白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2002年02月24日(日) 「生きると死ぬって何なんですか?」と質問を受けて。

「生きると死ぬって何なんですか?」

……と質問されたら、あなたは、どういう答えを出しますか?

日々、生ぬるく生きている私は、このシンプルでストレートな問題について
あまり突き詰めて考える事がなかったりするので
そんな質問を受けて、しばらく「うむ」と頭を抱えてしまいました。
「アブトロニックの謎」なんて足元にも及ばないくらいの大問題です。
たぶん、この問題の答えは出ないのではなかろうかと思うのですが
個々の「とらえ方」や「考え方」「感じ方」には違いがあろうかと思います。

私は信仰というものを持たない人間なので
「死んだらどこへ行くのか」「生まれ変わり」「天国と地獄」
……ということについては、ほとんど興味がなかったりします。
もちろん、よそ様のお宅に伺って仏壇があったら手を合わせる
……といった常識的な事は身に付けているつもりなのですけれども。

「生きること。死ぬこと」については大人になってからよりも
むしろ子供の頃の方が真剣に考えていたように思います。
私の知人に「父親が医者」という女性がいるのですが
彼女は幼い頃「死とはなにか?」を自分の父親にたずねたのだそうです。
彼女の父親は、幼い娘に即答しました。

「死んだら、しまい(大阪弁でオシマイの意味)や。死んだら、しまいや」

この言葉を聞いた時、当時の私は「なんてデリカシーのない人なのだろう」
と思ったのですが「死」が身近なものだという事を体感した今では
彼女の父親の言葉は「死」について
これ以上ないほど雄弁に語っているなぁ…とさえ思っています。

ちょっと話が横道へそれますが、肉親の葬儀の時
「さぁ。最後のお別れをしなさい。ほら、触わってあげて」
……と周りの人間にすすめられて、私はひどく困惑した覚えがあります。
故人が「好き」とか「嫌い」とかに関わらず
私は死体を「嫌い」だと感じ、できることなら触れたくないと思ったからです。
死んでしまったら、人は人から物体に変わるのだと身体で感じたからです。
我ながら「なんと薄情な事を感じるのだろう」と思いながら
それでも世間並みに見栄があったりしたので、仕方なく死体に触れました。
死体はやはり死体以上のものではありませんでした。
その肉体に「その人」が宿っていないのが「死」なのだと
しみじみと感じた瞬間でした。

個人的に「説教臭い」話は好きではありませんし
道徳的な語りも好きではありませんが

「死」はとりかえしのつかないこと。「生」はとりかえしのつくこと。

こんな風に私は「死と生」について考えています。
死んでしまった人は絶対に戻ってはこないし
自分が死んでも戻ってはこれない。
どんなに悔やんでも「してあげたい」とか「したい」とか望んだとしても
「死」という壁を飛び越えることはできません。
可能性も、希望も、情熱も……全ては
生きていれぱこそ発揮できるのだと思っています。
だからこそ、生きている「今」が大切なのだと思っています。

死んでしまったら本当にオシマイです。

ですが「死」が訪れた後は、何もかもが終わってしまうとも思っていません。
生きている人間は「死」を受け止めなければなりませんし
太陽が沈んだからといって大地が急激に冷たくっなったりしないように
形こそ無いけれど、残る「何か」があるという事も感じています。
それは「死」の数だけある「何か」であって
具体的に「こんなものです」と説明は出来ないのですが。

「生きると死ぬって何なんですか?」

確かな答えを導き出すのは難しいのではないかと思いますが
しかし「考えること」や「感じること」は出来るので
何かの折りには立ち止まって考えていこうと思います。

私なりの「考え」はこんな感じなのですが

「私は、こんな風に考えている」とか
「ちょっと、ひとこと、言わせてくれ」とか
「あなたの考えは、どうも賛同できない」とか

なにか「書きたい」と思った方がいらっしゃいましたら
私の掲示板か、質問者であるandさんの日記「気分転換」の掲示板まで
ひとこと書き込み、よろしくお願いします。

やたら滅多と真面目に語ってみたところで
今日の日記は、これにてオシマイ。


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