せきねしんいちの観劇&稽古日記
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風邪はどんどん本調子になり、喉が痛い。去年のように腫れないでくれることを祈る。どんよりした気分のまま仕事から帰ってくる。 100円ショップで買った折り紙を持ち歩いている。昨日、なんとなく買ったものだ。 この間の富士見丘の授業で、休み時間、折り紙の鶴を見せてもらった。折り鶴じゃなくて、羽がぱたぱた動くヤツ。「折り紙できる?」と聞かれたので、「できるできる、子供の頃は得意だったんだよ」と話した。 小学生の僕は、ほんとに折り紙大好きな子だった。いろんな本を見ては、すごく細かいものをつくっていた。小さなユニットを組み合わせて、くす玉のようなものを作ったり。教頭先生が、ほめてくれて、プレゼントしたこともあった。あれは、先生が転任する時だったろうか。と、「折り紙」というキーワード(?)から、小学生の頃の思い出が、わらわらと蘇ってきた。すっかり忘れていたことばかりだからまさに「蘇った」かんじだ。 買ってきた折り紙は、とても小ぶりなもの。電車の中で、ちょっと出して、ちまちま折ってみた。折り紙の小ささのせいだけでなく、こんなはずでは!というくらい、指先が思うように動かない。紙を折っていくだけの作業なのに、微妙な感覚が蘇ってこない。ちょっと哀しくなったので、家に帰って、本腰を入れて、再挑戦。 一番悔しいのは、あんなにいろいろ知っていた折り方をすっかり忘れてしまっていることだ。くやしまぎれに、ネットで折り紙の本、それも昔、よく見ていた作家のものを注文する。 ユニットをくみ上げるものをなんとか作ろうと試みるが、うまくいかない。形はできるのだが、どうも無駄な手順を踏んでいるようで、仕上がりがきりっとしないのだ。 ネットで検索したら、すぐに出てきた。当時は知らなかったそのユニット折り紙は、「薗部式ユニット」というそうだ。「昭和の古典」とも呼ばれているらしい(折り紙業界では)。たどりついたサイトには、ていねいな折り図も掲載されていて、そうだ、こうやるんだったと、思い当たり、その後は、きりっとしたユニットを折ることができた。同じものを30個つくって、くみ上げた。完成したのは、懐かしい形だった。三十年ぶりの再会だ。 富士見丘での一言が、思いがけなく、すっかり忘れていた小学生の僕を思い出させてくれた。なんとなく思うことと、こうして、何かをつくることで蘇るものは、その実感のしかたがなんて違うのだろう。 指先を動かすのはいい刺激になるということなので(ボケ予防か?)、しばらく、折り紙をマイブームにしてみようかと思う。 注文した本が届くのが楽しみだ。
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