京のいけず日記
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ただ今、京チャン「新選組逸話」を見ています。 歳三忌の様子も流れていました。長いこと行ってないなあ…。
(こいつら。俺の冥福を祈りに 別れを惜しみに 来たんじゃねえのか…)
昔、祖母が亡くなった時、子ども心に思った。
何なんだ。コノヒトタチハ…。
親戚のオッチャンやオバチャン達が、お酒を飲み、寿司を囲み、 どうでもいいような話に盛り上がって笑っている。
祖母が亡くなったというのに、どうして、こんなに晴れやかなのか。 私達の小さな領域へ、突然、土足で上がりこみ、我が物顔できり回している。 呆然とするやら、腹が立つやら。
母の葬儀は友引をはさんだために長い通夜となった。
毎夜のように葬儀の段取りに右往左往している私達を ドライアイスを抱いた母は笑ってたことだろう。
人が死んだというのに、ドタバタ…。まるで喜劇のようだ。
葬儀会場での一晩の通夜。 寿司桶を囲み、酒を注ぎ、無駄話に興じる。
祖母の葬儀の時と同じ顔ぶれだが、30年も経つと、 オッチャンや、オバチャン達は、悲しいほどに歳を取っていた。
線香の番をしたいから泊まりたいという親戚のオバチャン4人と、 まるで合宿のように、控室に枕を並べ、3組の布団に5人が寝る。
「あんたは末っ子の甘えたやったなぁ」
四十路のオバチャンもここではいつまでも子どものままだ。 子ども扱いに閉口しつつも、 甘えん坊にしておきたいのなら、永遠にその役でいてあげようと思う。 (↑ そういう考え方が既に甘えん坊根性なのね)
ろうそくの灯り。線香の煙。明々とライトアップされている母の写真。
「代わるから寝てきよし」
深夜、祭壇の前に座っていると、入れ替わり誰かがやって来る。 会食時と違って、1対1の会話はうら寂しく悲しい。
30年前、子どもだった私は、通夜の騒ぎだけを見て、 その後に訪れる静寂も、交わされる会話も、悲しさも知らなかった。
忙殺されるからこそ、悲しみを忘れる。 故人のために、残された家族のために明るく振舞う。
「こういう時しか中々会えないなんて淋しいねぇ」
年上の従兄弟が言った。確かに…。
それでも…。
それでも、叶うなら、 死ぬ時はひっそりと静かに死にたい。葬式はいらない。
10年後、20年後、思いはまた変わるだろうか…?
Sako
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