ATFの戦争映画観戦記



【File118】十七萬接続達成記念・・・再録/よろず観戦日誌〜男たちの大和

2006年04月15日(土)

ご存知の通り「大和ロケセット野戦OFF従軍記」を無事公開する事が出来たのですが、執筆に熱中し過ぎて十七萬接続記念の企画をうっかり忘れておりました・・・(大汗。何とかしなければ・・・と考えていたら、ふとある事を思い出しました・・・そう言えば、以前『よろず観戦日誌(現観戦武官長私室/更新停止中)』『男たちの大和』について書き込んだよなぁ・・・って事で早速過去記事を調べたらありました!・・・2004年8月9日(月)から8月18日(水)にかけての全10話(幕)。そこでこのままネットの奥底に埋もれさせるのも勿体無い・・・いえ、決して手抜きでは(自爆)・・・今回の十七萬接続記念に託けてサルベージして再度公開決定!・・・尚『男たちの大和』関連記事は全10話(幕)だったのですが、記載文字数の関係で内3話(幕)・・・大和ミュージアム開館時の市民団体の抗議行動の件・・・は割愛いたしました。また文中記載の日時は特に年の表示がないものは2004年のものです・・・それでは恒例【開演ブザー】・・・今回も携帯電話の電源はそのままで・・・【文中の様々な書き込みには資料的価値は全くありません・・・(^o^;A】

【男たちの大和・・・映画化決定・・・巻一】
角川春樹氏・・・と言えば『メディア・出版界の寵児』と言われた出版大手「角川書店」の元社長である。今から30年前の1975年、父である国文学者の角川源義氏が1945年に創業した「角川書店」の社長に就任するや、自社版権所有人気小説と、その映画化による販売相乗効果を狙ったメディアミックス戦略を打ち立て、翌1976年に「角川映画」を設立、横溝正史原作の「犬神家の一族」を映画化し邦画界に進出した。その後「人間の証明」「野生の証明」「セーラー服と機関銃」「時をかける少女」「戦国自衛隊」など次々にヒット作を製作。1982年の「汚れた英雄」では、自ら監督としてメガホンを取った。しかし、1993年にコカイン密輸による麻薬取締法違反などの容疑で逮捕され、2000年3月に最高裁で懲役4年の実刑が確定。病気療養のため一年間の収監保留の後、2001年11月より服役・・・2年5ケ月の服役を経て2004年4月8日に仮釈放された。逮捕裁判中に「角川書店」の社長職は解任され、社長職の後任には実弟でメディアワークス社長だった角川歴彦氏が就任した。裁判中から、新たに「角川春樹事務所」を設立し、出版業のみならずマルチメディア事業、映画・ビデオ製作・企画を手がけていた。特に「ハルキ文庫」のシリーズ名で人気作家の文庫諸作品を次々に発売している。角川春樹氏は現在「角川春樹事務所」の特別顧問職となっている。さて、その角川春樹氏が今日8月9日に、久方ぶりに公の場に姿を現わした・・・都内のホテルで行われた映画「男たちの大和/YAMATO」(佐藤純彌監督)の企画発表記者会見である。実は今朝未明に角川春樹氏の実母照子さんが亡くなっていた中での記者会見だった。「男たちの大和/YAMATO」は角川春樹氏の実姉で作家の辺見じゅんさん原作の小説(ハルキ文庫刊)・・・昭和20年4月に菊水水上特攻として沖縄方面に出撃、米軍艦載機の猛攻を受けて奮戦空しく鹿児島県坊ノ岬東方沖90海里の地点に沈んだ「戦艦大和」の生存者や遺族に取材したドキュメント小説・・・を映画化する作品。2005年秋公開を目指して製作が開始される。角川春樹氏は、この映画の製作に関して私財を投じて全製作費30億円の半分・・・15億円以上を負担する意気込み。過去の角川諸作品について「これまでの映画は本を売るためなどの別の理由もあったが、今回は映画への純粋な思い」で、初めて本気で映画を作るのだそうだ・・・が、こんな意気込みで映画を作る時に限って、良くコケルんだよなぁ〜コレが!

