2011年01月14日(金) |
私が伊達臣人でs(ry |
お金があったら私も伊達臣人と名乗って寄付をしてみたい。そんなえあですこんにちは。直人じゃないよ臣人だよ。 伊達直人の文字を目にするたびに、うっかり臣人の顔が浮かぶ人は私だけじゃないはずだと思うんですがどうでしょう。 というか実際に寄付した人の中でも実は一部伊達臣人が混じってるんだけど施設の人が「わあうちにもタイガーマスクが来たー」って思って一緒くたにされてはいまいか。ちょっと心配です。杞憂です。
さて、タイガーマスク・伊達直人と名乗って全国の児童養護施設にランドセルなどの金品を贈るという活動がブームになってちょっと経った今日この頃ですが、私はそれは心から賞賛すべき素晴らしい行為だと思います。
mixiとかのコメントを読んでいてもその殆どが賞賛ですが、稀に「売名行為」だの「ブームに便乗してるだけ」だの「来年以降もちゃんと続けるんだろうな?」だの「もらえない子供の気持ちを考えたことがあるのか?」だの「模倣犯が出たらどうする気だ」などとギャグみたいな意見があって楽しいです。 旬の釣り堀ですものね。釣り師も今が稼ぎ時ですよね。
発作的に、見かけた各コメントについての細かい反駁を一つ一つ書こうかと思ってしまいましたが案の定途中で面倒臭くなりました。 よって細かい自論は省きますが、良い行いは正当に評価される世の中であって欲しいなぁというのが私の感想です。 評価をされる側が自ら要求するのは格好悪いことですが、評価されていいものを評価できない人間ってのもかなり格好悪いものです。ひがんでるみたいです。
自己満足だってブームに乗ってるだけだっていいじゃないですか。 無償の愛は本当に無償なわけじゃないんです。物的には無償ですが精神的には有償だからこそ出来るんです。自己満足という対価があって当然なんです。 そしてその自己満足が「売名行為」だろうと「俺カッコイイ」だろうと「相手の喜び」だろうとどれほどの違いがあるのでしょう。 受け取る側にとっては何だろうと同じですし、明言しない限り判別自体できません。 自己満足がさも汚い感情のように言われる事もありますが、自分が満足しない行為を自主的に行うことってこの世の中にそうそうないと思うんですけどね。
一回きりだっていいじゃないですか。 継続的に続ければ尚良いのは疑いようもなく確かですが、例え一回きりだとしたって受け手は助かっているでしょう。あたかも継続的に続けないなら悪だとでも言わんばかりの意見は実に不可解です。 来年以降の子の気持ちなんて言い出したら、1つ上の子はどうするんですか。そもそもランドセルってチョイス自体間違いだってことになる。もういちゃもんつけすぎてわけがわかりません。 自分が親や先生なら、子供には、善意はなくて当然受ければ僥倖なものだと教えたいですし、自分が頂ける側の子供であったって善意のおかわり要求恥ずかしいって思うと思うんですけどね。
……あらやだ結局なんだかんだとぶつくさ語り始めてしまいました。 まあ要するに単純にいいものはいい、それでいいじゃないですかってことで。 皆して難しいこと考えすぎるから本当は単純なはずの社会が複雑になるんですよ。ハハッ。
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