「フランダースの犬」日本人だけ共感…ベルギーで検証映画ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、クリスマスにちなんだ悲運の物語として日本で知られる「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成した。 物語の主人公ネロと忠犬パトラッシュが、クリスマスイブの夜に力尽きたアントワープの大聖堂で、27日に上映される。映画のタイトルは「パトラッシュ」で、監督はディディエ・ボルカールトさん(36)。制作のきっかけは、大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。 物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールトさん)としか映らず、評価されることはなかった。米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。 プロデューサーのアン・バンディーンデレンさん(36)は「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた。 上映時間は1時間25分。使用言語は主にオランダ語で、日英の字幕付きDVDが今月からインターネットなどで販売されている。( 読売新聞2007年12月25日11時39分)-----------------------------(引用終了)---------------------------->資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、>浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。> プロデューサーのアン・バンディーンデレンさん(36)は>「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、>ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を>体現するもの」と結論づけた。ちょっと、穿ち過ぎな感じがするのですが。日本人の多くが『フランダースの犬』に思い入れのある理由は、アニメで再放送も含めて子供時代に慣れ親しんだ人間が多いことと、『アニメ世界名作劇場』のあの最終回のラストシーン、ネロがパトラッシュとともに大聖堂でルーベンスの絵を見た後、「パトラッシュ、ぼくは疲れたよ。」の言葉を残し、パトラッシュと一緒に天使の導きによって天に上って行くシーン。そして、バックに流れるBGMは讃美歌「主よ、御許に近づかん」。このインパクトが強すぎて悲しみとともに記憶に刷り込まれているからというのが、一番の理由だと考えられます。『名作アニメベスト100』なんて特番でも、『フランダースの犬』の最終回のラストシーンが必ず上位にランクインして放送されますから、アニメを見ていなくても、最終回のこのシーンだけは知っているという人も多いです。そして、不思議なことにストーリーに関しての予備知識がそれほど無くても、あのラストシーンだけで、なんだか泣けてくる人たちも居るぐらいなのですから、滅びの美学というよりも、小さいものや、力のないものが、自己の心情など関係なしに、不運に見舞われることに対して、理屈抜きの同情や哀れみといった、いとおしいという気持ちから、不幸続きの少年と、その少年に寄り添う健気で忠実な犬の理不尽な死に、単純にただ「可哀そう」と思って涙を流したりするだけなのではないでしょうか。それほどまでに、世界名作劇場のフランダースの犬は、設定変更もさることながら、特に最終回は、映像、音楽ともに完璧だったということではないでしょうか。世界名作劇場がなければ、案外、欧米人のように、『フランダースの犬』に関して、ほとんどの日本人も、それほど深い思い入れを持っていないままかもしれません。それに、悲しい結末が日本に受け入れられたといっても、アンデルセンの物語にも悲劇的な結末や自己犠牲的な話はありますし、シェイクスピアもロミオとジュリエットとか悲劇ばかりですし、ギリシャ三大悲劇なんてのもあるぐらいですから、日本人に限らず欧米人も悲劇は好きだと思うのですが。 ところで、これはわたしだけかもしれませんが、世界名作劇場の『フランダースの犬』で連想する作品が他にもあります。それは、映画『火垂るの墓』とマンガ『河童の三平』です。これらも最後まで救われない話です。まず、映画『火垂るの墓』ですが、この話にも滅びの美学や自己犠牲の精神なんて崇高なものは存在しません。大人の身勝手な都合に翻弄された力の弱い子供(兄妹)が、犠牲になるからこそ悲しみを誘い、その悲しみはある種の軽いトラウマのようになり、多くの人々の脳裏に刷り込まれています。そう、ただ単純に「可哀そう」があるだけです。『河童の三平』は、水木しげるさんのマンガで、メジャーではありませんが、こちらも、主人公である三平は、終始、大人の都合に振り回され、最後は、死神によってあの世へ連れて行かれます。閻魔大王に仕えた死神もまた自分の生活のために、仕事のノルマとして三平をあの世に連れて行くだけ。(これも、ある意味において大人の都合です。)三平は寿命から逃れようとあの手この手を使うのですが、しかしながら、こちらは『フランダースの犬』や『火垂るの墓』に比べれば、同じ主人公の死であっても、逃れられない死というものを、あまりにも淡々と描いており、しかも、この作品では、三平の祖父と父親も死神によってあの世へ連れて行かれ、三平の身代わりとなり母親のもとで生活していた河童も、元の河童の生活へと戻るために母親のもとを離れていくという、全体を通して「別れ」がテーマの根底としてあっても、読後に不思議と可哀そうという悲壮感はありません。これは水木しげるさんの自身の人生経験の影響によるものではないでしょうか。