白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2004年01月07日(水) ずるっこ

元・同僚のお誕生日だったので、携帯に簡単なお祝いメールを送ったら、いたく感激されてしまった。「覚えていてくれるてるなんて思ってもみなかった」と。(←誕生日が正月明けということもあってか、何故かしら友人からも忘れられがちなのだそうな)実際、私も覚えちゃいなかった。PC&携帯の予定表に登録してあったから「ああ、今日はYさんのお誕生日なんだ」と思っただけだなのだ。しかも「最近、疎遠だし、メールしなくてもいいかな」とまで思ったくらいなのだ。だのに「お祝いメール貰って悪い気する人もいないだろうし」と、何の気なしに出したんである。本当に良いことをしたのかどうか、なんだか微妙な味わい。

機械の力に頼らなければ成り立たない付き合いなら、しない方がいいような気がする。だが「じゃあ、いらない」と思い切れないところが私の弱さ。ついつい「ま。しないより、する方がいいか」とか思ってしまう。で「気配りの人」とか思われる訳だが、大抵ずるっこなのだから、性質が悪い。

年賀状なども「年賀状だけの付き合いなら、いらないか」というのが本音なのだが、ある人から「1年、たった50円で付き合いが存続できるなら安いもんや。長いこと生きていく途中で、もしかしたら、年賀状だけの付き合いをしている人から助けてもらえることもあるかも知れんしな。これは投資やで」と言われて「なるほど。割り切って出すのも悪くないかも」と思うようになったのだが、それでもなお、胡散臭さは拭い切れない。

先日、高校の担任から届いた年賀状には驚かされた「年賀状ありがとう。お元気そうで何よりです。いまもデパート勤務ですか?」とあった。誰だ? デパートに勤めてる人って? 完璧に誰かと混同しておられる。実際、その先生は私自身も思い入れのあった人ではなく、忘れられていて当然とは思うのだが、なんとなく習慣で出し続けていたのであった。来年からは、出さなくてもいいだろうか。それとも年中行事の一環として知らん顔して出し続けるべきだろうか。それが問題だ。

人間の言葉って、ホントにいい加減。思ってもないことが平気で言えちゃったりするのだから。そうかと思えば、ものすごく伝えたい事を伝えられなかったりする……なんてことも多々ある訳なのだけれど。結局のところ使いようなのだろうなぁ。どう使うかは、その人の人柄ってことになるのかなぁ。

機械に頼らず、ずるっこをせず、曇りのない目と心で、人と付き合っていければいいなぁ……と思うのだけど、私には無理かも……ってことで今日の日記はこれにてオシマイ。


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【同月同日の過去日記】
2002年01月07日(月) 『あかい花』〜初潮をめぐる物語

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