民進・大塚耕平代表が解党や党名変更など複数案提示、党改革方針めぐり(産経新聞 2017.12.12)民進党は12日午前、党再生の方向性を協議する「党の戦略・組織・運営に関する改革本部」を党本部で開いた。大塚耕平代表は党改革の選択肢として、解党した上での新党結成や党名変更、現状維持など複数案を示し、13日の常任幹事会で協議することが了承された。 改革本部の会合には、大塚氏や増子輝彦幹事長も出席した。11日の同会合で出席者から出された改革案を大塚氏が集約して、この日提示した。 会合に出席した篠原孝・元農林水産副大臣は記者団に「党名は変えざるを得ない。解党ではなく、新しく生まれ変わらなければならないと中間報告のたたき台に書いている。その方向で行くと思う」と語った。 民進党の党改革をめぐっては「解党的出直し」の必要性を記した指針のたたき台に関し議論しており、年内に中間報告を出す方針。ただ、解党に向かえば、党存続を重視する岡田克也常任顧問ら衆院側が反発するのは必至で、先行きは不透明だ。看板を変えればいいだろうって安直な発想から民主党から民進党への党名変更してもパッとせず、ずるずる支持が下がるばかりで分裂から、また党名変更や解党すればいいんじゃないのっていう安直な発想に至るのも何をやってもダメなやつは何をやっても上手くいかないの典型的パターンですよね。看板変えても所属してる人達の中身がアホなら誰も支持しないそこに気がつかないからアホなんですよね。ところで民進党が分裂して希望の党と立憲民主党が誕生して気がついたことがあります。テレビの日曜討論のような政治家が出演する討論番組や国会の討論でウザいだけの党が3つに増えただけだったということです。◆拉致被害者 曽我ひとみさんの夫 ジェンキンスさん死去(NHK NEWS 2017.12.12)北朝鮮に拉致され、その後、帰国を果たした曽我ひとみさんの夫で、平成16年から曽我さんの故郷、新潟県佐渡市で暮らしていたチャールズ・ジェンキンスさんが、11日、亡くなりました。77歳でした。ジェンキンスさんは、アメリカ陸軍の兵士として韓国に駐留していた昭和40年、24歳の時に脱走して北朝鮮に入り、39年にわたって北朝鮮で生活しました。その間に拉致被害者の曽我ひとみさんと結婚し、平成16年からは、日朝首脳会談のあと帰国を果たした曽我さんの故郷、新潟県佐渡市で暮らしてきました。佐渡市の観光施設でみやげ物の販売員として働き、観光振興に貢献したとして感謝状を贈られたこともありました。ジェンキンスさんは、北朝鮮の同じアパートに、拉致被害者と見られるタイ人やルーマニア人の女性がアメリカ人の脱走兵の妻として暮らしていたことを明らかにするなど、拉致が国際的な問題となる1つのきっかけを作りました。また、平成19年には、タイのバンコクで開かれた北朝鮮の人権問題を話し合う初めての国際会議に出席し、拉致被害者と見られるタイ人の女性の北朝鮮での様子などを証言していました。ジェンキンスさんは、11日佐渡市の自宅の前で倒れているのが見つかり、病院に搬送されましたが致死性不整脈のため亡くなりました。77歳でした。妻の曽我ひとみさん「何も考えられない」ジェンキンスさんが亡くなったことについて妻の曽我ひとみさんは「突然のことで大変びっくりしており落ち着かない状態です。今、何も考えられないのであとで落ち着いたらコメントなどを出させていただきます」とするコメントを出しました。蓮池夫妻「どんなに無念か」ジェンキンスさんが亡くなったことについて、北朝鮮に拉致された被害者で新潟県柏崎市で暮らす蓮池薫さん、祐木子さん夫妻は「義理の母のミヨシさんに会えなかったことがどんなに無念だったかと思います。ひとみさんをはじめご家族の悲痛な思いを深くお察しします。皆さんがこの悲しみを乗り越え、ミヨシさんの帰国実現に向けさらに前に進まれることを心よりご祈願申し上げます」とコメントしています。飯塚繁雄さん「政府は重く受け止めを」ジェンキンスさんが亡くなったことについて拉致被害者の家族会代表で田口八重子さんの兄の飯塚繁雄さん(79)はNHKの取材に対し「人は毎年、年を取るわけで、拉致問題がいつまでも解決されないと、こうした状況はほかの家族にも押し寄せて来る。政府、政治家は被害者が帰国できていない今の事態を重く受け止めるべきだ」と話しました。地村さん夫妻「心からお悔やみ」曽我ひとみさんの夫のジェンキンスさんが亡くなったことについて、北朝鮮に拉致され、平成14年に帰国を果たした福井県小浜市の地村保志さん、富貴恵さん夫妻は「突然の訃報にただただ驚くばかりで心からお悔やみ申し上げます。