2013年10月19日(土) |
第六章 愛しきもの 2203年 春 (1) |
第六章 愛しきもの 2203年 春 (1)
沢井園子は新しく建てた山小屋風のアトリエへ嶺岸茜を誘った。会って色々語り合いたいと思いながらも互いに忙しくてこのようにゆっくり二人で過ごすのは昨年以来の事だった。
茜は園子の新しいアトリエを遠くから眺めたことはあったが訪れた事はなかった。どのような建物なのか興味があったので園子の誘いに喜んで久しぶりに休暇を取って来た。
川に沿った遊歩道を上流の方へ暫く歩き、杉林の中の細道を登ると光る川を見下ろす崖の上にそれはあった。茜は幼い頃見た絵本の何処かにこんな丸太小屋の絵を見たような気がして、何だか嬉しくなってしまった。
目を輝かせて暫し見惚れていると、園子が入り口のドアを開けて、急き立てて茜をアトリエの中に招き入れた。
茜は自然の木の素朴な質感だけの室内を見回しながら嬉しそうにその場でくるくると回った。
「まあ茜さん。落ち着いて座ってよ」
と園子が笑ってソファーに茜を座らせた。アトリエの中は想像した以上に広かった。
「素敵なアトリエね。わあ、良い感じね」
茜はソファーに座ったまま室内をぐるっと眺めてシンプルで居心地の良い雰囲気に感心していた。
リビングルームの一角をカウンターで仕切った内側が対面式のキッチンスペースになっていて、その側にバスルームのドアがあった。
リビングの奥は絵を描く仕事場になっていて、その更に奥まった所の中二階に梯子の様に急な階段がついていて、上の段にはベッドが置かれ園子の寝室になっていた。
ベッドの横の三角形の壁に窓があり、窓辺で緑の梢が揺れて光が揺らいでいた。天井が無く屋根の傾斜がそのまま頭上に大きな空間を作っていた。
山小屋の周りの杉の梢が風に揺れると屋根の天窓から差し込んでくる日差しが揺らいだ。川に面した大きいガラス戸からも日が差して全体に明るい感じだった。
水の流れの音が耳に心地よく、優しい木の質感と杉材の爽やかな香りが疲れた神経をリラックスさせてくれるのだ。茜はソファーの背に身を委ねて心地良さに優しく包まれて脱力していた。
「ああ、何かほっとするわ」
茜はふわっと身を包む安らかさの中で、今まで気付かなかったが本当は酷く疲れていた事を自覚した。目を閉じてほっと溜息を一つはきだして目を開けた。
すると、何と園子の肩に小鳥がとまっていて、それがちょろちょろと彼女の肩の上を端から端へ小走りに動き回っているではないか。
快活な仕草の小鳥のつぶらな黒い瞳が自分をとらえ、明らかに興味を示していた。無邪気な好奇心に突き動かされて今にもこちらの方へ飛んで来ようとしていた。
園子は茜のびっくりした様子を見て微笑んで言った。
「ラピちゃんって言うのよ、この子。かわいいでしょう。高水のおばあさんの小鳥じゃないのよ」
園子は肩に小鳥を乗せたままコーヒーを運んできた。すると、小鳥が急に茜の方に飛んで来て、不意を突かれて一瞬身を引いてしまった茜の肩先に上手に着地すると、嬉しそうに行ったり来たり駆け回った。
突然、小鳥が肩に乗って来たので、茜はすっかり固まってしまった。
そんな茜を見て園子は自分の肩先を指先で軽く叩いて小鳥に手で合図して見せながら優しくその名を呼んだ。
「ラピちゃん、ここにおいで。ラピ、ラピ、ラピ、ここにおいで」
すると小鳥は小さな足で茜の肩を蹴って園子の肩へ飛び移って行った。茜は園子の肩にようやく落ち着いた小鳥を眺めた。
それは非常に綺麗な青紫のセキセイインコだった。
「小さな小鳥なのに園子さんの言う事が良く解かるのね。凄い利口なんだ」
ほっとしながらも興味深そうに見ている茜に園子が話し出した。
「この小鳥ラピちゃんっていうのだけど、私東京で拾ったのよ。一月の中旬ころだったわ。
あの日は都心の文化ホールにちょうど良い小スペースがあるので絵画展の場所にどうかと思って下見に行ったのよ。
ちょうどその日は写真展の初日で、お祝いの花篭が沢山入り口の外に飾ってあったのだけど、閉める時間だったので受付の人が外にある花篭を全部中に入れて壁際に片付けたのよ。
そしたら、その花篭の花の中に小鳥がとまっていたの。それがこのラピちゃんだったってわけなの。受付の人はこんな小さな小鳥も怖がるほどの怖がり屋の若い娘さんで、怖くて近寄ることもできないの。
可愛いセキセイインコだし、もしかしたら手乗りかもしれないと思ってそっと手を近づけたらこの指に乗って来たのよ。あの時のこの手の感触が何とも言えず印象的で、この子の足の冷たさとぎゅっとつかんだ小さな足の力が私のこの手に伝わって来てね。
それが強烈だったわ。小鳥を手にとめた経験なんて一度も無かったの。その時が初めてだったのよ。この子ったら黒い小さな丸い目で私の顔を見詰めたの。
私のこの手を両足でぎゅっと握っていたのよ。そうしたら冷たかったその足の感触が段々温かくなって来て、小さな命が必死に生きようとしているのを感じたの。
会ったばかりの私を信頼してくれたのがとっても嬉しかったわ。すっかりこの小鳥に魅せられてしまって、それでアトリエに連れて帰って来たの。
今ではすっかり馴れて私の可愛い家族なの。機嫌が良い時は、ラピちゃんラピちゃん、なんて自分の名前を言うのよ」
園子は愛しそうに小鳥の頭の後ろを指で軽く撫ぜた。小鳥は園子の柔らかい指の愛撫に頭を差し出して目を瞑りうっとりとして、さらに首筋を撫ぜて欲しいと言わんばかりに首を傾けて目を細めた。
「あらあら、撫ぜてあげると気持ち良さそうに甘えてるのね、驚いたわ。園子さんに自分の名前をちゃんと教えたのね。なんてラピちゃんはおりこうさんなのでしょうね。可愛いわね、園子さんの宝物ね」
茜は感心して小鳥の仕草に見惚れていた。
「あの日は本当に底冷えのする寒い日で、あのまま外に放置されていたら、きっと凍え死んでしまったと思うわ。ペットを飼っていても手に余ると簡単に捨ててしまうそうよ。
引っ越す時に置き去りにして行ったり、適当に外に放して行ったりするそうよ。この子はどうだったのか解からないけど、私の手をしっかり捕まえてしがみ付いている以上置き去りにすることなんて私にはできなかったわ」
園子はレタスの葉を少しキッチンから持って来た。すると、小鳥はいそいそと園子の腕をつたい、手に持ったレタスに飛びつき美味しそうに夢中になって食べ始めた。
( 続く )
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