ひとつの考察 |
前に書いた、「哲学と反哲学」を読んでいて、珍しいことに考えがまとまりました。 ので、ちょっと書いてみようかと思います。
哲学とは、西洋の文化的要素を多分に含む。 その基礎となるのは、プラトンのイデア論が大抵であると思う。 一方、東洋の思想、特に日本の思想においては、文化・気候・民族性など、あらゆる部分において、西洋の思想が持つ背景とは異なるものを持つ。 結果として、日本人には「哲学」を理解することは出来ても、実感することは出来ないのではないか? また、実感する必要も本来無いのではないか?
日本古代思想において、すべての事象は「あるべくして、そこにあるもの」と定義されている。 それは、八百万の神という概念より、想像することが出来る。 すなわち、西洋思想にみられるような、「存在」としての概念と、「本質」としての概念は、日本思想においては、初めから一体化されていると考えられる。
人間という生物の特徴として、事象を「存在」と認識すると同時に、それを記号化して抽象化することが可能である、ということが挙げられる。 この利点は、万物の存在、まさに目の前に広がる世界を、一歩離れたところから俯瞰出来ることにある。これにより、客観的な視点を手に入れた人類は、この客観的な視点から世界を眺めることにより、世界における各種の関連性、法則性を認識するようになる。結果として、科学文明の爆発的な発展を遂げ、今日に至るわけである。 しかし、その結果として、「存在」と「本質」という見かけ上の分離を感じるようになり、思考の袋小路へと迷い込むことが往々にして起こる。
世界は、人間の定義に依存せず、ただそこにある。 事象を客観的に認識し、各事象における相互作用を理解するのは大事なことではある。 しかし、言葉上の概念に捕らわれることなく、明確な線を引くことも、また客観性であるということを忘れてはならない。 ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなくてはならない」は、このような意味で発せられたものであろうと想像する。
書いてはみたものの、やっぱり改めて形にすると、どうも幼稚だなー。 しばらく煮詰めてみようと思います。 ハイデガーとメルロ・ポンティの著作を読まなきゃなぁ。
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2005年04月12日(火)
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