ぷらっと沿線紀行(43)異界へ ご用かい? JR境線 鳥取県米子市のJR米子駅は、0番ホームで異界に入る。 ホームの真ん中には「ゲゲゲの鬼太郎」のブロンズ像。台座の銘板に「妖怪やちの待つ おもっしょげな世界を がいに楽しんでごしない」(妖怪たちの待つ面白い世界を大いに楽しんでください)と米子弁のメッセージが刻まれている。 駅名看板は「ねずみ男駅」。ここは妖怪漫画の巨匠、水木しげるさん(86)の世界に通じるJR境線の入り口だ。 車体の内外を「ねずみ男」のイラストに埋め尽くされた気動車が最初に停車したのは、コロポックル駅。アイヌ語で「フキの下に住む人」を意味する、気だてのいい小人(こびと)だ。次は1分で「ざしきわらし駅」。東北地方で家に盛衰をもたらす子どもの姿の妖怪だ。本当は博労町駅、富士見町駅だが、妖怪名の方が似合っているように思える。 特産の白ネギを栽培する畑が広がるのどかな沿線風景を見ながら約40分。終点はもちろん「鬼太郎駅」、境港駅だった。 境線が走る弓ケ浜半島は、国引き神話の舞台でもある。奈良時代に成立した「出雲国風土記」によると、八束水臣津野命(やつかみずおみづぬのみこと)という巨人の神が、他国の土地に綱をかけて出雲に引き寄せる。綱の1本が夜見島、現在の弓ケ浜半島に、綱をかけたくいが大山(だいせん)になったという。 妖怪と神話が、違和感なく同居する不思議な土地を訪ねた。 ■妖怪変化。まちも、人も 「さても美事(みごと)や 境の港(中略)千石船でも横付けに 伝馬いらずの良港……」。境港の民謡「さんこ節」の元歌は、北前船の寄港地として栄えた江戸期の境港の繁栄と良港ぶりを伝える。 1859(安政6)年の記録では、回船問屋は30軒に上った。水木しげるさんの曽祖父である武良惣平(むら・そうへい)もその一つを営み、各地の港へ出掛けて商いをしたようだ。 明治に入り、回船業は衰退する。 1902(明治35)年、山陰初の鉄道となる境(現在の境港)―米子―御来屋(みくりや)(鳥取県大山町)間36.8キロが開業した。船で境港に建設資材を運び込み、東西に路線を延ばす、鉄道を造るための鉄道だった。12(明治45)年、山陰線は京都―出雲今市間が全通、山陽側と結ばれた。 「鉄道便の発達で明治になると家業は衰え、祖父の代になって衰退一途の回船業をすっぱりとあきらめた」(「水木サンの幸福論」)。 境線は境港と山陰線の連絡線として繁栄する。60年代にはボルネオから輸入された20メートルものラワンの巨木を積んだ「ラワン号」が仕立てられた。66年から約20年間、機関助士や運転士を務めた安田一さん(62)は「とにかく重くて。運転は大変でした」。地元の境港海陸運送によると、60年ごろは1日で貨車100両以上に鮮魚を積み込んだこともあったという。乗客数は65年度に418万人を数えた。 だが、トラック輸送が普及し、87年には貨物扱いが廃止。82年に駅近くにあった魚市場が1.5キロ東の埋め立て地に移転すると、駅と商店街の衰退は歯止めがかからなくなった。商店街には空き店舗が目立つようになった。71年に135あった商店街の店舗は95年に64まで減った。 90年、境港市で開かれた街づくりフォーラムで水木さんが「作品の何かを街に置いたら」と提案した。 「なんでお化けで町おこし。ただでさえゴーストタウンなのに」 いぶかる住民も多かったが、「水木しげるロード」に置かれた妖怪のブロンズ像の盗難が報道されたことをきっかけに、全国から人が押し寄せるようになった。 「鬼太郎茶屋」を営む荒木千重子さん(85)の店の前には、「倉ぼっこ」がやってきた。直後に訪れた水木さんに言われた。「いいのん置いてもらったな、商売繁盛だよ」。聞くと、倉を増やし、火事から守ってくれるのだという。 荒木さんはほぼ毎朝、タオルで像を磨き、閉店後は1日が無事に終わったことに感謝して声をかける。「荒木さんも、妖怪になったね」。最近、水木さんからよく言われるそうだ。「どういう意味か知らんけど、喜んでくれてるんでしょうね」 04年度に113万人まで減った境線の乗客は増加に転じた。ブロンズ像が120体に増えた「ロード」を、昨年は148万人が訪れた。商店街の空き店舗はほぼなくなり、一度閉じた店を再開した人もいる。「水木サン」の生み出す妖怪は、人知を超える力がある――。そう思わずにいられなかった。 (以下省略)(朝日新聞 2008/03/08)-----------------------------(引用終了)----------------------------修学旅行でさえ行かなかったほど旅行嫌いのわたしが、いつか行ってみたいと思っている場所です。今年中に行こうかなぁ。