白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2005年10月12日(水) うちのワンコ

我が家には15歳になメスの老犬がいるのだが、どうやらお別れの時が近づいているらしい。

犬で15歳と言えば、いつお別れがきても不思議ではない年齢だし、彼女は以前からガンを持っているので、いつかはそんな日も来るだろう……と覚悟はしていた。だが年寄りながらもご機嫌で過ごしていたので「なんだかんだ言いながら、あと1〜2年は頑張れるかな」と思っていたので、気持ちがまったくついていけない。

いつまでたっても「死」という通過儀礼には慣れることが出来ないらしい。

こんなこと何かと比較出来るような問題ではないのだけれど、たとえば今、何某かの事情で来年予定している結婚が駄目になったとしても、諦めることが出来ると思う。そりゃぁ、多少のダメージはあるかも知れないけれど「しょうがないなぁ。縁が無かったんだもの。次、行ってみよう!」と自分に言い聞かせて、それなりに折り合いを付けられると思う。が、犬に限らず、自分の周りにいる人(今回は犬だが)が死んでしまうとなると、どうしても……どうしても諦めきれないのだ。

生きている中での別れと、死によってもたらされる別れは根本的に違う。死んでしまった人は絶対に戻ってこないのだ。2度と会えないし、取り返しがつかない。哀しみも恨みも、いつかは良い想い出になっていくってことも、経験上知っている。だが、なんかこぅ……納得がいかない。

そして私は何よりも「死」と対面するのが恐くてならない。

愛犬の残された時間を大切にしてやろうと思っているし、ちゃんと見送れることも分かっている。だけどやっぱり不安だし、死んで欲しくないと思う。だからって犬としての一生をまっとうさせてやりたいので延命治療はする気もないのだけれど。

生きているものは死に対してどうしようもなく無力なのだと思い知らされずにはいられない。そんなことを思いつつ今日の日記はこれにてオシマイ。


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【同月同日の過去日記】
2003年10月12日(日) 無事帰宅しました♪
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