(社説)衆院選 きょう投票 「私たち」になるために(朝日新聞 12月14日)■社会の中の分断線 クリスマスを控え、街のあちこちはイルミネーションに彩られている。幻想的な光の渦の中で、家族連れは記念写真を撮り、 恋人たちは手をつなぎ、満ち足りた表情を浮かべている。 東日本大震災が起きた2011年、夜は一段暗かった。被災地から遠く離れた街でも、街頭を明るく照らす自動販売機を見ればなんとなく申し訳ない気持ちになり、エアコンを入れる時は、彼の地で暮らす知らない誰かに思いをはせた。 「絆」とか「日本人として」とか大上段に構えなくても、同じ国に暮らす者としての共感、「私たち」という感覚があったように思う。 さらにさかのぼれば、民主党への政権交代後しばらくは、沖縄の米軍基地の問題も、「私たち」の問題だった。 誰かに負担を押しつけて知らん顔をする、それでいいのだろうか、と。 「私たち」は真剣に考えたのではなかったか。この国はこれからどのような道を歩むべきなのか。本当の豊かさとは何だろうか。 だが、そんなことがあったという社会的な記憶すら、もはやあいまいだ。「私たち」はほどけて「私」になり、ある部分は政治的無関心へ、 ある部分は固くて狭い「日本人」という感覚にひかれてゆき、気がつけば、この社会にはさまざまな分断線が引かれるようになった。 ■分かち合いは可能か 「死ね」「殺せ」「たたき出せ」。街頭にあふれ出す、特定の人種や民族への憎悪をあおるヘイトスピーチ。 雑誌やネット上に躍る「売国奴」「国賊」の言葉。選挙戦では、特定の候補者の名誉にかかわる悪質なデマが、ネット上で拡散された。 線の「あっち側」を攻撃したり排除したりすることで得られるのは刹那(せつな)的な連帯感。それを政治的資源にしようとする政治の動きも目立ってきた。 今回の選挙では、個々の政策への賛否とは別に、「私たち」をどう再び築いていくかという問いが、政治家だけでなく、有権者ひとりひとりにも投げかけられている。 利益を配分すればよかった時代から、負担を配分しなければならない時代に入ったと言われて久しい。 しかし、被災地の復興にせよ、社会保障にせよ、「私たち」の感覚が失われた社会では、誰かに負担を押しつけることはできても、分かち合うことはできない。 ■決める道具ではなく とはいえ、そんなことを言われるほどに気鬱(きうつ)になり、棄権に傾く人もいるだろう。いったい何を選べというのか。そもそも自分が一票を投じたところで、いったい何が変わるのか。 確かに一票は、限りなく軽い。ただ、「私」の一票が手元を離れ、「私たち」の民意になることには意味があり、 それは選挙の勝敗とは違う次元で重んじられなければならない。一票が群れて民意を成す。そこに政治を変える可能性が生まれる。 民意は数の多寡だけではかられるべきものではない。1990年代の政治改革以来、多様な民意を反映させることよりも、「決める」ことこそが政治だという政治観が広がった。 政治家も、有権者も、民意というものへの感受性を鈍らせ、勝ち負けを決めるための、ただの「道具」のようにとらえる向きがあるのは、おかしい。 「私たち」は道具ではなく、この国の主権者である。自信と誇りをもって、自らに代わって議する者に、意思を示し続けなければならない。 信頼できる人に入れる。好きな政党に入れる。勝敗にコミットしたければ、小選挙区ではより勝たせたい方に入れる。やり方は自由だ。 一票を投じる。政治が本来持っているはずの豊かさと潤いを取り戻すための一歩として。 >民意は数の多寡だけではかられるべきものではない。それはそうなんですが、朝日新聞は民主党政権が誕生したときに同じことを言っていたのならこの言葉も説得力がありますが、あの時は、これぞ直近の民意。転落した自民党は民意の声を受け止めよ。でしたからね。web魚拓:民主圧勝 政権交代―民意の雪崩受け止めよ (2009年8月31日(月)付)自分たちの思い通りなら「民意が反映された」 自分たちの意にそぐわないなら「数で押し切っていいのか」 自分の思い通りにならないのが悔しいのでしょうけど、数で押し切られるのも民主主義の一つの結果ですからね。そして、サヨクの駄文が読める「ポリタス」から映画監督の森達也氏のコラムですが、【総選挙2014】もう投票しなくていいダサいとしか言いようがありません。安倍自民を叩き潰したいのなら、有権者がもっとも望んでいる政策の金融政策と財政再建案と社会保障の3つで自民党以上に魅力あるものを提言すればいいんですよね。有権者のほとんどは経済再建とデフレ脱却をしてくれるのなら、ぶっちゃけ、どこの党でもいいんですよ。それを示せないで「あいつはダメだ」だけでは見向きもしてくれませんって。