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■ タイムス、2008.5.4
地元紙を読んでいて、興味深い記事があった。 ライターの方の記事だった。 その記事では、沖縄での基地反対運動に対して、地元住民が批判をする理由のひとつに、「内なる日本人」の存在があると述べていた。
「軍名は今も続いている。この押し付けられた基地を見よ」 「日本人よ!今こそ、沖縄の基地を引き取れ!」 といった横断幕を手に、集いをしている団体の写真も掲載されていた。 こした文句を見るにつけ、地元の反応は賛否別れる。 記事執筆者は、自分も含め否定的にとった自分の気持ちを、学校教育や日常生活を通して、日本人といて教育され、沖縄人である自分の中にもう一人の日本人がいるためだと分析していた。 ようするに、沖縄人としては、責任を取ってもらうという当然の訴えをしている一方、訴えている方向である日本人は、自分の中にも存在しうるものである。 ということは、自分で自分を責めていることになり、沖縄人である自分が日本人に対して怨念めいた怒りをぶつけるたびに、日本人である自分がそれに恐怖を感じている、ということだと述べていた。
沖縄人が怨念を持っているのかどうかは別として、この「内なる日本人」という言葉は妙にしっくりときた。 確かに一歩引いて見ている気持ちは否めない。 平和を叫ぶことも、反基地運動も、わからなくはない。 けれど、長い事それらを見つめてきて、それだけでは変わらないのではないかという思いがどこかにある。 私達の世代は、本土とあまり変わらない情報をテレビやインターネットで入手することができた。 特段差別されることもなく、沖縄はすでに観光地であったし、コカコーラの空き瓶を持っていって換金するような時代でもなかった。
私個人としては、先に述べた横断幕のような文句に関して、正直に言えば、批判的に捉えてしまう。 ちょっと怖く言いすぎじゃないかと、そう思う。 それに、訴える内容として、あまりに後ろを向きすぎている気がする。 「軍名」という言葉から、一気に白黒の映像が脳裏に浮かび上がってきて、土だらけの兵隊の姿が目に浮かぶ。 白旗の少女が出てきて、米兵が固形食糧を分け与えている写真が、どうして日本兵より米兵のほうの印象を良くする。 戦争の惨事や後ろ向きの印象からは、後ろ向きの思考しか浮かばない。 それに、ごっそり基地を持っていったとしても、周知の事実のように、沖縄の経済は立ち行かなくなる。 軍用地の借料を頼りに生活をしている高齢者の方などは代表的なものかもしれない。 (米軍基地として土地を提供している地主は3万人を超える。平均で、200万円代の借料が地主に支払われている)
ただ、その感情が「日本人」として引いてい見ている為のかどうかはわからない。 もし「日本人」として引いて見ているのであれば、訴えもしない自分は「沖縄人」ではないことになってしまう。 じゃぁ私は何人なのかということになってしまう。
けれど、確かに批判的に受け取る要因の一つには、もしかしたら自分の中の「内なる日本人」があるのかもしれないと思った。
ちなみに地元紙に連載されているらしい氏の文章は ライターってこんなんだっけ?と思わず首を傾げてしまうくらい 時には感情的に、または俗っぽく書かれている。個人的には好きではない。 けれど、何も言わず主張もしないよりは、断然ましだよな、と思った。
2008年05月05日(月)
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