白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2003年09月26日(金) 命の終わりの不自由さ

10年間も病院生活をしてきた知人が危篤状態に入って2週間になる。

知人と言っても「乙女な母が入院していた時に同室だった人」という程度なので、知人と言うより顔見知りと言った方がいいのかも知れない。たくさんの病気を持っていて、10年間、1度も帰宅したことがないのだとか。先日、脳炎を発症して、意識がなくなったので家族の希望で、命綱になっている高カロリーの点滴を中止し、治療がストップされたのだけれど医師の「覚悟しておいてください」宣言から、はや2週間が過ぎている。私も父の時に似たような経験をしているので他人事とは思えない。

本人が1番、辛いだろうけれど、周囲の人間もかなり辛い。

たとえば……である。「そろそろ危ない」と知った人がお見舞いに来てくれたとする。最初の頃は「今生の別れ」に盛り上がるのだが、危篤状態が長引くと「まだ生きているのですか!」なんてリアクションをする人さえいて、それを受けた家族も「えぇ。なんだか心臓が丈夫みたいで」と愚にもつかぬことを言ったりするのだ。

先日読んだ本、柳澤桂子『いのちの始まりと終わりに』を読んで「尊厳死」とか「安楽死」について考えていたので、余計にそういうことを考えてしまうのかも知れないけれど、人間は自由に生きることも死ぬことも出来ないのだなぁ感じた。

「尊厳死」や「安楽死」が法律で認められているオランダでは「患者以外の人間から安楽死が進められて実行された」というケースが多いようだ。作者は「生きたいと思う人が、生きにくい状況を作ってはいけない」ということを書いておられたが、まったくその通りだと思う。私は今のところ「末期症状になっても、あまり辛い思いをするなら、過剰な医療は遠慮したい」と思っているけれど、その気持ちだって、そういう場面に直面してみないと本当かどうか分からない。あんがい「是が非でも生きていきたい」と思うかも知れないし。

医学の進歩はありがたいのだが、罪作りなことをしてくれたよなぁ……とも思う。

どんな風に死ぬのが理想的かなんて私には分からない。ただ「死ぬ」というは、自分の自由にならないものらしい……ということなら分かるけれど。人の生き死にってムツカシイ。

知人が、あまり苦しまないで死ねるといいのになぁ……と思う。こういう長期戦は残酷だから。なんだか真面目なことを書いてみたりして今日の日記はこれにてオシマイ。


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【同月同日の過去日記】
2002年09月26日(木) ささくれ。

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