弁護士は、どのような犯罪者であっても弁護するのは当然で、最高刑の死刑になりそうな凶悪事件であれば、死刑を回避するため、あらゆる手段を用いて弁護を行うのも理解出来るのですが、 光市母子殺害事件だけは、言ってしまえば他人の裁判でもあるのに、なんでこうも自分の理性を土足で踏みにじられたような気がして、心底腹が立つのだろうかということを考えてしまいました。 確かに死刑廃止論にも一定の説得力はあります。冤罪の可能性や国家権力の過ちや圧力の可能性も残ることがあるので、人間が人間を裁くことには、やはり抵抗感があることも理解はできます。ただし、池田小学校乱入事件の宅間守や、光市の事件をみれば状況は異なっているのではないでしょうか。貧困を理由にとか、止むに止まれぬ事情での犯行ではなく、遊びや強姦目的で、己の欲望のままに行動を起こし、抵抗できない女性や子供を殺しているということです。 今回の差し戻し控訴審の数日の間に、死刑廃止論者のブログをいくつか拝見しましたが、そのいくつかは、遺族である本村さんを罵倒し見るに絶えないものがありました。犯罪を犯し、世間からは冷たくあしらわれる存在となっている加害者の人権には思いやりを見せているのですが、一方の被害者には思いやりのカケラも見せない。人権を重んじるのであれば、どちらにも一定の配慮が必要と思うのですが、こういう人たちの人権の定義や感覚というのは、人権を横の繋がりで見ることはなく、優劣が着いてしまう縦の繋がり、要するに縦軸でしか捉えていないのではないでしょうか。ほかにも、自分がその事件の被害者や遺族の立場であったら、また、人生とは先が読めないものですから、いつか、何かの事件に自分や家族が巻き込まれるかもしれないという想像力の無さによって、被害者や遺族の立場だけは慮れないのではないでしょうか。私が、日本の人権派を訝しく見てしまう理由はそこにあります。 そして、以前にも書いたことですが、死刑廃止を願っているわりには、死刑に変る制度(例えば終身刑)導入を提示することもありません。本気で死刑廃止を訴えるなら、終身刑の導入や、イギリスやドイツのように、DNA鑑定や指紋押捺制度、住民が性犯罪者の情報(住居、犯歴、性犯罪者は再犯率が異様に高いため)をネットで検索したりして知ることが出来るようにするなどの厳しい再犯防止システムの枠組み作りを主張するべきだと感じるのですが、ただ「欧米諸国のように死刑を廃止しろ!」と叫んだり、再犯防止のためのシステムや法整備、再犯率22.4%の性犯罪者(特に13歳未満の児童への性犯罪再犯率34.9%)に対しての取り締まりを強化することもなく、これから被害にあうかもしれない女性と子供の人権を守るために性犯罪常習者の情報開示や監視または薬物投与による去勢には、加害者のプライベート侵害や人権侵害を訴え反対する。欧米諸国のように死刑を廃止したいのであれば、それらの国々と同じような女性や子供を狙った犯罪の罰則や防犯の強化を本来ではあれば、弁護士会や安田好弘弁護士や自称人権派を名乗る連中こそが、率先して見せるべきではないでしょうか。しかしながら、「罪を憎んで人を憎まず」とばかりに、犯罪者には優しすぎるぐらい優しく、一方の被害者や遺族に対してはほとんど見向きもしない。私が、日本の死刑廃止論者に賛同しない理由はそこにあります。入浴中です。