白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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2002年05月16日(木) 「他人事」だなんて淋し過ぎやしませんか?

ネット上の某所にて「他人事」と書いて、なんと読むか?
「ひとごと」が正しのか? 「たにんごと」でも良いのか?
……という問題についての議論しているのを目撃した。

私は無類の読書好きだが「言葉」に対して
比較的イージーな感覚をしか持っていないので
議論自体は、それほど興味をそそられなかったのだが
それはそうと「たにんごと」って、なんか、さびしいねぇ。
……と発言していた人がおられて
「まったくだ。まったくもって、その通りだ」と激しくうなずいてしまった。

突き詰めて考えてみれば、世の中の99%は他人事で構成されている。
たとえ親、兄弟、恋人、友人、知人であっても
自分以外の人間は、他人以外の何者でもない。
「自分」と「他人」は決して、相容れる事もなければ
どれほど想いあっていても、本当の意味で1つになることは出来ない。

だけど……それでは、やっぱり淋し過ぎやしないだろうか?

現実の人付き合いの中で、親しい人と話をする時
それが嬉しい事であっても、哀しいことであっても
一緒になって考えたり、感じたりして
「なんだか他人事とは思えなくて」などという言葉を口に出す時
相手の気持ちや、想いを100%理解できなかったとしても
それは間違いなく「他人事では無い」のだと思う。

それはネットの世界だって同じこと。
誰かの書いた「なにか」を読んで、笑ったり、ジーンときたりするのは
欲望としての好奇心が、そうさせる部分も多いにあるが
「笑っちゃいました」だの「頑張ってくださいね」だの「応援してます」だの
相手にそんな言葉を伝える時
それもまた「他人事では無い」という証なのではないだろうか?
私は、そんな風に思っていたいし
現実問題として、私は「そんな人々」から大きな力をもらってきたし。

なんと言っても「所詮は他人事だから」というのも
世の中の真実をついているとは思うし
他人に起こった出来事に対して100%反応していたら
それこそ、心も身体も、まいってしまうと思うのだけれども
少なくとも私が何らかの形で関わっている「私が好きだと思う人」に対しては
「所詮は他人事だから」なんて言葉は使いたくないなぁ…と思う。

やっぱり、ひとりぼっちはサミシイと思うんだな。うむ。

突き詰めていくと、淋しん坊の戯言……ってな気もするし
えぇ年して、甘っちょろい考えだなぁ〜……と思ったりもするのだけれど。

淋しん坊の戯言をダラダラ書き連ねてみたところで
今日の日記は、これにてオシマイ。


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