以前から気になっていた大嶋 拓監督の映画『火星のわが家』をやっと観ました。なぜ気になっていたかというと、僕の大好きなヴォーカリスト鈴木重子さんが主演しているからです。今から40年以上前、日本宇宙旅行協会という団体が実在し、火星の土地を10万坪につき千円で売り出したことがあります。この映画に登場する神山康平という男は、日本宇宙旅行協会会長の原田三夫がモデルだそうです。映画の中では火星の土地の話がひとつのエピソードとして登場するだけで、物語の中心にはされていない。中心になるのは康平の次女がニューヨークから帰ってきて、康平宅のはなれで暮らしている青年と関わりを持つ数週間の話。物語の進行役という意味では、この次女と青年こそ映画の主人公。次女・未知子はニューヨークでジャズ・ボーカリストとして活躍していたが、精神的なストレスで歌が歌えなくなっているという設定。演じているのはニューヨークの老舗ライブハウス「ブルーノート」で、日本人として初めてライブを行った鈴木重子さん。その父親・康平を演じているのは日下武史さん。はなれに住む青年・透を演じているのは、堺雅人さん。康平の長女役はロック歌手のちわきまゆみさん。登場人物は基本的にこの4人だけで、あとは数シーンに出版社の人や病院の医者が登場する程度。主演の重子さんのぼんやりした持ち味が、映画の中で一種の真空状態を生み出しています。主人公・未知子がぼんやりしているのに対し、父親や姉は普通よりややテンションの高い人たち。未知子に好意を持つ透は、ごく普通のいいひと。水が高いところから低いところに流れ込むように、こうしたキャラクターのテンションの高低差がドラマに微妙な流れをおりなしています。この物語の源流は間違いなく父親ですが、それが姉から透を通って、最後は未知子へと流れ込んで行くのです。重子さんの演技は不思議な、作りこんだ役者ではけっして出すことの出来ない雰囲気を出しています。表情は常に変わらないし、セリフも棒読み気味。さらに得意の歌声も、“歌えない”という設定のため封じられている状態。だけど、ぼそぼそ静かに呟く感じが非常に心地よい。ほんわか生きていながらも、心の奥底には自分がしっかり見えていて、考えが縦横無尽に行き渡る感じがするのです。子供の頃、能やバレエを習っていた事もあるそうで、すらっとした指先まで無駄の無い動きは観ていてうっとりしてしまいました。本作の彼女のキャラクターはおそらく、鈴木重子そのものなのでしょう。その反面、姉の久仁子は美知子と違って感情の起伏が激しい。例えば、イライラの感情を押し込めずに、感情に任せてつい強い口調でものを言ってしまう。足を悪くした父親に、無意識に迷惑そうな顔をして自分の不快感を伝えてしまう。しかし、かといって彼女の性格が悪いと言うには、ちょっと違和感を覚える。感情を出してしまう、というのはその人の性格であると思うんです。それよりも問題なのは、彼女の不快感は何が原因なのか、ということ。 本作を彼女寄りに見ていくと、自分は贅沢もせず、間違った道を進むでもなく、むしろ家族の生活に犠牲になって生きている、と考えているのではないでしょうか。栄光を掴んで、戻ってきた妹には憎しみしか湧いてこないし、全然連絡もよこさない妹の方を可愛がる父親を見て、さらにうんざりする。妹は感情の起伏を出さないので、そこがまた気に食わない。妹の方に好意を寄せる居候の透の態度さえもイライラする。ギブ・アンド・テイクが成立して、人間は平常でいられるのならば、久仁子は、自分はいつもギブばっかりだ、と考えているのです。父康平は『懺悔録』と称する自伝を上辞した後、介護施設で不丁寧な対応をされてそのまま死に至る。介護施設に追いやったのも、最後まで父親にいい思いを抱かなかったのも久仁子。でも、彼女は最後の最後で泣いてしまう。「ごめんね、お父さん」と言いながら。彼女は意地悪い人間のように見えて、やはり元はキレイな心の持ち主だったのでしょう。ギブ・アンド・テイクの考え方を超越して、自分に正直になることが、彼女の怒り・不満を解き放つ方法だったのですね。映画を観るまでは父親の康平が火星の不動産を世界で初めて売った男ということもあり、もっとスケールの大きな話かと思っていたら、意外や介護をテーマにした姉妹の成長(第二の自立)物語でした。介護問題をテーマにした物語にありがちな暗さやお涙頂戴はなく、日常を淡々と綴った普通のホームドラマであることに驚いてしまいました。もっと驚いたのは、重子さんの水着姿を拝見した事でしょうか(笑)手足が長いので、水着姿もきれいです。↑読んだよの合図に押してくれると嬉しいな。My追加