Rollin' Age

2007年09月10日(月)
 何かを卒業した

 学生時代から締め切りを守るのは苦手だった。なかでも卒業論文に苦労した。ほとんど手つかずの状態で、締め切りの数日前にインフルエンザにかかる。卒業を逃す恐怖に駆られながら、ぎりぎりで書き上げてなんとかやり過ごした。今でもたまに夢に見て、いやな汗をかきながら目覚める。

 指導教授からは「君は新聞記者に向いていると思う」と皮肉られた。締切までに体裁だけは整えたものを仕上げるから、らしい。当然、中身がともなっていない、という苦言でもある。あとから聞いた話。後輩が俺の卒論を読みたいと思って、その教授に問い合わせたところ、「なくした」という。

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 この3月、東京でまず配属されたのは、企画グループというところだった。「なんでもいい、おもしろい話をみつけて書け」と言われ途方に暮れた。それでも今の仕事を3年続けてきた自負や、経験がある。「それなりに」企画案を出し記事を書き、現場では「よくやってくれている」と誉められた。

 ただ、もっと上の上司の見方は違った。8月、「おまえらに期待するだけ無駄だった、こんなグループ、解散だっ」。飲みの席でこぼれた本音。上司が求めるレベルに達していないのはわかっていた。そうはいっても、「それなりに」頑張ってきたと思っていたし、それ以上やるモチベーションもなかった。

 「で、『卒論』は何にするんだ。書かないわけにはいかねぇからな」。9月から別のグループに移ることが決まった。半年間の成果を形にしろと上司が言う。思い悩みながら半ば思いつきで企画案を出した。「おまえ、本当にこれでやりたいと思ってるのか」「・・・はい」「じゃあ死ぬ気でやれ」。

 繰り返すけど思い付きだったから、興味もへったくれもない。それでも、やるだけやってみることになった。「自分で問題意識を持って、ジャーナリズム精神でやってくれ」とまで指示された。裏を返せば、「これまで君が書いてきた企画記事は、そういう部分に欠けているよ」という指摘でもある。

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 与えられた期間は2週間。それまで1週間足らずしか準備期間がなかったことが多かったから破格の待遇だ。さて、企画を提案してみたものの、まったく知らない業界で、誰に話を聞けばいいのかわからない。とにかく関係のありそうなところに片っ端から足を運んだ。あとからこの件で手にした名刺を数えると29枚。電話取材も含めると50人近くの話を聞いたことになる。

 当然、いろいろな立場の人がいて賛否両論あった。どこかに肩入れすることはできない。ただ、中立であろうとすればするほど賛否どちらからも苦情や批判がきかねない。だから、間違いや事実誤認はもちろん、誤解を生みかねない記述も一片たりと許されなかった。どこまでなら書けるか、細かい表現一つ一つに神経を使う作業だった。最後の1週間で3キロ痩せた。

 書き上げた原稿を見た上司の感想は、一言、「まぁ、及第点だな」。

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 記事を書き上げ、校了の翌日。読者のもとに新聞が届く。その日は終日、いつ携帯電話が鳴るか、おびえていた。「なんてことを書くんだ」「この部分は間違っている」・・・。完璧を期したし、打つ手は打ち尽くしたから、もうどうにでもなれと腹は括っている。それでも、どんな反応が来るか怖かった。

 けっきょく、「何でうちは記事で触れられていないんだ」「あれだけ話したのに使われているコメントが少なすぎる」という2件の苦情だけ来た。取材に応じてもらったことに有難いと思いつつ、俺はあんたらを宣伝するために記事を書いたんじゃねぇと内心毒づいた。たくさんの情報を適切に取捨選択するよう努めたから、その点はどう批判されても受け応える用意はある。

 ほとほと疲れきって、記事が出た後ですらびくびくしながら、それでも、なんともいえない充実感を得ていたことに気づく。仕事が楽しい。3年以上働いてきて、正直、始めて得た感覚だった。「がんばろう」とか「ベストを尽くそう」とか、薄っぺらい言葉はまったく頭になくて、必要に迫られてがむしゃらにやってただけだ。ただ、この先、どう影響するかは分からないけれど、かけがえのない経験をさせてもらった、何かを卒業した、そう思う。


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