【男たちの大和・・・映画化決定・・・巻二】
さて「男たちの大和」の製作記者会見において目玉となった発表は、なんと言っても実物大の大和のセットを作る・・・と言うものであった。実物大の大和・・・って言っても想像つかないが、簡単に大きさだけ書くと全長263m・最大幅38.9m・喫水線上高62.3mっていうとんでも無い大きさである。過去邦画戦争映画では軍艦の縮小模型や部分セットは数多く製作されているが、全体セットとなると例がない(・・・と言うか私は思いつかないのだが)。そう言えば「トラ・トラ・トラ!」では、福岡県芦屋の海岸に実物大の戦艦長門(全長213m・最大幅29m)の木造セットが作られた・・・が、これは勿体無い事に映画撮影終了後に撤去されてしまった。よく戦争映画ファンの間でも、このセットを取り壊さずに保存・・・まぁ今風に言えばテーマパークにでもしてしまっていれば良かったのに・・・などと言う声が聞かれる。しかし、この撮影用モックアップ長門だが、写真を見れば解る様に、洋上に浮かぶ雰囲気を出す為か海岸線ギリギリまで迫り出して設置されている。これでは波や風雨の被害を受け易いし、木材部品の腐敗も早いので、このままの状態での保存は不可能だ。如何せん内陸部まで移動させるとなると、一度分解して再組み立てとなり、その費用たるや想像もつかない。そして一番の問題は、仮にテーマパークみたく展示しても、維持保存する為の費用を捻出できるだけの収益が見込めたかどうか怪しいものである。ことに我々日本人(の一部)は、戦争関係の遺物や物品の保存や展示に妙な偏見を持っていたりするし・・・。閑話休題・・・話を実物大戦艦大和に戻そう。今回製作される大和がどんな材質で、何処に組み立てられるのかは想像出来ないが、撮影に使用される以上、長門の様に海岸線沿いに設置される可能性が高い。昨今のCG技術の発達からすれば、態々そんなところに設置しなくても、画面上では洋上シーンと組み合わせるのは容易であろうが、それならば最初から実物大の大和を作る必然性も薄い。あくまでも映画の為の話題作りの効果も狙っており、ともすれば映画撮影終了後に前述の長門では実現不可能だったテーマパーク化し、収益を得るという計画が無きにしも非ず・・・なんて事も角川春樹氏だったら考えていそうだし、共同製作は東映なので、いざとなったら変身・戦隊ヒーローショーと組んで公開すれば、大人も子供も楽しめるテーマパークって事になるかも・・・

【男たちの大和・・・沖縄水上特攻片道燃料異聞・・・巻一】
私は「戦艦大和」と言う言葉を耳にする度に思う事がある。それは大和最後の戦い・・・沖縄水上特攻(天号作戦)時における大和に搭載された片道燃料論争である。以前は、元学徒士官であった吉田満氏の著作を始め多くの著作において、大和以下第一遊撃部隊が沖縄に出撃した時点で、片道分の燃料しか搭載していなかった、と主張していた。しかし近年の研究では、大和始め第一遊撃部隊の全艦に、沖縄までの往復可能な燃料が搭載されていた・・・と言う説が一般的になっている。この説の根拠になっているのが、当時連合艦隊の補給担当参謀であった小林儀作元大佐の手記(「沖縄特攻艦隊の燃料/日本海軍燃料史(下巻988〜989頁)所載)によるところが大きい。これによれば、聯合艦隊司令部首脳陣は、この作戦に関して軍令部と種々協議を重ねたが、軍令部はこの作戦に関し極めて消極的で「現在日本国内の燃料貯蔵量は極端に逼迫しており、物資輸送船艇への護衛艦の燃料も十分とは云い難い状況である。従って燃料は極端に節約しなければばらない。この作戦の様な敵の制空圏下での艦隊行動は極めて危険である。例え沖縄に突入出来たとしても、その生還は期し難い。あくまでこの作戦を強行するのなら、燃料を片道分しか渡せない」との強硬意見だった。しかし聯合艦隊司令部としては「現状で港内に避泊したままで徒に敵機の攻撃を受けるよりも、日本海軍の名誉にかけて沖縄に突入して、その最後を飾るのが武人の本懐である」「本作戦の成功の算は極めて少ない。併しながら今海軍部内全般に亘って航空部隊はじめ全軍特攻として死闘を続けているのに、水上部隊のみ生き残って拱手傍観して居る。皇国存亡のとき、水上特攻をしないで良いのか」等の意見が強かった。結局、聯合艦隊司令部は、沖縄水上特攻作戦の決行を決定し、昭和20年3月20日に大海令作戦命令が発令された。しかし「例え生還の算無しとは言え、燃料を片道分しか渡さないと言うのは武人の情に非ず」との意見から、作戦命令を第二艦隊司令長官伊藤整一中将に伝達する為に、聯合艦隊参謀長草鹿竜之介中将が大和へ出向く折に補給担当参謀小林大佐が同行し、呉鎮守府に赴き機関参謀今井中佐と面談し沖縄特攻作戦の主旨を説明。帳簿外の備蓄重油(推定50,000屯)を第一遊撃部隊に補給する様に依頼した。その後、呉鎮先任参謀井上大佐、参謀副長小山大佐、参謀長橋本少将に報告し承認を得、第一遊撃部隊全艦への燃料満載補給が実施される事となった・・・。

