A Thousand Blessings
2004年1月〜最新|ひとつ前に戻る|ひとつ先に進む
加害者が精神耗弱であれ、精神異常であれ とにかく殺される理由がたったの1%もないような人間を殺してしまったときは 自らの死をもって償うしかないのだ。死刑になって当然なのである。 死刑は国家による殺人であると力説する、そんな死刑反対論者の「思い」も 理解はできるが、命には明らかに重みの差がある。加害者と被害者の命の重みは違う。 失われた命は二度と戻ってこない。その事実を抱えてこれからの日々を生きる 遺族にとっては、加害者が深く反省しようと精神病院に送り込まれようと とにかく加害者が生きてこの世に存在することが納得できないのだという。 もちろん被害者の遺族の考え方は完全に一致している訳ではない。 要は、納得して受け入れて新たな気持ちで生きていけるかどうか、ということだ。 僕の家族が同じ目に遭ったら、とてもじゃないが納得も受け入れもできない。 つまり、僕自身の手で殺してやりたいと願うだろう。 その思いを代行する手段として、たたひとつの例外としてなら国家による殺人も あってよいと考える。 宮崎勤も生きている。麻原も生きている。その他凶悪殺人を犯した人間の多くが 生きている。遺族は眠れない夜を送っているのだろう。
響 一朗
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