白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2001年12月29日(土) それが幸せに結びつくのではない…と。

待望のお正月休み初日。
ゆ〜〜っくり布団にいて、のそのそ起床。
軽い朝食の後で銀行や郵便局へ。
たまっていたメールの返事を書いたり、本を読んだり、昼寝をしたり。
夕方まで実に「まったり」とした時間を過ごした。

夕方、地元の友人と待ち合わせて食事に出掛けた。
私とは正反対の性格の彼女は、地元で保母のアルバイトをしている。
メールや電話のやりとりはしているが、生で会うのは半年ぶりだった。

半年ぶりに会った彼女は何故か冴えない顔をしていた。
お互い空洞になっていた時間について報告をする。
私の半年は、自慢ぢゃないがワイルド・ワイドだった。
彼女の半年は取り立てて事件もなく凪のように穏やかなものだったらしい。

報告だの、趣味の話だの、食事をしながら取りとめなく話をした。

たくさんの会話の中で行き着いた1つの形は
彼女がよるべない愚痴や弱音を吐き出して
私が彼女を励ます。もしくは慰める。というものだった。

恋人こそいないものの
両親健在で、仕事も楽ちんで、素敵な住宅に住んでいる彼女と
恋人もいなかったりして
オヤヂは死んで、仕事はハードで、おんぼろ長屋に住んでいる私と
……表面的なところで見れば、私の方がずっと不幸そうであるし
実際に「不幸な状況」と言っても差し支えはないのだけれど
人間は「そこそこに満たされている」からといって
それが幸せと結びつくのではないのだと思った。
もちろんハングリーな状況が幸せだなんて、口が裂けても言いたくないが。

別れ際に彼女が見せてくれた覇気のない笑顔が気に掛かって仕方がない。
だからって私が「何」を「どう」することもできないのだけれど。
私は彼女の友人ではあるけれど、家族でも恋人でもないのだから。
もしかすると、家族でも恋人でも、どうしようもできないのかも知れない。

彼女は「生きるエネルギーが希薄」なタイプの人だとは思っていたけれど
それにしても今日は頼りなげで、なんだか危なっかしい感じがした。
女性の29歳というのは悩める年頃なのだろうか。

くだらない事に腹を立てたりする私の「余分」なエネルギーでよかったら
彼女に分けてあげたいなぁ……と思ってしまった。
↑そんなもん、いらないかも知れないが
そう言えば、彼女はほとんど「怒る」ことをしない人だ。
私は彼女と長い付き合いをしているが彼女が熱くなったり激している姿など
ほとんど見たことがないような気がする。
これもまた、個性……なのかも知れない。

久しぶりの再会は嬉しくもあったけれど
心にどこか引っ掛かる物があった。
みんな色々な時間を過ごしているのだなぁ……なんてシンミリ思った。


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