Leaflets of the Rikyu Rat
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ついさっき、私は男に欲されることにのみ、存在する意味を見出せると書いた。 だとすると、私は転落したのではなくて、この世に生きている意味を、もっともっと求めるようになったのだろう。 (桐野夏生『グロテスク』より)
似ている。けれど少し違う。 突き詰めて行けば、おそらく自分も「欲されること」が己の存在意義であるのだろうと思われる。 しかし自分は更に条件を付ける。「欲したい」と感じた相手に「欲されること」というのが正しいだろう。 「欲された」相手を「欲したい」と思えればそれでもよい。順序など無関係だ。 生まれついての娼婦であると自称する小説内の登場人物よりも自分は貪欲なのだろう。 己は独りでも生きて行くことは出来るけれど、「生を実感すること」はできないのだ。
己の努力は全てが目標へと至る「可能性」のためであるのだと感じた。 欲する相手に欲されるという目標。 欲する相手に欲されるための努力。
地位も名誉も名声も 財力も権力も若さも時間も 自由も
上に挙げたものは全て外観的な要素に過ぎない。 けど人間は外見に左右されるものだ。(特にゲイは酷い。) であれば外観的要素を磨くべきであることは容易に理解に足る。 全ては「可能性」へと結びつく。 全ては自分が存在する意義のために。
客が若い娼婦を買いたがるのって、肉体の魅力じゃないのよ。 若いということは未来があるから、男たちは若い娼婦が持っている時間を買うんだと思うわ。 (同上)
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