つれづれなるままに共同日記

ゲーム2

2005年12月10日(土)


はやそ>
昨日の話を自分で振り返って
もっと突っ込んで空想してみた。

昨日の話は人生観の話で終わったが
ここから先は特に意味もない哲学的な空想である。

社会とゲームが酷似している話は昨日した通りだが

社会とゲームの違いとして
結構よく言われる例は

ゲームにはリセットボタンがある。

人生にはリセットボタンがある。

というものだ。ただ、この意見合っているだろうか?

昨日の話を考えると

ゲーム    に対応するのは 社会
キャラクター に対応するのは 人生

である。ゲームと人生は対比することはできない。

ゲームをプレイしている人にとって
ゲームをリセットすることはできるが
ゲームをプレイしている人自身のリセットを押すことができない

という意味なのだろうが、対比としてはおかしい。

ゲームのキャラクターは
自分自身でゲーム自体をリセットすることができない。
これが
社会に生きる人間が社会をリセットすることができない
という文と対応するはずだ。

しかしゲームにリセットボタンが存在する。


つまり、何が言いたいかというと


社会にリセットボタンは存在する可能性がある。

ただし、その中に生きる人間には押せないが
社会というゲームをプレイしている大きな存在が
リセットボタンを押す事ができるのである。

ゲームのキャラクターにとって
ゲームのリセットボタンを押す時などは測り得ない
つまり、社会を生きる人間に取って
いつ社会がリセットされるかわからないのである。

社会そのものがリセットボタンを押されるなどというのは
全く想像がつかないが

ゲームの中での物理法則(ザオリクで生き返ったり)が
実際の社会で成り立たないと同じように
社会のリセットボタンを押せる存在の世界では
社会の物理法則・科学などが成り立つとは限らない。

そう考えると
現代の科学というものは
所詮この世界の物理法則に基づいたものであり
別の物理法則の世界が存在したとしても
それを否定する事ができないのである。

科学的に存在を否定するには科学的な証明が必要だが
その科学自体が無効化される世界に対してそれは行えない

科学で存在しないと証明する事に意味が無いとすら言えないか。


はっきり言ってつまらない空想だが
全く否定することもできないから怖い

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