曽我ひとみさんは、同じ拉致被害者として、悩みやお互いの家族について心を許して話し合え励まし合える仲間であり、今の曽我さんの心情を察すると心が痛みます。ジェンキンスさんのご冥福をお祈りいたしますとともに、曽我さんご家族の深い悲しみが少しでも癒やされますことを心より願ってやみません」とコメントしています。ゆかりの3人会見「本当に残念」ジェンキンスさんと親交のあった人たちが新潟県佐渡市で会見し、突然の別れを惜しみました。ジェンキンスさんが働いていた観光施設で長年通訳をしていた本間啓五さん(66)は「あまりに突然で驚いています。2004年から13年間のつきあいで一緒に食事やお酒を飲みに行きました。もう一度一緒に飲みたかったです。本当に残念です」と話していました。地元の支援団体「曽我さん母娘を救う会」の臼杵優会長(67)は「とても残念です。曽我さんは落ち込んでいる様子だったので励ましてきました」と話していました。平成16年にジェンキンスさんが佐渡市で暮らし始めた当時の市長だった高野宏一郎さん(78)は「ジェンキンスさんは、想像を絶する人生を送ったと思います。曽我さんを支えてくれて感謝しています」と話していました。佐渡市長「家族をサポートする」新潟県佐渡市の三浦基裕市長は12日会見を開き、「非常にバイタリィティーある人だと思っていたので、突然のことで本当にびっくりしました。けさ弔問に伺い、ジェンキンスさんには『曽我さん家族をしっかりサポートするので安心してください』と声をかけました」と話していました。拉致被害者 増元るみ子さん母親 信子さん(90)死去(NHK NEWS 2017.12.12)北朝鮮による拉致被害者、増元るみ子さんの母親の信子さんが12日朝、入院先の鹿児島県内の病院で亡くなりました。90歳でした。増元信子さんは昭和53年、鹿児島県日置市の海岸から市川修一さんとともに北朝鮮に拉致された増元るみ子さんの母親です。平成14年の日朝首脳会談で北朝鮮は拉致を認め「るみ子さんは死亡した」と伝えてきましたが、その説明には矛盾や不自然な点があり、信子さんは娘の生存を信じて帰国を待ち続けてきました。鹿児島県の自宅で毎朝いちばんに煎じた日本茶をるみ子さんの写真の前に置き、無事を祈ることを日課にしてきましたが、ここ数年は足腰が衰え思うように体を動かせなくなったことから、施設での生活が続いていました。夫の正一さんは平成14年に亡くなって、信子さんは一日も早いるみ子さんとの再会を願っていましたが、12日朝、心不全のため入院先の鹿児島県内の病院で亡くなりました。平成14年の日朝首脳会談以降、政府が認定している拉致被害者の親で、子どもとの再会を果たせずに亡くなったのは信子さんで6人目となります。次男の照明さん「政府はもっと本気で」NHKの取材に応じた信子さんの次男の増元照明さんは「母がこんな急に逝くとは思ってもいませんでした。本当に悔しい気持ちでいっぱいです。うちの家族は両親が2人とも再会を果たせずに倒れてしまいましたが、ほかの被害者の親には存命のうちになんとか子どもとの再会を果たしてほしい」と話しました。そのうえで「拉致被害者を取り戻すという点において、政府にはもっと本気で動いてほしかった。このままではまた家族の誰かが倒れてしまう」と危機感を訴えました。また15年前、父の正一さんが亡くなる直前にるみ子さんに宛てたビデオレターで『日本を信じろ』と呼びかけていたことを振り返り「日本政府にやってもらわなければ拉致問題は解決できないから父は信じざるを得なかったんだと思います。ただ15年たっても事態は動いておらず、何を信じればいいのかという思いです」と話しました。市川修一さん兄の談話増元るみ子さんとともに北朝鮮に拉致された、市川修一さんの兄の健一さんは「私も両親をすでに亡くしていますが、30年、40年と待ち続け、子どもと再会することなく旅立っていかれた心中を思うと残念で悔しかっただろうと思います。親にしても私たち兄弟にしても高齢化が進んでいて本当に時間がありません。だからこそ、政府も本腰を入れて全員救出に向け取り組んでもらいたいと、ただただ願うばかりです」と話しました。拉致された人も帰国を待つ家族もどんどんと歳をとっていきます。家族の帰国を待っている方で対面を果たせず亡くなったのは増元るみ子さん母親 信子さんで6人目になりました…帰国を果たした人でさえ亡くなる年齢に達しているのだから政府には残された被害者の帰国に本気で全力を尽くしてほしいと願っているのですが、北朝鮮が核実験やミサイル発射実験を繰り返すたび強化される経済制裁によって逆に拉致被害者の救出が遠のいていってしまうのではないかと危惧しています。核やミサイルと同じく拉致被害者奪還も手詰まりの状態をどうやったら打破できるのでしょうか。