京のいけず日記

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2005年10月30日(日) ケータイにもの申す

別に…FOMA がつながりにくい…とか。そういう話ではございやせんが。
ま、一つ、あっしの話を聞いておくんなせえ。

電話口で嘘八百の歳三さん

この人がケータイ持っていたら…
ロクな事に使わなかったりして。案外、電話魔かも(笑)


まる子ちゃん(中1)がケータイが欲しいと、また言い出した。
昨日の「どこもやさん」のチラシではないが、11月から電話料金が安くなるから、
「まるちゃんも、おうちの人に買うてもらったら」と友達に言われたらしい。

そ、…そういう問題じゃないのよ、まる子ちゃん。(←半分あたっている)

聞けば、お友達のほとんどの子が持っていると言う。

「持ってどうすんの?」と聞くと
「持っていたいだけ。みんな持ってるから」

確かにケータイを持っていると常に連絡がつくから安心だ。
年々、子どもの行動範囲は広がっていく。
私も、ダンナも、高校生の長女も、仕事や、塾で、夜遅いことも多い。
もはや仕事には不可欠だし、『つながっている』という安心がある。

長女には、中3になって、塾通いが始まってから買い与えた。
この時も結構遅く、長女にはせっつかれたが、親の方針で買わなかった。
だからって、まる子にも中3まで待てとは言わないけれど。
出来るなら遅い方がいい。
必要不可欠でないのなら持つのは遅くてもいいと思う。

『つながっている』という安心は『つながらない』ことへの不安を煽る。
『つながっている』という安心から自分や他人に対して横着になってしまう。

例えば、人と待ち合わせる時、相手との連絡手段がなければ。
時間に遅れないようにする。
相手がすぐに分かるようにする。
ごく当たり前のことに、どれだけ心をくばるだろう。

あるいは姿を見せない人に対して、
何かあったのかと、どれだけ相手の身を思いやるだろう。

仕事で夜遅くなる。
たった一人で待つ子どもに電話を入れる。
「ご飯食べたか。鍵は閉めたか」返事を聞いて安心する。

電話という『つながる』道具がなければ、どうするか。
事細かに書いた手紙を残す。
家に帰るまでは頭の隅っこでずっと子どもの無事な姿を思いやっているだろう。
もっとも電話であれ、子どもの顔を見るまで安心できないのは同じだが。
『つながる』ことで安易に安心してしまう。

とはいえ、実際には、親の声を聞くと子どもは安心する。
友達と『つながる』ことで、持っているだけで安心なようだ。

『つながる』安心より、淋しくとも 『つながらない』 気ままさの方が好きだ。
と言っても、それは親の好き勝手な生き方で押し付けはできない。

ケータイにしろ、車にしろ、コンピュータにしろ、もう、この便利さは手放せない。
だけど。時々は、もし、なかったら、と想像してみるのもいいのかもしれない。

ご先祖さまが暮らしてきた、それぞれの時代。
どの時代にしろ、案外、捨てたものじゃなかったかもしれない。

もしも。ケータイというリアルに 『つながる』 道具が過去にあったなら、
ドラマも生まれず、歴史も変わっていたかもしれない…。


あ。また脱線。

そうそう、まる子のケータイですね。
家族の時間割がバラバラの今、持たせどきかなぁ…。
親の安心したい都合だけで、ほんとは小中学生の子どもには必要ないのかも。
みんなが持っていれば欲しいでしょうけど。

ケータイって平均何歳ぐらいで持つんでしょうねぇ。
…私のケータイは。いつ掛けても出ない、と、ダンナから言われてます…(笑)


Sako