小学校6年生の時、「10年後の自分へ」という手紙をタイムカプセルに入れて校庭に埋めた。先生は「夢について書きなさい」と言う。考えても考えても自分の夢が分からなくて、「サラリーマンにだけはならないでください」とだけ書いた。その後で何度か引っ越しがあり、カプセルを掘り出す現場には立ち会えなかったけれど、たぶん投げやりな感じの文字だったろう。
***** 紆余曲折あって、サラリーマンではあるけれども、希望通りの仕事に就いた。ただ、夢はいまだに見つからない。目の前に求める仕事があるんだから、そんなものいらねえよと思ったりもする。それなのに、他人の多くが、なぜか夢を語らせたがる。職場で酒場で身の回りで。うまく答えられない。
このまえ実家に帰った折に、地元の友達と飲んだ。何年かぶりに会ったので、お互いの近況を話すところから。何の流れか、「夢はあるか?」と尋ねられた。「仕事の目標とかじゃなくて?」「違う。そういうのじゃない」「そうだなぁ。・・・じゃぁいつか、この街で、この街の新聞でも作ってみようか」
・・・思いつきで言ってみて、意外にも、けっこう楽しそうだなと感じた。
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「今、世の中はこうなっています」という記事を、毎日、毎日、送り出す中で、じゃあ、そうして書いていることは我が身にどう関係があるのかねぇと考えている、醒めた自分がいる。極端な話、チベットで紛争が起きようが、日銀総裁ポストが空白になろうが、当事者でない私たちの何にどう影響するというのだろうか。「風が吹けば桶屋が儲かる」的な話は抜きにして。
新聞もテレビも、いわゆるマスメディアは、身の丈をこえて、あまりに大きすぎる。不要だとは言わない。絶対に要るけれど。一方で、インターネットの中で立ち上がっているコミュニティーなどの新メディアは、この先どこまで可能性を広げるかは分からないけれど、閉鎖的すぎる印象を受ける。
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腰を落ち着けて暮らす人には、選挙の際の判断基準になるような、きめ細かな行政情報を。引っ越してきたばかりの人には、近所の病院やクリーニング屋や飲食店を選べるようなランキングを。相談事や何かイベントの立ち上げを考える人には、呼びかける機会を。自分が暮らす地域で、こんな人がいる、こんな取り組みがある、そういうことを知るきっかけの場を。
そんな、身の丈にあったメディアを作れないかと夢想する。よく顔を出す地元のバーで、南米のダンスを広めようとしている舞踊家とか、なかなか知り合いができない留学生とか、いろんな人がいて、いろんな要望があって、そういうのに接するたびに、思う。情報が集まる場があれば、少しは違うのかなって。メディアの力は大きいはずだって、信じている。
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今はとにかく、目の前の仕事をがむしゃらにやるだけで、先々どうなるのか、どうするのか、見通しはない。何年先、何十年先、どこでどんなふうに暮らしているのかも分からない。ただ、胸の中で、ささやかにくすぶっている。
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