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2011年01月16日(日) 阪神淡路震災から16年目、忘れられない避難所での体験

明日で震災から16年目を迎えます。

神戸に住んでいることもあり被災しましたが、

毎年のように、震災の日に、

当時のことの思いでや震災への思い、防災についてなどを書いていると、

正直なところ綴る内容も無くなってくるというか、

同じようなことしか書けずにマンネリ化してくるので、

今まで書いてこなかったのですが、

16年が経過したので、周囲にも迷惑が掛からないだろうと考え、

震災時の忘れられない体験を書きます。

震度7の揺れで、我が家はドアが吹き飛び壁が崩れ落ちるなどの大きな被害でしたが、

全壊ではないので避難するほどでもないだろうと考え、

とりあえず、一部屋だけ倒れた家具や割れた食器などを片付け、

震災当日は、電気も停電しており、

服を重ね着して、石油ストーブを囲んで家族全員で暖を取っていました。

日が落ちるにつれ、震災による火事で遠くの空が赤々としていて、

火が迫って来ているように感じられ、だんだんと恐怖心が増す中で、

日付が変わった深夜の1時頃にようやく電気がつきまして、

あの時の嬉しさというかホッとした安堵感は忘れられないのですが、

テレビを点けると、強い余震の恐れがあるので、

無理に住宅で過ごさず避難してくださいとアナウンスがあったので、

父が近くの小学校へ様子を見に行ってみるも、

人がグランドまで集まって大変な状況なので、

他に場所はないかと探していたところ、

近所の会館は避難所に指定されていない場所だったのですが、

どうやら管理人の方が避難場所にと解放してくださっているようで、

まだ、人の入れる余裕のある会館へ避難しました。

暖房が入っていたので、余震の不安に怯えながらも暖かく夜を過ごしたのですが、

一夜明けて、冷静に自宅を見てみると、

かなり危ないかもしれないということと、

崩れた壁などの隙間から入る風で寒いこともあり、

家の応急処置的な修復が終わるまで、

しばらく会館で生活することになったのですが、

その避難所が連日のようにテレビや新聞などの取材が訪れる、

ある騒動に巻き込まれました。

それは、少し落ち着きを取り戻しつつあった震災から1週間後のことです・・・。

避難所として解放していた会館の管理人さんが、心変わりしたのか、

「1月31日までに全員ここを退出するように」と入口に張り紙を貼ったのです。

その張り紙によって避難所は騒然となりました。

出て行けと言われても、

避難している方々は自宅が全壊もしくは半壊で帰る場所がありませんし、

他の避難所は、すでに満杯の状態で、

お弁当などの救援物資も決まった数が届けられるわけですから、

いきなり、そこへ移るのも難しい問題です。

どうするか、避難している人が集まり相談していたところ、

マスメディアを利用すれば、

管理人さんが考え方を変えてくれるんじゃないかということで、

神戸新聞社に知り合いのいる人が問い合わせたところ、

皆が困っている時に避難所から追い出されそうな人たちが居る事実は、

センセーショナルな話題なので、すぐに記者が訪れ、

次の日には神戸新聞に取り上げられました。

その記事を見た、他の新聞社やテレビ局が次々に訪れ、

皆が困っているときに、なんて酷いことがとばかりに、

ほぼ毎日のようにニュースやワイドショーで取り上げられ、

鳥越俊太郎氏の『ザ・スクープ』では、

避難者の代表と会館の管理側との話し合いを取材し放送したりと、

一番、多く取り上げられました。

話し合いの結果、2月10日までに親戚や友人を頼れる人など、

なんとか出て行ける人は出て1階だけ明け渡し、

それ以外の人は2階で生活し仮設住宅が当たったら速やかに退去する事に決まりました。

我が家も、まだ修復作業は進んでいなかったのですが、

何とか住めるだろうということで出て行くいくことにしました。

『ザ・スクープ』は出て行かれる人の自宅も取材したいといので、

我が家まで取材に訪れたのですが、

取材を終えた後、取材スタッフが「これ帰って大丈夫ですか?」と言ったぐらいです(笑)

自分が犠牲になれば一人の老人が避難所に残れるというので、

車で生活することを決めた人も居ました。

管理人の突然の心変わりの理由が、

会館はお葬式や子供の塾に貸し出しているので、そちらが大事だということだったのですが、

この発言が、テレビで流れたことで、

どこで調べたのか管理人の自宅にイタ電や全国から抗議や中傷の手紙が殺到することになり、

逆に避難所には応援の手紙や物資が届くのですが、

物資の量が多すぎて、廊下で一人寝れるスペースが無くなったほどです。

1階を明け渡す当日も、テレビ局数社が取材に来ていました。

我が家は、2月5日に自宅に戻ったのですが、

避難所で思いがけない騒動になったことで、

避難者の結束が強くなって、

悲壮感のない和気あいあいとした避難所になり、

未だに会館で避難していた人が集まると、

避難所生活は楽しかったよねという話になります。

逆に、管理人さんの立場を考えると、

避難所に指定されてなかったのに、

管理人さんは好意で避難所に使ってほしいと施設を開放したんだろうけど、

会館の持ち主から怒られて心変わりするしかなかったんじゃないかと、

それで、避難所に居る人から文句と言われたり、

メディアからバッシングされて、

イタ電や手紙まで届いたりして、板挟みになって辛かったんじゃないかと思います。


以上が、避難所での体験でした。











名塚元哉 |←ホームページ