応援しようと思った。
Baljicが、このSari-Lacivert色したクラブの為に精一杯の力を捧げて、 タイトルを獲ることを望み、その夢が叶うよう自分が出来うる限りの声援と愛情を送ろうと思った。
しかし...私のその気持ちは踏みにじられた。私だけでなく... FenerbahceとBaljicを愛する全てのファンの気持ちを、彼は裏切った。 (全てを話せば長くなるので、ここでは省きますが... ただ、あのSelin Denizli事件がキッカケだったとだけ、申しておきます。 詳しいことをお知りになりたい方は、本館の日記の2002年11月5日の項を参照なさって下さい)
いい加減、私は疲れました。 Redondoはいつピッチに戻ってくるのか判らない。 Baljicは一体何度私たちを裏切れば気が済むと言うのだろう。
そんな私にピレネーを越える体力など、残ってはいなかった。 中途半端に応援することは、私自身のプライドが許さなかった。 Pochettinoを応援するのなら、彼の全てを受け入れ応援したかった。 PSGも、Luis Fernandezも、Parisの街もフランスと言う国も...。
でも、私の心はそこまで大きくなかった。 だから...私は捨てた。Mauricio Pochettinoを。
これ以上、苦しい思いはしたくない。
ただ、自分が楽になりたいが為だけに、 私は...Pochettinoのファンを辞めた。
ゴメンね、Mauri。弱くてゴメンね。 私、これ以上、泣きたくない。泣くこと出来ない。 私の涙...RedondoとBaljicのために使っちゃった(苦笑)
あなたのために流す涙、もう残ってない。 あなたに向ける笑顔、取り戻せそうにない。 ごめん、本当にゴメンね。 最後まで、アナタを応援できなくて、ごめんなさい。 こんな私を...どうか許して下さい。
それでも...これだけは変わらない。 私は、Mauricio Pochettinoが大好き。 深く強い眼差しを、私は忘れない。
Está más allá de los Pirineos 愛しいあの人は...ピレネーの向こう側にいる。
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