白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2002年02月22日(金) 自分の「居場所」

今日は3日ぶりに社会復帰(職場復帰)することが出来た。
まだまだ風邪が抜けきっていなかったので
正直なところ「もう1日くらい休みたいのになぁ」と思いながらの出勤だった。

それなのに。

いざ、出勤して、慣れ親しんだPCの前に座ってみると
「あぁ。私の居場所はココなんだなぁ……」という感慨が込み上げてきて
家で寝ているよりも、よほど心穏やかだったりして、ちょっと驚いてしまった。

私は、毎日、嫌々仕事をしていると言う訳でもないし
この仕事に就いて3年目に突入した今では
人並みに「やりがい」とか「責任感」は感じているのだけれど
私が今の仕事を選んだ理由は、たいていの人がそうであるように
「今、私が出来そう仕事で1番、お金が儲かりそうだったから」
……というシンプルな理由でもって選択したに過ぎないので
もしも、今の仕事以上に「楽して儲かる」仕事があれば
いつだって、転職したいと思っているし
それ以上に「働かなくても食べていけるのなら敢えて働きたくはないな」
……というのが本音だったりもする。

日頃から、そんな風に考えているだけに
自宅より職場のPC前の方が「なんとなく落ち着く」という感覚は
私にとって「衝撃の新事実」だった。
思えば自宅で家族と過ごしているよりも
職場で過ごす時間の方が長いのだから
職場にいる方が「なんとなく落ち着く」と感じてしまうのは
当然と言えば、そうなのかも知れないし
「職業人」としては喜ばしいことだと思ったりもしたのだけれども
「そんな場所」が私の居場所なのか……と思うと
一抹の「さみしさ」を感じてしまった。
もちろん「家に帰るのが嫌だ」とか
そんな風に思っている訳ではないのだけれど。

世の中には、たくさん「働く人」や「勉強する人」がいて
その人達は、たいてい「自分の家」以外の場所で
1日の多くの時間を「そこ」で過ごしていると思うのだけれども
それぞれ「どこ」を自分の居場所だと認識しているのだろう……
などと、つまんらない事を考えてしまった。

「専業主婦」という立場にある人は
「働く場所」と「自分の家」が直結しているから
「そこ」が自分の居場所なんだろうか?
とか思ったりもしたけれども「女、三界に家無し」
……と言う、ちょっと古風な言葉を鵜呑みにするなら
「そこ」が居場所だというのは、単純すぎるような気がした。

あるいは、ちょっとロマンチック方面に思考を発展させてみると
「愛する人がいる場所が自分の居場所」
という言葉もあったりなんかするけれど
これもまた、人によっては感じ方が違うのではないだろうか?
……などと疑問に思ったりする。
少なくとも私には当てはまらない(愛する人がいる、いないに関わらず)

うだうだと屁理屈をこねてみるよりも
「いま居る場所が自分の居場所」だと割り切ってしまうのが
1番、てっとり早くて、気持ちの良い結論のような気もする。

「居場所」について、あれこれ考えてみたところで
今日の日記は、これにてオシマイ。

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ちなみに、現在、私の職場には「元気な人間」が見当たらない。
風邪引きを引きずっている人間。
持病が活性化している人間。
出勤できなくて「本当に姿をくらましている」人間。
この3種類の人間でもって構成されている職場って……
「それって、どうよ?」と思ったりしつつ明日も出勤するのである。


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