東日本大震災から1年を迎えるにあたり、去年の4月頃には1年後は復興へ歩み出せているものだと思っていたました。しかし、現実は生活再建さえままならない被災者の方々の方が多く、そういった方々の気持ちやこれからのことを考えると、この1年の時間は無駄に過ぎただけなんじゃないかと暗澹たる気持ちになります。昨日は各テレビ局の特番をいくつか観て、絆だとか頑張ろうだとかそういう言葉はすでに気休めにしかならない綺麗事では済まされない現実の重さに、怒りだとか悲しみだとか多くの感情が綯い交ぜになって、一言で言い表すことのできない複雑な気持ちがこみ上げてきました。これは自戒を込めて書きますが、私たちも政治家もマスメディアも、この1年間ほとんど被災者に寄り添えなかったことを反省をする必要があるのではないでしょうか。津波で最愛の人を失った悲しみ、理不尽な理由で故郷から離れなくてはいけなくなった人の悲しみ、その悲しみは癒えることはありませんが、来年の3月11日は、生活再建の面などで、少しでも生きることに対して前向きな気持ちになっている被災者が1人でも多くなっていることを切に願います。原発問題に関しては、あれだけの規模の事故と現状を目の当たりにしても、脱原発に意思が大きく傾いた人が少なかったのはなぜなんでしょうか。私自身は、福島の現状を目の当たりにして、事故によって故郷を離れざるを得ない人の多さや、これから先の莫大な事故処理の費用と時間と労力といった社会的損失を考えると、原発はなくなった方がいいと思っています。ただ、テレビに出てくるような反原発を運動にしているような人達と行動を共にしたいとは微塵も思っていません。反原発論者は「原発がいらない」だけで、その後のことをまったく提示しようとはしません。それは政治の仕事だから俺たちが考えなくていいって感じに。 脱原発後の電力供給はどうするのか? 自然エネルギーのみで今と同じ経済状況を維持するのは無理です。電気代が値上り庶民や企業が耐えられなくなったらどうするのか?原発の稼働を停止することによって、化石燃料の使用が大幅にアップすることにより、電気料金が値上がってしまうのは当然のことなのに、電気料金値上げさえ反対するのはどう考えても滑稽です。 仮に日本だけ原発依存から脱却できたとしても、原発依存に進んでいる中国や韓国でチェルノブイリや福島級の原発事故が起きた場合、日本は偏西風によって汚染されるので、中国や韓国でも脱原発運動を展開しなければ意味がありません。また、原発の稼働を停止しただけで安全になると勘違いしているような節もあります。稼働の停止は電力の供給をストップさせただけにすぎず、原発はその場所に存在し続けますし、原発を停止しても冷却を続けなければいけません。この先、日本のどこかで大きな地震が発生し、それによって原子炉や格納容器やタービン、給水ポンプが壊れたり、全電源を喪失したり、全給水を喪失したりすれば、福島第一原発と同じ状況になるのですから、稼働を停止しても原発がその地に存在する以上は、地震と津波の危険性と隣り合わせだということは防ぎようの無い事実であって、地震が起きて電源が停止してから冷却するリスクを抱えるより、先に停止し冷却しておくことで地震後に予想されるトラブルを回避しようという点は評価できますが、一番重要なのは、地震発生による停止後の安全を考慮して、何重にも予備電源対策を施し冷却システムの損失を防ぐことや配管や外部電源のラインの鉄塔など福島で駄目になった周辺の重要な設備の耐震性、地盤沈下や液状化の恐れのある直下型の大地震への備えと15メートル以上の津波に対応できる対策も同時進行的に対処するべきであって、脱原発を訴えるのであれば、巨大地震発生後に対応できる対策も同時に求めるべきだと常々考えているわけですが、原発は停止させるだけで問題が解決するわけではないことを知っているにも拘らず、脱原発運動を展開する人たちのほとんどは、そういったことに関しては目を背けています。そして、同じように巨大地震発生後に対応できる対策を原発を推進している人も訴えようとはしません。今すでに存在する原発は、動かしても動かさなくても廃炉にするにしても、運営メンテナンスにも莫大な費用がかかります。使用済み燃料の処理に見込みもなく、でも原発を止めても今の使用済み燃料は消えて無くならない。廃棄物の最終処理場は決まっていませんし、 その費用がいくら掛かるかも分ってはいません。全ての難しい問題を次世代に先送りしてるだけの話で、 結局、何でもかんでも先送りにしてきた弊害が震災によって一挙に噴き出たということです。地震大国で原発に依存しようとしたのが、そもそもの間違いの始まりだったのかもしれません。けっきょく、これといった答えの無いままこれからも進んで行くしかないのでしょうか。昨日一日は、そういうことをもんもんと考えていました。