靖国合祀、安倍首相、国関与「問題ない」安倍首相は29日昼、旧厚生省と靖国神社が一体となって戦没者の合祀(ごうし)の基準を決めていた実態が内部文書で明らかになったことについて「問題ないと思う。合祀を行ったのは神社でしょうし、旧厚生省は情報を求められて情報を提示したということじゃないですか」と述べた。文書はBC級戦犯を目立たないように合祀してはどうかと厚生省側が提案した事実など、国主導で合祀が進んだことを示す資料といえるが、首相の発言は国の関与が限定的で強制性がなく、憲法の政教分離原則の観点からも問題ないとの認識を示したものだ。 首相官邸で記者団の質問に答えた。 塩崎官房長官も同日午前の記者会見で「旧厚生省は旧軍の人事資料を持っていたことから、86年度までは靖国神社を含めて遺族、戦友会などからの調査依頼に対して、一般的な業務の一環として回答をしてきた」と説明。「最終的に判断をするのは神社で、強制をしているようなことではない」と語った。 また、塩崎氏は4月の中国の温家宝(ウェン・チアパオ)首相来日への影響について「特に新たなことが出ているわけではない」と述べた。 一方、自民党の山崎拓元副総裁は29日昼の山崎派総会で「(合祀への)政府の責任は確かにある。分祀ができれば首相も外交問題を惹起(じゃっき)せずに参拝できる。改めて分祀を求めたい」と語った。 (朝日新聞 2007年03月29日13時06分)-----------------------------(引用終了)----------------------------これを受けて朝日の今日の社説。戦犯合祀―政府の主導だったのか靖国神社が戦後、戦犯を合祀(ごうし)した経緯について、国立国会図書館が新たに発掘した資料が公表された。 かつて神社を管理していた旧陸海軍から業務を引き継いだ旧厚生省が、つまり政府が深く関与していた実態が浮かび上がった。 靖国神社の内部文書によると、こんな経緯があった。 サンフランシスコ講和条約で独立を回復してから6年後の58年4月、厚生省引揚援護局と靖国神社が社務所で会合を開いた。厚生省の担当者がBC級戦犯についてこう提案している。 「個別審議して差支(さしつか)えない程度でしかも目立たないよう合祀に入れては如何(いかん)。神社側として研究して欲しい」 この年9月の会合では、東条英機元首相らA級戦犯も議論になった。この時、厚生省は「先(ま)づ外地刑死者(BC級戦犯)の合祀を目立たない範囲で諒承(りょうしょう)して欲しい」と求めている。 厚生省と靖国神社はこうした会合を頻繁に開き、翌59年にまずBC級戦犯の合祀に踏み切った。69年の会合ではA級戦犯について「合祀可」と決めた。 印象的なのは、できるだけ外部に目立たない形で進めようと腐心していたことだ。とくに、戦争指導の責任を問われたA級戦犯については「外部発表は避ける」ことまで申し合わせていた。 そうした人々を顕彰することは戦争を肯定し、責任をあいまいにするとの批判を恐れたのだろう。 政府はこれまで「靖国神社がA級戦犯を合祀した理由や経緯については承知していない」としてきた。昨日、安倍首相は「旧厚生省は情報を求められ、提供したということではないか」と述べ、あくまで合祀を決めたのは神社側の判断だとの立場を強調した。 だが、新資料には厚生省が神社と一体になって進めた様子が具体的に跡づけられている。合祀したのは神社かもしれないが、その決定には政府の意向が色濃く反映されていたのは間違いない。 戦後かなりの年月がたっていたのに、戦前の「国営神社」時代のような関係を引きずっていた。憲法の政教分離の原則に照らして、許されることではない。 小泉前首相が繰り返した靖国参拝に、私たちは反対してきた。政教分離の原則に反する恐れがあるというのも一つの理由だった。当時のような政府と神社の関係が今も続くとは思わないが、そんな過去があっただけになおさら、政府は一線を画す姿勢を明確にする必要がある。 私たちは、特定の宗教色のない国立の追悼施設をつくるべきだと主張してきた。そこでは天皇や首相をふくめ、だれもがわだかまりなく戦争の犠牲者を悼むことができる。改めてそうした施設の必要性を痛感する。 公表された資料は貴重なものだが、A級戦犯が実際に合祀された78年の前後の記録が欠けているのは残念だ。これらの資料の公表を求めたい。-----------------------------(引用終了)----------------------------いわゆる戦犯の名誉回復は無かったことになっているのでしょうか。昭和27年(1952年)に日本は晴れてアメリカの占領下から独立したわけですが、昭和27年に発効されたサンフランシスコ講和条約の同講和条約第11条では同時に、「戦犯」の赦免や減刑については、「判決に加わった国の過半数が決定する」と定めていたので、「戦犯救済!軍人恩給を!」と全国で戦犯釈放運動が広まり、当時の成人のほとんどいってもよいくらいの四千万人もの署名が集り、その署名運動により、昭和28年に戦犯の赦免に関する決議が国会で、社会党や共産党まで含めて一人の反対もなく決議されました。そして国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条にもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は昭和31年に、BC級戦犯は昭和33年までに赦免し釈放しました。こうして「戦犯」の人達は国内外から免責され、結果として靖国神社に合祀される対象となったのです。このように、国民のほとんどが合祀を望み、その声に応える形で、社会党を含む全会一致で名誉回復が決まり、旧連合国の承認も貰っての合祀となりました。そういう流れの中での、旧厚生省と靖国神社の連携だったわけで、要するに政府厚生省が関与して合祀に主導していたことは周知の事実です。今更、それを裏付ける資料が出たことで、知らなかったかのような驚き方をしても説得力がありません。大体、戦死者を祀る神社が戦死者リストを政府から貰わないで、一体どこから貰えるというのでしょうか。当然、合祀された当時は「靖国問題」なんてものは影も形もなく、現代の自分たちの理屈だけで、分祀しろと言ったり、新たな追悼施設を作れと言うのが私には一番理解ができません。政府見解で戦犯は存在しないことが2年前に発表されましたし、靖国問題で政府答弁書決定 「戦犯」は存在せず 公式参拝であっても合憲いわゆる戦犯合祀が政教分離に反するという理由で、国が新たな追悼施設という宗教施設を造れば、それこそ「政教分離」に反するのではないのでしょうか。 慰霊する上で、まず一番に考えないといけないのは、死んだ人たちのことではないでしょうか。彼らは「死んだら靖国に祀られる」「靖国に会いにきてください」と思いつつ死んでいきました。死んだ将兵のことを思えば、追悼施設は靖国神社以外にあり得ません。 それから、いわゆるA級戦犯という数人を中心とする「軍部」だけに責任があって日本国民は無罪というのは戦争を語る上で無責任すぎます。軍部のみならず開戦に至る経過で日本の新聞も係わったし、当然、世論の後押しもあったわけで、軍部だけに全責任を押し付けるというのは、結局、戦争は勝ったものが正義、勝てば官軍という暴力主義を体現していることの裏返しに他なりません。戦争が終わって60年以上経った今日、戦争の起因から目をそらし、現在の価値観による政治的産物として造られるような真新しい施設に、戦争について考えさせるほどの意味を持ち得ることができるのでしょうか。↓エンピツ投票ボタンです。 押してくださると日記を書く励みになります。エンピツ時事/社会ランキング エンピツ総合投票ランキングMyエンピツ追加