「お前を初期化しようと思う」 俺が静かに言うと、霞がかっていたあいつの目に、微かに光が走った。 うう、と小さく唸り、薄い唇を噛む。カリカリと響く馴染みの音。明滅する額の石。 何かを考えているらしい。 暫くの後、ポツリとあいつは呟いた。 「……私は、廃棄処分されるのか?」 初期化する―――――それには色んな意味や場合がある。 彼はその「色んな意味や場合」の中から、「廃棄処分される」という可能性に意識を奪われたらしい。 翠の目が揺れている。 俺の答えを待ち侘び、同時に恐れている様な目。 俺は彼がフリーズしない内に、明確に答えを示してやった。 「違う、廃棄処分なんてするわけ無いだろ」 首を振ると、彼は明らかにほっとした様子で息をつき、それから重ねて尋ねてくる。 では、何の為に、と。 「OSを入れ直すんだ。 お前が此処までいかれちまったのは、ハード面と言うよりソフト面での問題が大きい気がするから」 「…………」 いかれている、と言われたのにむっとした様に眉を寄せる。が、事実なのでどうしようもない。 ―――――こいつがおかしくなった原因が、本当にハード面よりソフト面にあるのかどうかは判らない。 ただ、そうだったら良いな、と俺が思っているだけだ。 ソフト面ならまだ対処の使用もあるけど、ハード面だった場合は、俺にはもうどうしようもないから。 工場に送って修理してもらうか、こいつを「廃棄処分」して新しいのに買い換えるか……俺に出来る事はそれくらいしかなくなってしまう。 そしてそのどちらにしたって、こいつは「初期化」される。他人の手で。 ……それならいっそ……… 「……アデュー?」 呼ばれて、俺は我に返った。 あいつは不思議そうに、俺の顔を覗き込んでいる。 「どうしたのだ?」 「いや、何でもない」 首を振り、意識を現実に切り替える。 まずやらなくてはいけないのは、こいつの中にあるデータの保存。 作成した文章、図、送られてきたメールやウェブブラウザに設定してあるブックマーク……必要なファイル全てを、別の媒体に保存しなくちゃいけない。 俺は、これからかなりの量のファイル保存をしなくちゃいけない事を告げ、「出来そうか?」と尋ねた。 「……やる」 硬い声での返事。 目には、此処最近殆どお目にかかれなかった、クリアーで鮮烈な光を点している。 「この私がファイルの保存の様な簡単な作業くらい、出来んと思っているのか」 ……つい先日、ファイル保存に失敗して三時間分の作業をパーにしてくれたのは誰だったっけ。 まあ、彼がやる気になっているのに、そんな事を言って水を差す必要は無い。 「じゃあ、頼む」 俺はまず、前もって用意しておいたフラッシュメモリに、頻繁に使うファイルを移すことにした。 要るものと要らないものの選択、それらの移動、削除、保存…… カリカリ、カリカリ。カリカリ。 すぐにいっぱいいっぱいになるメモリをこまめに掃除してやりながら、俺はあいつの様子を見守る。 ……苦しそうだ。が、気迫と根性で自分の中のシステムを制御し、安定させている。 「無理するなよ」 思わず俺が言うと、彼は少しむくれたような顔で、 「誇り高きメーカー製のこの私が、ネットカフェの有象無象などに遅れをとって堪るか」 と返してきた。 「……知ってたのか、俺がネットカフェに行ったの」 「私の知らないイオン臭がしたからな」 低い声。 寄せられた細い眉は、ぴくぴくと神経質に震えている。 「私というものがありながら……あんな、不特定多数の者共の手垢に塗れた『箱』などに……」 頬の赤味が増してきた。 「―――――甚だ不愉快だ」 カリカリ、カリカリカリ。 今にもオーバーヒート、ハングアップしそうなあいつは、それだけ言って、また唇を噛む。 本当に不愉快なのだろう。翠の目は、怒りで「生き生きと」輝いている。 俺はそんな彼の「自分勝手」な言葉と仕草に、思わず声を上げて笑った。 「何がおかしい!!」 