【男たちの大和・・・沖縄水上特攻片道燃料異聞・・・巻二】
呉鎮守府首脳の了承を得た小林参謀は、呉軍需部長島田少将と協議した結果、重油タンクの底に溜まっていて動力ポンプでは汲み出せない帳簿外の燃料を、手動ポンプで汲み出し大和以下の第一遊撃部隊各艦に補給する事を決定。これが軍令部にバレ、万が一責任を追及された場合には、出航前の慌しい中で命令が正確に伝達されず、取り合えず積み込めるだけ積み込んで、過積載分の重油は後に戻すつもりだったが出撃時間に間に合わなくなった・・・という言い訳まで考えていた。その後、松岡第二艦隊参謀長及び先任参謀山本大佐に、この旨を報告・・・早速呉及び徳山の燃料廠で重油の積み込みが開始された。しかし呉及び徳山燃料廠では、直接大和が接岸して給油できなかったので、一度駆逐艦に給油し、洋上で大和へ駆逐艦から給油する方式が取られた。重油タンクから手動ポンプで汲み上げ、更に駆逐艦経由での給油の為に時間はかかったが、苦労の甲斐あって大和には4,000屯、二水戦旗艦矢矧に1,300屯、四駆及び十七駆、二十一駆所属各駆逐艦は満載、と合計で10,500屯が給油された。当初軍令部からの指示によれば第一遊撃部隊に給油される予定の重油は4,000屯であった。これは当時の海上護衛総隊司令部参謀大井大佐の著書「海上護衛戦」の中に・・・海上護衛司令部は、戦局がいよいよ厳しくなる中、極度に逼迫した国民生活に必要な物資を優先して日本国内に運び込む為に、海軍省と軍令部に懇願して海軍管理下の貯蔵重油から約7,000屯を護衛総隊艦艇用に確保していた。ところが「大和以下第一遊撃部隊の沖縄特攻出撃が決定したので、7,000屯の重油割当分から4,000屯を差し引く事が決定された」との連絡が大井参謀に伝えられる。慌てた大井参謀が連合艦隊司令部に電話で確かめると、応対した連合艦隊参謀が、その旨肯定した上で、以下の様な連合艦隊司令長官の訓示を伝えてきた・・・「光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚すると共に、その栄光を後世に伝えんとするに外ならず・・・」それを聞いた大井参謀は、怒りが込み上げ「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ!馬鹿野郎!」と叫ぶと受話器を投げ捨てた・・・と言うエピソードが伝えられている。当初は艦隊の片道分4,000屯の予定だったが、結局二倍半以上の量が積み込まれていたのだった・・・でもこんな事なら、護衛総隊艦艇用にも、帳簿外の重油を回せば良かったのに・・・これも旧海軍のロジスティック軽視の現われかと思うのは私だけだろうか?

