人間関係についての考察

 友人とか、そういうものについてつらつらと考えてみた。

 まず、人が集団を作るという行動は、動物的本能によるものであろう。
 単独では勝てない相手を狩るためのものであると想像できる。
 または、狩られないための予防行動。
 単体が強い動物であれば、群れを作ることによるメリットがあまり無い。

 ヒトという種における集団も、大きな視点で考えれば同じことが言える。
 一人では通らない意見も、集団の力を持てば通ることが多い。
 つまり、戦うべき相手は、自らと同じ種であるということになる。

 で、本題に移る。
 友人という関係が、いまいち分からない。
 共通の目的を持って、それに向かって邁進する、という集団は、友人と呼ぶのか?
 まあ、定義の話は結論付きようがないので、取りあえず棚上げするとしても、端から見ているに、ただの隷従関係になっている「友情」が多い気がする。メリットデメリットを言い出したらきりがない上にナンセンスなのかも、とは思うのだけど、じゃあ、何故に徒党を組もうとするのだろうかというのが、本当に不思議に思うことがままあるわけだ。
 自身が、あまり人間関係を築きたくないと思う性向なので、余計にそう思うのかも知れない。

 例えば、仕事上の人間関係というのは、全然不思議に思わない。
 むしろ、進んで良好な人間関係を築いていこうとする自分がいる。
 しかし、その築く相手は、結構シビアに選別している。
 性格的な部分が大きいが、能力的なものを期待しての場合もある。
 確実に言えるのは、「一緒に仕事をしていて楽であること」を常に最重要項目として、無意識的に行動しているということである。それは、客観的に考えるに、当たり前の帰結だ。能力的に優れている人が集団にいるなら目的の遂行は容易になるし、場の雰囲気を和やかに保てる人がいれば、険悪なムードに陥ることもなくなる。

 それを、ごく私的な場に持ち込んでみた場合に、とたんに分からなくなる。
 普通に集団を組んで生活している人に、じっくり聞いてみたい。

 思うに、不安なのかな、と。
 常に、誰か他人からの視点で自分を認識してもらわないと、自分自身の存在そのものが揺らいでしまうのかも知れない。しかし、それはあくまで、自分に好意的なものでなければならない。何故なら、そこで否定されると言うことは、自らの存在そのものを否定されることだから。
 最初にも述べた自己防衛の一つなのかもしれないな。

 価値観を共有することに喜びを見いだすのは、動物的な本能なのかな?
2005年05月16日(月)

日々 / いけだ