癇に障ったのか、怒鳴りつけてくる彼。俺は笑いを納め、その目を見つめた。 「おかしいんじゃない、嬉しいんだよ」 そう、嬉しくて堪らなかったのだ。 「………」 彼は怪訝な顔をしている。 その、静電気でふわりと浮き上がっている銀の髪を撫で付けながら、単刀直入に言ってやった。 「お前、ネットカフェのパソコンに嫉妬してるんだろ」 「―――――」 一瞬、極端にCPU占有率が上がった。 カリカリ、カリカリカリ。 「自分が動けない間に、別のパソコンに俺を取られて、悔しかったんだよな」 「……馬鹿な事を言うな」 更に赤くなる頬。煌く目。揺れる髪。 カリカリカリ。カリカリカリ。 判り易い反応は、更に俺を喜ばせてくれる。 「か、仮にもこの私の所有者たる男ならば、そのような真似をするなと言いたかっただけだ」 「浮気するなってことだろ」 「違う!!」 「どう違うんだ?」 混ぜ返すと、あいつは言葉に詰まってしまった。 ううう、と唸り声。 本当ならもっと図星を突いて慌てさせて怒らせてやりたい所だけど。 これ以上興奮させると、あいつの健康に悪い。 「判ったよ、もうネットカフェなんか行かないから」 そう言って、すべすべした頬を撫でてやる。普段はひんやりとしている其処の熱さに、また嬉しさがこみ上げる。 嫉妬するこいつを見て喜ぶ、っていう俺の反応は、単純なのか複雑なのか。 「……判れば良い」 偉そうに呟くと、あいつはまたファイルの保存作業に意識を戻した。 カリカリ、カリカリカリ。 フラッシュメモリに付けられた小さなランプが点滅する。 本当に小さな媒体に、刻まれていく沢山のファイル。 俺がこいつで作った、他に代えの無いオリジナル。 「お前、この文章ワードで打ってる時に、五回くらいフリーズしたよな」 「……こんな破廉恥なものを入力される私の身にもなれ」 「このCG描く時も、三回くらいセーブ中に失敗したし」 「こんな下品で汚らわしいものをわざわざフラッシュメモリに移すな!!」 一つ一つのファイルに纏わるエピソード。 ほんの些細な事も、驚くほど明確に思い出せる。 まるで昨日の事のように。 ……それを俺がいちいち口に出して、あいつがまたいちいち反応を返すものだから、作業は中々進まない。 「横からごちゃごちゃ言うな!気が散るではないか!!」 「でもさあ、こう色々と見てると、ああ、あんな事もあった、こんな事もあった、って懐かしくてさ。 それに、どのファイルにも凄い愛着があるしな」 「こんな下らんテキストやグラフィックにか?」 「ああ。出来が悪くても、こいつらは間違いなく、『俺が』『お前で』作ったものだし。 ……言ってみりゃ、俺とお前の子供みたいなもんだろ」 「―――――」 カリカリカリカリカリカリ。 「……人間というものは、よくもそんな詰まらん例えを思いつくものだ」 俯き、フンと鼻を鳴らすあいつ。 その、落ちかかる前髪の向こう、林檎のように真っ赤になった頬をもっと近くに感じたくて、俺はその華奢な体を抱き寄せる。 ……電源プラグが抜けないように注意しながら。 フラッシュメモリを埋めたら、次はCD-RW。 こいつの中の雑多な「記憶」を雑多に「記録」していく。 徐々に踏まれていく初期化の手順。 「初期化されたら、『私』はどうなるのだろうか」 俺の腕の中で、あいつはポツリと呟いた。 「『私』は『私』でなくなってしまうのだろうか」 「それは……」 心細げな声に俺が口を開きかけると、それを遮るように 「否、例え初期化されようと、この私が誇り高きN社製である事に変わりは無い」 ……と自分で結論を出し、一人で頷いている。 俺は小さく笑い、銀の髪を撫でてやりながら「そうだな」とだけ言った。 初期化した後、「こいつ」がどうなるか。 それは、もうじき、嫌でも判る事なのだ。
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