【男たちの大和・・・沖縄水上特攻片道燃料異聞・・・巻三】
吉田満氏の著作や他の大和生存者の方々による著作では、殆んどに「片道燃料」という記述が見られる。この事から当時の下級士官や下士官兵乗組員の間には「片道燃料で出撃する」という事が当然の如く流布していたと思われる。他の航空機特攻について書かれた戦記を読んでも「片道燃料」という記述が多分に見られるが、この場合でも、実際は出撃しても接敵出来ない場合があるので「片道燃料で出撃」と言う事は殆んど無かったのだが、やはり一億総特攻が叫ばれる中で、特攻作戦従事者や国民の精神意識を高める必要から生まれたのが、この「片道燃料出撃説」ではなかったのか、と思われる。さて本題はここからである・・・大和以下の第一遊撃部隊の艦艇に、当初の作戦予定に対し二倍半以上の燃料が積み込まれた事は解った。これが多くの著作やサイトで「往復燃料積載説」の根拠になっているのだと思う。ところが大体にして、どの著述もそれ以上の事は言及されていない・・・往復分の燃料が積み込まれていた・・・とあるだけなのである。これでは「友だちの友だちのそのまた友だちから聞いた口裂け女や人面犬の話」と同じレベルである。以前にも書いた事があるが、仮にも軍オタの端くれを自称し、自分の意見をサイトで公表するのなら、物事をもっと物理的(数値的)に分析する目が必要である。そうでなければ「南京事件において、限られた時間内でたった数丁の軽機関銃で数万にも及ぶ捕虜を射殺した・・・」と言う話を鵜呑みにして、そのままサイトで発表しているのと同レベルとしか言い様がない。そこまで言うのならお前はどうなんだ、と言われる事を覚悟して、解る範囲で大和の性能緒元から数値を拾い、素人計算で「片道燃料説」を検証して見る事にした。

【大和片道燃料説の検証】
大和の燃料満載量は6,300屯で、公式航続距離は7,200浬(16ノット/時)である。1浬=1.852kmだから、単純計算で公式航続距離は13,334kmとなるので

航続距離13,334km÷積載燃料6,300屯=2.12km/屯(燃料1屯当りの航行距離)

となる。燃料1屯当り約2km進める訳だ。さて呉〜沖縄間の距離は、これまた正確ではないが約900km(沖縄〜鹿児島間は660kmある)なので、往復距離は約1,800kmとなる。この数値を基に計算すると、沖縄水上特攻出撃当時、大和は約4,000屯の燃料を積載していたので

積載燃料4,000屯×2.12km/屯÷往復距離1,800km=4.7往復

単純に計算すれば、なんと呉〜沖縄間を4.7往復する事が可能な程の燃料を積んでいた事になるのだ!・・・って、これじゃ小学生の算数だな・・・

【男たちの大和・・・沖縄水上特攻片道燃料異聞・・・巻四】
安直な計算で4.7往復なんて答えが出たが、世の中そんなに甘くない!さて艦船は完成して海軍に引き渡される前に、最終的な試験航海を行い様々な検査が行われる・・・これを「公試運転」と言う。当然大和も行っていて、その時得られた性能緒元では

公試基準速力15.91ノット/時(17,432馬力)毎時重油消費率7.71屯
公試全速力27.30ノット/時(151,707馬力)毎時重油消費率57.5屯

である。基準速力では毎時7.71屯の重油を消費する事から、単純航続距離は

積載燃料6,300屯÷毎時重油消費率7.71屯×基準速力15.91ノット/時=13,000浬=24,076km

となる。しかし、これは最初から最後まで16ノットで走った場合で、実際はこんな事は有り得ない。停止状態から基準速力まで加速するのにも燃料を消費するし、碇泊中でも各部動力源としてボイラー等が動いている・・・という事から

公式航続距離13,334km÷単純航続距離24,076km=55.38%

公式な航続距離は、単純航続距離の半分強の数値が設定されている事が解る。この事を積載燃料4,000屯に当てはめると

出撃時積載燃料4,000屯÷毎時重油消費率7.71屯×基準速力15.91ノット/時×55.38%=4,571浬=8,465km

しかし計算は、まだ終りではない・・・大和の最高速力・・・公試全速力時では毎時重油消費率は57.5屯となっているので

全速時重油消費率57.5屯/27.30ノット÷基準速力時重油消費率7.71屯/15.91ノット=7.46

なんと全速で突っ走ると、経済的速力である基準速力航行時よりも7.5倍もの燃料を消費する。大和は出撃時、既に豊後水道を出た時点から米潜水艦に察知されていたので、太平洋へ出た時点で既に全速に近い高速で突っ走っていたはずだ。

出撃時積載燃料4,000屯÷全速時時重油消費率57.5屯×全速力27.30ノット/時×55.38%=1,051浬=1,948km

と言う事で、なんと推定航行距離は1往復強と言う計算結果になってしまった。ところが、これでもまだ終りではない。実際には往復路とも空襲や雷撃が予想され、偽装進路や之字運動を行うので航行距離は格段に増大する。また戦闘により燃料タンクが被弾し、燃料が流出する可能性もある。こうして考えると最終的に得られた航行距離1,948kmでも「余裕ある往復燃料」とは必ずしも言えない。敢えて言わせて貰えば「多少余裕のある片道燃料」と言う方が適切だった、と思えるのである【ここでの計算式は多分に誤っている可能性大なので、修正のご指摘をお待ちしております】

【男たちの大和・・・沖縄水上特攻片道燃料異聞・・・巻五】
世の中に広まりつつある「沖縄水上特攻往復燃料説」について、敢えて逆説的な検証をしたが、結局燃料満載で出撃したところで、当時の状況・・・制空権無し・・・下で、多寡が10隻そこらの艦隊・・・いや戦隊程度か・・・が、沖縄まで辿り着く勝算は、当時の海軍首脳部・・・軍令部、連合艦隊司令部、二艦隊司令部、二水戦司令部の何れにも無かったのは確実だ。折角確保した燃料を横取りされた護衛総隊の大井参謀が怒った様に、嘗ての栄光と伝統に、この期に及んでまで固執し続けなければならなかった日本海軍の悲劇である。さて沖縄水上特攻作戦を語る上で、もうひとつ検証しなければならない事がある。それは、仮に大和が沖縄突入に成功した場合に「浮砲台」と化し、残った兵員は「陸戦隊」として第32軍に協力する、という作戦計画である。これについても「片道燃料説」と同じく、多くのサイト等で見られる記述であるが、実際こんな計画が立てられたという史料は、未だかって確認されていない。確認出来るのは「沖縄西方海上にて敵艦隊及び輸送船団を撃滅すべし」という電文くらいである。大体洋上に停泊または航行しながら砲撃するならまだしも、強行的に座礁などしても、上手い具合に水平に座礁して動力が確保出来ていれば良いが、少しでも艦体が傾いたり、動力が停止してしまえば、主砲による砲撃など全く不可能である。大体大和の46cm主砲塔は、一基が3000屯もの重量がある。動力源を断たれたら旋回すら覚束無い。ガ島における日本輸送船の様に、沈没を免れる為に座礁すると言う方法は考えられるが、如何に不沈艦たる大和でも、制止した状態でどれほど米軍の空と海からの攻撃に耐えられるだろうか?もうひとつ兵員を揚陸し陸戦隊として戦う、という話についても、大和だけでも3000名もの兵員が乗艦していたが、それらが完全に武装出来る程の陸戦用武器弾薬食料が積み込まれていたと言う記録はないし、しかも満足な揚陸設備も無い状況である。結局この水上特攻作戦自体「慶良間泊地突入」を意図して、万が一成功したら、その後の計画としては「帰還は無理なので、海岸に座礁させて沈没を防ぎ、生き残った兵員は上陸して第32軍に保護してもらえ」程度しか詰められていなかった作戦で「浮砲台」や「陸戦隊」は「片道燃料説」と同じく、当時から無謀な作戦を美化する為に流布され、語られていた精神論的噂話に過ぎなかった。しかし、それらを信じ多くの尊い生命が大和と運命を共にした事は紛れも無い事実で、永遠に語り継がれなければならないだろう・・・

今回は至って手抜きな観戦記ではありますが、十七萬接続記念と言う事で、平に平にご容赦の程を・・・【続く】

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